「江戸情緒にやや欠ける」鬼平犯科帳 血闘 KeithKHさんの映画レビュー(感想・評価)
江戸情緒にやや欠ける
人間国宝・二世中村吉右衛門丈が身罷られて早や2年半、彼が主演した鬼平犯科帳の最終回がTVにオンエアされて既に7年半が経とうとしています。
改めて彼の偉大な足跡と独特の芸風を偲ぶ思いで本作を観賞しました。
人口に膾炙した名作の映画化とはいえ、時代劇に馴染みの薄い令和の世であるゆえに、事情背景の説明が多く、前半はややモタつき感がしましたが、悪党と悪事がはっきりした後半はスリル感とスピード感が加速していき、観客をハラハラさせて非常にテンポが良くなっていきます。前半は、鬼平が無頼の徒だった青年期に時間を費やしていてもどかしくも思いますが、ここが作品全体の大きな伏線になっています。
後半は、しだいに北村有起哉演じる網切りの甚五郎の極悪非道ぶりが際立っていき、その反動として観客は、鬼平の勧善懲悪ぶりへの感情移入が強まりグイグイ惹き付けられました。そこで演じられる殺陣は、剣捌きの鋭さと速さ、足さばきと体の動きのキレ、腰の据わり方と重心移動の円滑さ、静と動のメリハリが利いていて、大いに見応えがありました。ただ集団での多人数を斬り倒す立ち回りばかりのため、鬼平を演じる松本幸四郎や若い鬼平を演じる市川染五郎の殺陣の技量は判断しかねます。何シーンかは1対1での立ち合いを入れてより迫真性と緊迫感を増して欲しい思いです。
とはいえ、次々と繰り広げられる、たった1人で多人数を相手にする殺陣シーンは、息呑むスリルと圧倒的迫力があって体ごと惹き込まれます。化け物屋敷への一人での討ち入り、罠に嵌められた料亭・大村での騙し討ち、そこから逃げた網切り甚五郎を追った先での立ち回り。多くのカラミをただただ斬り捨てていく殺陣なので、上手さよりも勢いと力強さが漲っていて鬼気迫るものがありました。
そして池波正太郎作品に欠かせない料理映像。芋酒、芋飯、軍鶏鍋は、全て食欲をそそります。食べ物を撮るカットの割り方、微妙なカメラアングル設定、そして鍋や釜、徳利と猪口、卓袱台といった味わい深い設い、これらが相俟って炭の熾った臭い、汁の煮立つ香りが、観客席まで間違いなく薫ってきていました。
カメラ(江原祥二)、照明(杉本崇)、美術(倉田智子)、スクリプター(竹内美年子)、床山(大村弘二)、監督(山下智彦)、京都の現場で鍛え上げられた、日本でも一級の練達たちが腕を振るい各々の技量と才覚によって、一流の本格時代劇に仕上がったと思います。
ただ難を言うと、続編はテレビ放映されるためにテレビ画面風に寄せアップが多過ぎて、その時々に全体像が見えなかったこと、幸四郎の鬼平が吉右衛門の鬼平に比して、ユーモア感は増していたが、それゆえに吉右衛門鬼平が有していた、あの何とも言えない男の艶気が感じられなかったこと、勇壮さ、凛々しさ、精悍さ、といった男っぽさが前面に出て仕上げられていて、それはそれで痛快であり、極悪を成敗した後のカタルシスも得られたのですが、吉右衛門鬼平にあった情感や哀愁には欠けていたことです。
男と女、親と子、友と友、温かくも哀しい人と人との絆の深い情感を、その時代の中でリアルに感じさせる江戸情緒。これをドラマの中で醸成するのが江戸に見立てた景観と造作であり、江戸の食べ物です。
本作では、食べ物は巧く撮られ、家の造作は江戸感覚が漂っていましたが、スタジオやオープンセットでの撮影が多く、京都各地を江戸に見立てたロケ撮影が少なかったように感じます。そのためにしみじみとした江戸情緒感が醸しきれなかったように思います。
観賞後、プロローグでの、鬼平を訪れた‘おまさ’が役宅から出てくる処を上空から撮ったカット、この滋味深い鯔背な美しさと江戸を感じさせる空気感が、残像として強く脳裏に刻まれていました。