「イスラム社会の理不尽さをまざまざと見せつけられる105分」白い牛のバラッド ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
イスラム社会の理不尽さをまざまざと見せつけられる105分
夫を冤罪で失ったシングルマザーが非情な現実に立ち向かっていく様を緊張感みなぎるタッチで描いた社会派サスペンスドラマ。
イスラム社会における理不尽さをまざまざと見せつけられる105分だった。
ミナは夫の死刑が納得できず担当判事の謝罪を求める。しかし、まったく取り合ってもらえないどころか、死刑は神の御導きだから諦めるしかないと一蹴されてしまうのだ。仕方なくミナは法的手段に出ようとするがそれも門前払いされてしまう。日本に住んでいる我々からすれば考えられないことであるが、それがまかり通ってしまう所に愕然としてしまった。
映画冒頭で出てくるが、牛はコーランにおいては神に捧げられる生贄ということだ。その意味では、正にミナの夫はその生贄=犠牲者になったというわけである。
そんなミナの前に亡き夫の友人を名乗るレザが現れる。昔の借金を返済に来たという彼は、不幸のどん底で悲しみに暮れる母子を不憫に思いながら色々と世話を焼くようになる。ところが、実は彼には”ある思惑”があり、そのためにミナたちに近づいてきたのだ。物語はそれを徐々に解き明かしながら、やがて彼らに訪れる残酷な運命を描いていく。最後は実にやるせない思いにさせられた。
神に捧げられる生贄=死ということで言うと、本作ではもう一つ重要な死が中盤で描かれる。それはレザのプライベートにまつわるエピソードなのだが、これはちょうどミナの夫の死と”対”になるエピソードとなっている所に注目したい。これもまた神の御導きと解釈すれば、実に皮肉的な運命と言わざるを得ないだろう。
本作は、このほかにビタの親権を巡って争われるミナと義父の軋轢、法曹界の裏で横行する不正等、様々な問題が取り上げられている。一見すると散漫になりそうなのだが、最終的にこれらはラストのミナの悲劇に結実するため、そこまでバラバラな印象は受けなかった。むしろコンパクトにまとめられている分、鑑賞感は濃密で、よく練られている脚本だと思った。
唯一腑に落ちなかったのは、ビタの親権を巡る裁判の決着のつけ方である。詳細は伏せるが、どのようにして義父サイドは裁判の裏情報を知り得たのだろうか?そのあたりのことが全く描かれていないので今一つ釈然としなかった。
監督、脚本は本作でミナ役も演じたマリヤム・モガッダムとベタシュ・サナイハという人が共同で務めている。それぞれ初見の監督だが、緊張感を漂わせた演出が続き中々の技量を感じさせる。例えば、終盤の車中のシーンは白眉の出来で、1カット1シーンの臨場感あふれる演出は忘れがたい。
そして、主演も兼任したマリヤム・モガッダムの本作における貢献度は相当なものだと思う。愛する夫を失った喪失感、娘を思う母としての愛、レザとの間で見せる女性としての変容を、実にしたたかに表現し物語に十分の説得力を与えている。イラン社会でシングルマザーが生きることが如何に厳しいことか…。そのことがよく伝わってきた。
イラン映画と言えば、昨今はアスガー・ファルハディ監督が世界的に注目を浴びている。自国に根付いた創作を通じて数々の社会問題を取り上げている作家の一人であるが、とりわけ厳然と蔓延する女性の地位の問題を常に重要なテーマとしている。そのことは本作からも伺える。
例えば、ミナがアパートを追い出される理由一つ取ってみてもそうだ。おそらくこれが男性だったら特に問題にはならなかっただろう。
こうしたイスラム社会の風潮は、ビタの聾唖者という設定にも表れている。監督の弁によれば、彼女は社会に対して声を発せられない、あるいは発したとしても誰にも聞いてもらえないイランの女性のメタファーだということだ。こうした鋭い示唆が込められていることに気付けるかどうかは観た人それぞれの感受性に委ねられる問題である。しかし、声を高らかにして訴える作品よりも真摯に心に響いてくるものがある。
尚、個人的に最も印象に残ったのは、ミナが口紅をつけるシーンだった。劇中で彼女は2度口紅をつけるが、1度目と2度目ではその意味合いは全く異なる。1度目は誘惑を意味し、2度目は復讐を意味している。この演出の妙には痺れてしまった。