狼をさがしてのレビュー・感想・評価
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「真の右翼」とは何を守る者か
社会学者の宮台真司は、従来日本で「左翼」だとされていた人々は、実は精神史上は「真正右翼」的メンタリティで行動していた、と指摘していた。一水会元代表、鈴木邦男の『腹腹時計と〈狼〉』を参照しながら、宮台は「真の右翼とは『情念の連鎖』(を支えるプラットフォームの護持)に連なる者だ」と鈴木は喝破している、とする。
東アジア反日武装戦線〈狼〉・〈大地の牙〉・〈さそり〉のメンバーたちは、過剰で痛々しい程の「加害者性」を意識していた。だから、他国への加害をノンシャランとスルーして、戦後の繁栄を謳歌する企業が許せなかった。政治家ではなく、自分たちと「同じ」国民の厚顔無恥に耐えられなかった。連続企業爆破事件は、そんな彼らの闘争姿勢の帰結だったのかもしれない。そしてまた、天皇御用列車爆破未遂事件は、赤子たる国民の「父」への復讐だったのだ。
さて、宮台はこう整理する。「鈴木(邦男)さんは、よど号ハイジャック事件(70)で『意気に感じた』三島由紀夫が自決事件(71)を起こし、それで『意気に感じた』党派に属さぬ個人の集団が三菱重工爆破事件を起こし、それで『意気に感じた』野村秋介が経団連会館襲撃事件(77)を起こしたことに、『情念の連鎖』を見出します」。「党派に属さぬ個人の集団」とは、東アジア反日武装戦線〈狼〉のことだ。『狼をさがして』でも、朝鮮総連メンバーの文世光のパク・チョンヒ大統領暗殺未遂事件に呼応するかたちで、三菱重工爆破(74)が決行された、と説明されている。そう、東ア反日武装戦線は、「意気に感じて」行動を起こす真正右翼の心性を持つ人々だったのだ。ドイツ文学者で評論家の池田浩士は、本作中のインタビューでこんなふうに語る。「暴力を考える時、それを持ってふるえるのは、圧倒的に権力の側だということだ。個人の側なんて、微々たるものだ。彼ら(東ア反日武装戦線)のやったことは、その瀬戸際にあったのではないか。当然、ひとを殺してはいけない」。
東アジア反日武装戦線に、暴力によらない、より穏健な活動はあり得たか。その命題を受け継いで、様々な市民運動はこれからも続いていくだろう。
サソリは優しい虫なんだよね
理由は忘れてしまったけど。
東アジア反日武装戦線のことを扱った映画を今年見られるとは。なんとも驚きであった。劇場もほぼ満席で、でもそれはわかる、自分が若い頃に比べたらネット、スマホで知ることができる、けどこういうことはやはりclosed で、手に入る情報はかぎられている。
東アジア反日武装戦線のこと、そして、彼らを長く支援する支援連の方たちのこと、死刑制度のこと、さらに東アジア反日武装戦線の武装闘争あるいはテロの背景にある歴史と現在。それらのことを、さまざまな語り口で語られる心情や事実や主張でゆっくりと一緒に考えながら進んでいくような。
池田先生がおっしゃっていたと思うが暴力を振るえるのは権力者の側であり、暴力とは圧倒的なか権力側が持っているということは事実であり、それと闘う側は何をもって戦っていくのか。最近読んだ王力雄氏の私の西域君の東トルキスタンという本でも、
確かに、テロリストはルールを無視し、しばしば民間人や民間施設を攻撃目標とする。だが彼らは劣勢であるが故に、もしルールを守っていたら、何も達成できない。
というようなくだりがあり、もちろん他の方も同じことはたくさんいわれているし、実際に劣勢な方はよくで石礫、どころかなにも戦う術がないことも強いられている。綺麗事ではない、いかなる場合においても、人が人の命を取ること、人が他の人を殺すことは許されない。東アジア反日武装戦線のメンバーや支援者たちは、過ちに気づき反省を重ねそして人の命を奪わないことを全うするために死刑制度反対に連なっていく。
人の命、無差別に民間の人の命や人生を損傷したことに過ちを見出しながら、でも、それでも、、という、さらに巨大で理不尽な暴力搾取差別犯罪に対抗する気持ちもあると思う。
日本のような他者への共感力が希薄な社会では、東アジア反日武装戦線的な考えや行動は広く理解されないだろう。身近に問題があること、在日外国人へのヘイトとか入管問題とか研修生の問題とか、今も同じ文脈同じ理不尽さのまま何も変わらず戦中戦後からほぼメジョリティとしてはかわらず継続している、つまり暴力装置を巨大に持ってるがわは何も変えようとしていない。このもどさしさは、つい、他人の命に対し、でも、それでも、、という気持ちを生んでしまうような気がする、ほんとにもどかしく折り合いつけがたい。そんなことも考えながら、、東アジア反日武装戦線か面白いのは初めに組織ありき、組織と綱領ありき、ではない参集の仕方、そのことも示す具体的ネーミングだなあ、などと、まとまらないことを様々に思った。
傍観者、無関心者であってはならない、、、
も、
なんで作ったの?
