劇場公開日 2021年6月18日

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「家族は悲劇なのだ」トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0家族は悲劇なのだ

2021年6月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 ひとりの悪人の生涯を、サイコパスの母親との共依存の精神性を中心に描いた作品である。どこか大森立嗣監督の映画「MOTHER マザー」に似ている気がしたが、「マザー」が現代日本での物語なのに対して、こちらは19世紀のオーストラリアが舞台であり、社会はアメリカの開拓時代のような雰囲気である。つまり登場人物は無法者ばかりだ。必然的に物語の展開はまるで違ったものになる。
 ジョージ・マッケイが演じた主人公ネッド・ケリーは大して魅力的な人物ではなく、ラッセル・クロウが演じた山賊のハリー・パワーや、ニコラス・ホルトが演じた警官のフィッツパトリックのほうに人間的な奥深さを感じた。俳優の力量差もあるとは思うが、ネッドの人物像に由来するところも大きい。

 共依存の関係は、世界観を相手に委ねてしまう関係と言っていい。息子は母親に褒められるために場合によっては命を賭ける。本人は世界観を持たず、母親のものの見方がすべてだ。その母親は、他人との関係を支配するかされるか、優位に立つか劣位になってしまうかだけでしか捉えられず、イギリス人はこうだ、アイルランド人はこうだというステレオタイプの考え方しかできない。息子を学校に行かせてやるという金持ちの提案を断ってしまう。学問によって息子が広い視野と世界観を身につければ、自分を見捨てて去ってしまうことが解っているからだ。それならいっそのこと息子を売ったほうがいい。

 息子は母親と同じものの見方、つまり他人に対して優位になることしか考えることが出来ず、関係性を超えた本質を捉えることが出来ない。簡単に言うと洞察力が欠如しているのだ。人間関係で洞察力が欠如すると、誰も従わないしついて来ない。ただし商才があって金をばらまくことができれば別だ。十分な報酬を与えれば、時として暴力を振るっても、手下は離れない。しかしネッド・ケリーにはその才覚はなかった。つまりケリーギャングは、最初から末路が見えていたのである。主人公の行く末がほぼ見当がついてしまったから、鑑賞の途中から退屈な時間が続いてしまった。
 山賊のハリー・パワーにずっと付いていく生き方もあったと思う。母親との共依存の精神性を断ち切って、悪党のハリー・パワーの生き方を学び、その生き方を超えていく。そうすればネッド・ケリーはどうなっていただろうか。しかしそれはまた別の物語だ。

 本作品は共依存の家族が広い視野を獲得することなく終わる悲劇を描く。家族第一主義のアメリカ映画には珍しいが、製作者側は、たとえ悲劇であろうと家族が大事なのだという世界観で製作したのかもしれない。ところが鑑賞する側は家族は悲劇だと受け取る。現に殺人事件の過半数は親族間で起きているではないか。つまり家族は悲劇なのだ。

耶馬英彦