「せっかくの秀逸な設定を無駄にしてしまった」CUBE 一度入ったら、最後 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
せっかくの秀逸な設定を無駄にしてしまった
問答無用のシチュエーションムービーだ。ゴーギャンの絵のタイトル「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」みたいな極限状況の中で、偶然に出くわした数名が、外へ出るという共通の目標のために試行錯誤をする。
初対面の人間同士の場合、互いに相手が信用できるかどうかを推し量るのが常だと思うのだが、本作品にはそういう個別の思惑は描かれない。従って駆け引きもない。ただ気の弱い人が気の強い人の主張に従ってしまうという一方的な展開である。だからなのだろうか、物語としての深みが感じられなかった。
全員が同じ服を着ていて、同じような黒いトレッキングシューズ風の靴を履いている。そして偶然に同じ部屋に集まってくる。CUBEは立方体のことで別名は正六面体である。出入口のハッチがそれぞれの面にある。7人の登場人物が死体の真下の部屋で出会う確率はどれほどか。それを算出するためには、部屋の数と人の数を割り出さなければならない。情報が少なすぎる。異常な状況なのに7人全員が日本人というのはどういうことか。
そんなことを考えれば、出会った7人が前に進むよりも、この部屋まで来た道筋についての情報をまず共有しようとする筈だ。その過程で、それぞれがそれぞれに対して信用できる人間とそうでない人間に分別するだろう。7人7様の思惑があるから、なかなか前に進まないはずだ。当然である。極限状況に置かれてむやみに動き回る大人はいない。まずは状況を見極めてからである。その遅々として進まない会話劇を見たかった。
リメイクの元になったカナダ映画は観ていないが、同じ展開にする必要はない。ただ、目が覚めたらCUBEの中にいたという設定は秀逸だから、その極限状況に登場人物を放り出すところまでは同じでいい。その状況の中で、様子見が好きな日本人がどのように感じ、どのように判断して、どんな決断をするのか、そこから先はオリジナルでもよかったのではないか。こういうシチュエーションムービーは、次にどうなるかよりも、登場人物がどうするのかに興味が向く。
しかし本作品は外へ出るという目標よりも、互いの人間関係の変化に主眼が置かれているように思える。つまり登場人物が互いに依存しているように見えるのだ。最後の決断は自分自身で行なうという自立が感じられない。
菅田将暉のゴトウも岡田将生のオチも、抱えるトラウマが現実的にはあり得ないほど大きすぎて、少しも共感できない。やたらに出てくるゴトウのフラッシュバックがクドい。それに杏のカイの無表情には、最初から違和感を感じた。カイが第三者的な立場を崩さないことから、真相を察した観客も多いと思う。こんな真相は不要で、カイの役も不要だ。
登場人物を典型的にしたかった意図は感じられるものの、過度に掘り下げたために逆につまらなくなってしまった。設定が極限状況なのだから、登場人物まで極端な人にすると、対比が弱くなる。もっと普通の人がもっと日常的なレベルで対応した方が、極限状況が際立ったと思う。
普通の人にだってトラウマやコンプレックスや罪悪感はあるが、いちいち他人に説明する人はいない。まして極限状況に置かれたら、そんなことを考える余裕さえないだろう。本作品の登場人物は非現実的なのだ。
こういう作品は登場人物に感情移入できるかどうかがポイントで、感情移入できれば一緒に脱出を図る気持ちになるが、そうでなければ対岸の火事だ。怖さも危機感も絶望感も共有できない。本作品はせっかくの秀逸な設定を無駄にしてしまったと言わざるを得ない。残念である。