「過不足なく認知症そのもの。」ファーザー movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
過不足なく認知症そのもの。
何もかもがすべて、認知症の方そのもの。
特有の目の感じまで、そのもの。
アンソニーホプキンスは誰かを参考にしてアンソニー役を演じたのかもしれないが、本当に認知症なのではと疑ってしまうほど。
健常者から見ると十分攻撃的な時もあるが、これはレビー小体型ではなく、アルツハイマー型。
作品内は認知症の認知世界で描かれているため、時系列が思い出す順で、バラバラ。
娘のアンを思うと、認知症になった父親に悪気は一切ないだけに、吐き出す場もなく、本当に気の毒で。
時系列順に並べてみると、おそらく下記の流れだろう。
幼い頃から姉妹のうち姉のアンよりも妹のルーシーの方をアンソニーは可愛がっていた事がよくわかる。
ルーシーは容姿も可愛らしく、画家になり、アンは馬鹿扱いされていたが、ルーシーは事故で亡くなった。
その後痴呆になったアンソニーはしばらく独り暮らしをし、アンは仕事をしながらほぼ毎日通って面倒を見ていたが、大変なのでヘルパーさんにも来てもらう事に。
ところがアンソニーは癖がある性格で、言葉を選ばないところがあり、どのヘルパーさんも長続きしない。
良いヘルパーさんとも揉めてしまったため、アンは夫とイタリア旅行に行くはずが旅程をキャンセルし、次のヘルパーさんが見つかるまで、アンソニーは長年住んだフラットからアン夫婦の自宅へ。
そのまま同居となる。
アンソニーがいる暮らしが長く続き、アンの夫は我慢の限界を迎え、アンは離婚。
その後しばらく、アンの自宅でアンソニーは暮らしていたが、アンにはフランス人のパートナーができて、いよいよアンソニーは施設に入る事になる。
施設に入る頃には認知症もかなり進行していて、職員や医師のことも毎日忘れてしまうし、かなり幼児退行が進んでいる。周りが誰か自分が誰か、どこにいるかもわからない、怖いからママに迎えに来て欲しいと泣きつく。
この間、15年くらいだろうか。
元エンジニアだったアンソニーは快活でよく話す、冗談好きで陽気な性格だったが、認知症になると、言っていいことと悪いことの線引きができなくなってくる。
そのダダ漏れする心の声に、アンがどれだけ傷付くか。
はじめのうちは理性がまさり、忘れてしまっても尋ねては失礼だと躊躇し、遠回しに聞いたり、わからなくても悟られないように話すが、言葉も態度も場面に合わせた適切な選択ができなくなり、分別がつかなくなっていく。特有の、物の場所を把握しきれなくなり、あると思った場所にない=盗られたと言い出す症状も。
思い出すのは、人生で強く気にかけている事ばかり。
つまりは次女のルーシーや、ルーシーが描いた絵、いつでも旅に出られるように肌身離さず着けていたい腕時計など。毎日十何年も見てくれているアンは出てこないのが酷。
しゃんとしていた時を知っているからこそ、進行が悲しいが、元々そうではないと知っているからこそ、嫌いにはならない。
ただ、他人は認知症慣れしていなければそれがわからないから、なんで酷い人なんだと、アンの夫のように腹を立ててしまう。
昔からルーシーばかり可愛がられていて複雑な気持ちも抱えつつ、アンはアンソニーの認知症進行を大きく受け止め、長年生活を合わせ、周りに理解者がいなくても心の整理をし、とても優しく、できた人。
そのアンが、初老に差し掛かるくらいの年齢にも関わらず、髪型が短いことを父親に褒められただけで、ものすごく嬉しそう。
笑顔が、いかにこれまで褒められてきておらず、幼少から妹ルーシーとの扱いの違いを我慢してきて、なのに介護を一手に引き受け、夫や人生を犠牲にし、それでも認知症の父親を受け止めて向き合っているか、全てを物語る描写。とても印象に残った。
作中、アンソニーが相手が誰かよくわからない時に出てくる、シャーロックホームズでホームズの兄マイクロフトを演じるマークゲイティスが余計に、アンソニーが認知症として認知する世界の、不可解で何が何だかわからない怖さ不気味さを助長する。
身近で認知症の過程を見たことがあれば、誇張も何もなく、そのものなことがわかるはず。
自分もいつかなるかもしれない認知症の世界の視点で、実際に認知症の人に携わった時に、心情や進行度を理解し、寄り添える人間でありたい。
身近な人が密かに始まっている時にも、気付けるようでありたいとも思う。