なんで今頃こんな作品を作るのか、何の意味があるかが気になるポイントでしたが……
いや、ほんとなんで作ったの?
旧日本軍ならびに、旧体制の日本企業がしてきた、支配環境下での仕打ちに対し、韓国で補償を求めた裁判などの社会背景を受けての、「日本でも怒ってくれた人々がいた、そのルーツをあかそう」みたいな意図は、うっすら感じはしたのですが。
浅い。
切り取り方が一方的、恣意的で、加害者側のみを追ったドキュメンタリー。
被害者については、新聞紙面を映すのみ。
すでに老齢に達した元囚人や家族、支援者たちが、老人たち特有のもったりした抑揚ない喋り方で淡々と。
長い年月と、熟考の末に出てきたにしては、躊躇いながらの、自己弁護と正当化、過去の志の賞賛……
見てて眠い。眠すぎる。
あの時代、学生運動くずれの左翼活動家が幼稚な論理で、身内の考え方だけが正義と偏向した挙句、テロに走っただけなのは既に様々な記録、証言、分析、裁判、ルポルタージュなどを通じてはっきりしているわけで。
たしかに戦時下に日本がしでかした、外国人労働者への不当な扱いは、簡単に許されるものではないとは思う。
元の感情が、優しさや歴史認識の反省から生まれる「怒り」であるのかもしれない。
けれども、どんな義憤であろうと、正義を騙ろうとも、テロの肯定にはなりません。
それを肯定してしまうと、オウム真理教や、911すら正義になってしまう。
戯言(ざれごと・たわごと)だ。
またドキュメントフィルムとして考えた時、編集も単調、社会的意義も薄く、主張を読み取れといった作り方は不親切だし、質の低さ・稚拙さに、純粋に「つまらない」としか感じられなかった。
上映に対し抗議をした団体がいたようだが、これ本当につまらないので話題になって広がるとは思えず、下手に騒がずほっといたほうがいいんじゃないかと思いました。
典型的なプロパガンダ映画
非常に良くない映画だと思う。
それは、探しているはずの「狼」をろくすっぽ探してないとか、死刑囚には会えなかったってあっさり諦めてるとか、そんな理由ではない。
典型的なプロパガンダ、アジテーション映画だからだ。
洗脳的と言ってもいい。
この一見懐古主義を装っている映画は、
中身に非常に良くない内容が含まれている。
反日は韓国とリンクし、
それはアイヌに、なぜか日雇労働にとリンクしていることになつている。
それは、監督が韓国人だからで、
もとは西成で話を聞いたからだとわかる。
でも、日雇労働は在日か?とか、学生運動と日雇労働に関係が?とか、もちろんゼロではないことを大きくみせていく。そして、それを強引に話を進めていく。
中盤、意味なく恐山の映像が流れる。そこに墓があるかのように。墓なんかあると一言も言わないし、イタコに関係もない。
また、
冒頭に「反日武装戦線」はタブーであるというが、
タブーではない。いくつも作品もあるし、テレビでも流れている。
でも、この映画では、日本ではタブーということになっている。
さらには、反日武装戦線側からのみの一方的な描写。
本来なら、被害者側の描写もあるべきだ。
しかし、この作品はそういう、細かいことからきちんとやってないから、いや、むしろ、わかったうえでやらないから、プロパガンダと言わざるを得ない。
それは他にも多数ある。
むしろ、全編そうだと言っていい。
思想犯が、
思想を変えないのであれば、
警察、公安はマークするべきだ。
いや、マークしなくてはいけない。
そして、それはこの作品の監督もしかりだ。
なぜなら、プロパガンダ映画だからだ。
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