「被害者という「強者」と加害者という「弱者」」AGANAI 地下鉄サリン事件と私 川柳児さんの映画レビュー(感想・評価)
被害者という「強者」と加害者という「弱者」
オウムの現役信者を映画に出演させ、今の想いを吐露させた、という意味での価値は感じるが、どうも観ていて気持ちのいい映画ではない。
鑑賞の最中、監督(サリン事件被害者)の、荒木氏に対する言葉、強要がどうしても気になる、というか不快だった。
荒木氏本人は、謝罪の意志はないにもかかわらず、そして監督自身もそれは分かっているだろうにもかかわらず、何度も何回も、しつこく謝罪を強要する。
挙句には自分の親まで連れて来て、謝罪せよ、と言外に強要する(あれは完全にリンチやわ)。
二人の出身である関西を旅するのだが、京都大学はもちろんわかるが、その他の場所は、なぜそこへ行く必要があったのか、何のための目的地なのかははっきりせず、もやもやする。
また、最後の方の(おそらく京都と思われる川沿い)でのインタビューは、延々と質問が同じことの繰り返しのように聞こえて、段々眠くなってしまった(周りの人の足音くらいはカットしといてほしい)。
にもかかわらず、一方で非常に重要であろうと思われる、荒木氏が実家に帰るシーンは全く撮られていない。
監督が荒木氏に対して、「僕の気持ちが分かると思うので、ご両親に会ってください」と言うのであれば、荒木氏の家族を映画に収める必要はなくても、荒木氏が確実に実家に入っていくまでのシーンは撮るべきだろう。
映画を観た後、監督のインタビュー記事を読んだ。
「謝罪を強要したのではなく、荒木氏にオウム真理教を辞めてほしかった」と述べられていた。
なるほど、確かに荒木氏は今でも麻原への信仰をやめていない。
麻原があの大事件の首謀者である事も認めようとしない(弟子たちが勝手にやったと思っている節がある)。
荒木氏にとって謝る事は、麻原が犯罪を犯したと認める事。
しかし、認めると彼自身のアイデンティティーが失われてしまう。それを恐れて、荒木氏は頑として認めないのだろう。
ある意味純粋。でも、それ以上に哀れ。そう、荒木氏は哀れとしか思えない。
監督の母親が、「まだ信じたはんのんやなぁ。かわいそうに」と言ったようだが、まさにその通りだ。
しかし、それならそれで、監督も、もっと上手くアプローチできたんとちゃうかなぁ。
自分やったら、こう言うなぁ...
「あなた、麻原を信じてる、彼があの事件を起こしたかどうかは分からない、と言う。
でももし無実なら、なぜサティアンの中で隠し部屋に逃げ込んでいたのか? 無実なら堂々としていて、逃げ込む必要なんかなかったでしょう?
しかも、警察に見つかった時、小便漏らしてましたよね? そんなもんなんですか、教祖たるものが?」
と、荒木氏が崇拝する麻原の欠点を徹底的に突いて、
「麻原なんて、ただの詐欺師」
という事実を突きつけてやればよかったのだ。
しかし一方で、荒木氏の弱さ故、謝罪=彼の自滅、死。つまり自殺までしてしまいかねない危うさも感じた。
興味深いという意味で面白い映画ではあったが、被害者という「強者」と加害者という「弱者」の『見世物ムービー』的な印象。
万が一、テレビで放送することがあった時、観るかなぁ~。非常に微妙なところである。