「【違和感、そして、トゥルー・ヒストリーの意味と、もう一つのメッセージ】」トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【違和感、そして、トゥルー・ヒストリーの意味と、もう一つのメッセージ】
この映画の突き付ける違和感は何だろうか。
冒頭の、「この物語は全ては真実ではない」というテロップもそうだ。
僕は、この作品は「全体を通して」、もっと大きなテーマを突き付けているのではないのか、もっと詳しく言うと、きっと原作も含めて、このオーストラリアという国の抱える、そして、これからも抱え続けるであろう、平等や民主主義に対するジレンマを表しているのではないかと思う。
ネッド・ケリーの駆け抜けるような短い生涯。
支配や差別、貧困に立ち向かう迸(ほとばし)るようなパワー。
そして、愛情深さ。
ネッドは、オーストラリアでは義賊として人気が高い。
貧しい人に施しをしたり、彼らを代表して権力に抗ったからというのが、その理由だ。
彼は、 ”as game as Ned Kelly(ネッド・ケリーのように勇敢に)”とオーストラリアでは讃えられる対象なのだ。”game”は、勇猛果敢にという意味だ。
義賊としては、日本の石川五右衛門や、アメリカのビリー・ザ・キッドも人気があると思うが、どこか、それとは異なる、オーストラリアのシンボル的なところがあるのだ。
冒頭部分で語られるように、ネッドの父親の祖先はイギリス人流刑者だ。
高校の世界史でイギリスの産業革命を勉強すると、農地のエンクロージャー(囲い込み)によって農地を追われた農民が都市部で労働者となり、イギリスの産業革命を支えたと習ったのを覚えている人も多いのではないか。
しかし、実際は、工場で労働者の職にありつけた人は決して多くはなく、相当数が犯罪者になっていた。
そして、イギリスは、アメリカの独立に伴い、流刑地に困り、オーストラリアを新たな流刑地に定める。
こうして、送られてきたなかに、ネッドの父親の祖先がいたのだ。
母親はアイルランド系だ。
アイルランドは長い間、実質的にイギリスの支配下にあり、豊かな農地はイギリスが抑え、もともといたアイルランド人は痩せた土地でジャガイモを主食にして生をつないでいた。
しかし、19世紀、そのジャガイモに疫病が広がると、当時800万人いたとされるアイルランド人口のうち、100万人が餓死、100万人が移民として国を後にしたと言われている。
多くはアメリカを目指したが、一部はオーストラリアにも移り住んだのだ。
因みに、この時、アメリカに移民した家族の中に、アメリカ元大統領ケネディの祖先がいた。
ネッドの祖先は、はるか遠い昔から、イギリスの苛烈な支配や差別に苦しめられていたのだ。
そして、その圧力や支配、搾取、差別、暴力や不条理に抗おうとするネッド。
作品で、淡々と描かれる、こうした場面は、僕の目を釘付けにし、時間はあっというに感じる。
ただ、この作品にはネッドの義賊としての一面は描かれない。
なぜだろうか。
ネッドの死刑には、反対する人々から8000もの多くの嘆願書が寄せられたと言われている。
最後の場面、人々に囲まれながら、アメリカのトマス・ジェファーソンを引き合いに出しなが、自分達の歴史について話す場面がある。
1880年、ネッド・ケリーの死刑から、僅か20年後の1901年、オーストラリアは、イギリス連邦の一部としてだが、イギリスから独立する。
そして、1850年ごろに活発化した、金鉱の発見によるゴールドラッシュに伴う原住民アボリジニーの土地収奪、非白人労働者の流入と、抑圧と苛烈な差別は、つい数十年前まで、オーストラリアでは白豪主義として続いていたのだ。
そう、オーストラリアは、イギリスへの継続的な従属を受け入れながら、そして、過去の暗い歴史や、差別に蓋をして独立したのだ。
イギリスの支配や何かに抗って独立を勝ち取ったわけではないのだ。
そう、この国にトマス・ジェファーソンはいなかったのだ。
この作品は、僕は、ネッドのような苛烈に抑圧された人々がいて、それに抗うように多くが命を落としたという事実がある一方、こうした後ろめたさに蓋をするように、ネッドは祭り上げられた存在になっているのではないのかと疑問を呈しているのではないかと思うのだ。
ネッドは、自分達や友人、家族の自由のために、苛烈な支配や差別、不条理と戦ったのだ。
その短い迸るような青春。
そして、偶像化されたイメージ。
この作品には、こうしたものを異なるものとして理解し、自分達の歴史を見つめ直そうというメッセージが込められているように感じる。