劇場公開日 2021年3月20日

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「逆に反社会勢力の存在理由が理解できてしまう映画」AGANAI 地下鉄サリン事件と私 doronjoさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0逆に反社会勢力の存在理由が理解できてしまう映画

2021年4月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

地下鉄サリン事件の被害者でもある坂原監督とオウムの荒木さんのドキュメンタリー。

荒木さんへの集団リンチにより、逆にオウムへの引きこもりを促進させる映画のように見えて少し後味が悪かった。


「贖い」、「謝罪」を求められる辛い撮影になるのを分かっていながら撮影を受けた荒木さんの無邪気さ、真面目さ。

一方で、監督の「贖い」要求ありきの姿勢、( 特に京大周辺エピソードでの)彼の信仰をバカにする発言の連発…真摯に向かい合っていないと感じてしまった。

監督は家族に関する発言を執拗にしており、監督と荒木さんの親に会えばきっと「こっちの世界」に戻ると信じていたのだろうと思う。
けれどもそれは不発だった。
監督は口を割らぬ犯罪者に警察がするように、時にやさしく、時に厳しく接するが、オウムを否定させることも明確な謝罪をさせることも結局はできなかった。

どうしてなのか…それをもっと深く追求してほしかったと感じた。

監督はその理由に「マインド・コントロール」以外の答えにたどり着けなかったのではないか。

監督が空海の話を出して「オウムを相対化できていないだろ」みたいなことを荒木さんに問い詰めるシーンがあったけれども、監督自身が通常世界を相対化できていないからオウムを馬鹿にした発言を荒木さんの前で繰り返せたのだろうと思う。

本当は、「5時間あれば説明できる」みたいな荒木さんの弱い抵抗を拾い上げて、5時間傾聴するようなことが必要だったのではないか。
(オウムは若き荒木の悩みととことん向き合っただろう)


どうして、荒木さんがこんなに世間から叩かれているオウムを去れないのか?
この映画から見えるところで考えてみた。

荒木さんがオウムに行ったトリガーは

・ 兄の病から学ぶ諸行無常さを普通の人の感覚で受け入れられない
・ 子供の物欲消滅体験
・ 麻原彰晃と対峙して食や性といった欲求が消えた非日常体験

あたりか。
要は、普通の人が大切にしているものを同じように感じられない、価値観が違う。
価値観の違いすぎる人と一緒に生きるのは苦痛である。
(我々は「オウムがどこかで活動している」という事実だけで苦痛なように)
それで、荒木さんは出家したのだと思う。

だから、オウムをやめさせたかったら、彼が苦痛でないと感じる、彼を受け入れる別の場所が必要なのだ。

だが、この映画を通して監督やマスコミが荒木さんに教えたのは、「やはり、通常の世界では自分を受け入れない」だった。

30年間信じてきたものや付き合ってきた人たちを否定するというのは本当に難しいことだ。
それができるとしたら、捨てたものを満たす何かが必要だろう。

しかし、この映画では、あの手この手で彼に Noを突き付けるが、その代替は与えない(あえて言えば両親からの承認?)。

それでは変わらなくて当然だろうと思った。


元反社会グループの一員だったら、雑な扱いをしてもよい。
もしそれを当然と感じてしまう人が多いのだとしたら、それがオウムのような逃げ場所の価値を作ってしまう力になる。

そのことに監督も観ている我々も気付かなければならないと思った。

*
と言いつつ、もし自分や大切にしている人が事件の被害者だったと想像したら、「お前ら被害者の顔が見えていないから冷静でいられるんだろ!ほら、向き合えよ!」となってしまう気持ちは分かる…。

doronjo