「テロ集団の本質を明らかにした」狼をさがして 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
テロ集団の本質を明らかにした
東アジア反日武装戦線は幼稚な人間たちの集団だったという印象だ。終映後のトークでの二人の男性が東アジア反日武装戦線を前向きに評価する風な話をしたのを聞いて、ますますその印象が強くなった。評価の仕方が感傷的だったことが大きいが、事実を間違えた発言があったことも大きい。二人のゲストのひとりは会場に来ていて、もうひとりは長崎からオンラインでの参加だったが、会場に来ていた方の男性は、三菱重工本社ビルの爆破で8人の死傷者を出したと発言していた。これは明らかな間違いで、正しくは8人の死者と380人の負傷者、もしくは400人近い死傷者と言うべきである。この間違いは大きい。この男性はデータさえもきちんと把握しないで情緒的に発言しているという訳だ。狼という名前がカッコいいなどと低レベルの話もしていた。テロ集団の分析は情緒でなく正しいデータを踏まえた上で論理で行なわなければならない。終映後のトークはあまりプラスになることはないが、今回のトークは明らかにマイナスになってしまったと思う。
東アジア反日武装戦線のメンバーの多くは学生である。日本が大東亜共栄圏と嘯いた戦争でアジアの人々に甚大な被害を一方的に与えたことについて、国を挙げて戦争に加担したにもかかわらず、誰も反省していないことを糾弾する。そして朝鮮戦争とベトナム戦争の特需によって急激な経済発展を遂げた中で、戦争の加害に対する補償や謝罪はもう十分に行なったという雰囲気が醸し出され、豊かになった生活を暢気に楽しむ世の中が許せない。特に、戦時中から朝鮮半島の人々や中国人に強制労働させた挙げ句に、彼らのうちで反旗を翻した人間を皆殺しにした企業が許せない。だから企業を爆破する。これが彼らの理屈である。
理屈はともかく動機が何だったのかと考えると、それは彼らの怒りだと思う。怒りを生む元になるのは常に被害者意識だ。国家権力を日本帝国主義と決めつけ、戦争で被害にあった人々、労働力を搾取された貧しい人々、差別され虐げられた人々と自分を同化させることで被害者意識が生まれ、怒りの感情が生まれる。社会に理解してもらえないと考えることで怒りはますます募り、孤立して過激な手段を想像し、正当化する。
当方も街で警察官の集団を見かけると妙な気分になる。石川啄木ではないが、強権に確執を醸すようなところが当方にもあって、権力に対する憤りと恐怖がない混ぜになった複雑な感情が湧き起こるのだ。しかし常に冷静になって思う。確かに警察は暴力装置である。国家が暴力を独占しているのは国民が国家に暴力装置の存在を許し、それが国民の生命、身体、財産を守るために機能することを期待してのことである。現在は国家権力が正しく機能せず、権力者を守るために暴力装置が働いている部分もあるが、一方では私的な暴力や詐欺から被害者を守っている部分もある。
そもそも民主主義はヴォルテールが言ったとされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉、つまり表現の自由と権利に支えられている。それは寛容の精神とも言われ、互いに互いの発言の権利を認めることである。
日本の戦後民主主義について語られることで外すことが出来ないのが「寛容のパラドクス」というテーマである。大江健三郎が恩師である渡辺一夫さんから課題を出されたエピソードで有名だが「寛容は不寛容に対しても寛容であるべきか」という問いかけである。
東アジア反日武装戦線の人々には、寛容についての考察が不十分であったと思う。それはつまり、民主主義についての考察が不十分であったということである。怒りの感情を爆発させることは大抵の場合不幸な事態を招く。テロを実行する前に少しでも表現の自由や寛容のパラドクスについて考えれば、自分の意見が通らないからといって他人を殺傷するのがどれだけ幼稚であるかに気づいたはずだ。しかし彼らは気づかない。子供が自分の幼稚さに気づかないのと同じで、東アジア反日武装戦線の人々もまた、視野狭窄で自分のことが見えなかったのだと思う。
本作品は日本語で語られる部分が殆どだが、韓国映画である。変にテーマを振ったりしなかったから、登場人物は思うままに発言していたと思う。その発言から彼らの本質が透けて見える。つまり被害妄想と独善的な怒りと視野狭窄が、東アジア反日武装戦線というテロ集団を支えていたのだ。その図式は実はどのテロ集団にも当てはまると思う。トークのゲストはそのあたりについて何も触れることが出来なかったが、映画としてはテロ集団の本質を明らかにしたことで、意味のある作品だったと思う。