「なんと繊細で残酷か」ファーザー grumaruさんの映画レビュー(感想・評価)
なんと繊細で残酷か
■自分が認知症になるとは?
男性は5人に1人、女性はなんと2人に1人、寿命が尽きる最後の5年間で認知症に罹かります。
人生を最後まで見通す時、これだけ多くの人が認知症になる事実を踏まえると、「自分は認知症になるかも」という想定は不可避です。
しかし、本当に認知症になることが不幸なのでしょうか?
病気の知識はあったとしても、認知症になった自分は一体どう感じ何を考えるのか良くわかりません。
■新しい視点で認知症の日常を描く
『ファーザー』は、認知症の日常を新しい視点で描く映画ですが、特に認知症に罹った人が見ている世界を教えてくれます。
ある日、アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーは、娘のアンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられます。ところが、自宅のフラット(アパートメント)には、アンと結婚して10年になるという見知らぬ男が現れます。実際にアンは、ロンドンに恋人と暮らしています。
この辻褄があわない状況に、われわれ観客は混乱しますが、ようやくそれはアンソニーが見ている世界だと理解が至ります。
アンは、父の日常生活をサポートしてもらうため介護人を手配しますが、アンソニーは癇癪を起こしトラブルになります。
アンは、アンソニーを引き取って3人で暮らし始めますが、アンソニーはそこを自分のフラットだと勘違いします。
別の日には、亡くなった娘が生きていると言って周りを困惑させます。
こうして認知症は、日増しに進行していきます。
そして最後は、施設に入所したことも、自分の名前もわからなくなります。
■認知症の人が見ている世界
アンソニー・ホプキンスが演じる認知症状の描写は、われわれに認知症のリアルを伝えます。
ざっと取り上げるだけでも・・、アンから直前に聞いた予定を忘れる「短期記憶の低下」、自分の経歴を勘違いする「エピソード記憶の低下」、今いる場所や時間が混乱する「見当識障害」、介護人に対する「暴言」、時計を盗まれたと勘違いする「物盗られ妄想」、同じ体験を二度する「幻想」、といった典型的な症状が次々と現れます。
そして、認知症状が悪化していく様子は、ドキュメンタリーともいってもよいものです。
ただそれだけでなく、この映画は認知症の「心の世界」に迫っています。
この映画は、第三者視点・客観的視点を徹底して貫いています。そのなかで、次々と起こる出来事の矛盾を通じて、認知症のアンソニーが見ている世界を描くことに成功しています。
しかし、アンソニーが抱く混乱や不安、諦めなどの本人の心境には立ち入りません。
故障したCDプレイヤーが、アリア「耳に残るは君の歌声」を繰返し再生する場面は、アンソニー自身が抱えている底知れぬ不安を感じさせます。
■認知症には2人の患者がいる
もう一つ、この映画の特徴は、やはり客観的視点から「世話する人」と「世話される人」という二つの立場を描き分けているところです。
認知症には2人の患者がいるといわれます。アンソニー本人の苦しみはもちろんですが、日常的に世話をするアンの悩みや悲しみはそれに匹敵するものです。
認知症の進行で、周りの人は日常で起こりえない様々な場面に遭遇します。介護に伴う労働はもちろんですが、例えば、記憶障害は家族の記憶にもかかわるものも多く、必要以上に傷つくことがあります。アンもアンソニーの言葉に傷ついていました。
しかし、この映画では、アンの苦しみを必要以上に描いていません。その代わり、アンを取り巻く人々がその都度登場し、感情を表します。
アンの恋人や見知らぬ男は、アンソニーに対する怒りを露わにし、介護人は戸惑います。そして、アンは悲しみ、涙します。
心情を分担させて描くことで、「世話する人」の苦悩を浮き彫りにしています。
このように認知症という現実を、この映画は極めて繊細に描きます。
それゆえ、認知症の残酷さが、われわれに突き刺さります。