アウシュヴィッツ・レポートのレビュー・感想・評価
全53件中、21~40件目を表示
エンドロールで映画の価値が上がる
物語自体は既視感満載でサスペンスもいまいち。しかしエンドロールで一気に映画の価値が上がります。日本の入管に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマさんの死も、全く同じ構造であることに気づくことができます。アウシュビッツは世界中のいたる所に存続しているのです。
知るべき事実。
戦争映画とか、戦争体験談とか、事実はひとつでも伝えて残すべき、とつくづく思う。アウシュビッツ収容所、当時はどういうものか周囲の国々には正確には知らされていなかったのか、とこの作品で知ることが出来た。今なら人間の優劣なんて決めつけてはならない事と多くの人が思うけど当時の過酷な現状が改めて見せつけられた。
杉原千畝を1000円札の肖像に
皆さんのレビューをじっくりと読んでいるところです。
当地では上映がなかったので。
ずっと願っていることは、標題のとおりです。つてのある方、発信よろしくお願いします。
渋沢栄一とか経済人もいいけれど。
「過ちを繰り返しませぬから」の言葉に、我が国がどこまで命を賭けられるかだ。
自分の国の歴史に我々がどこまで命を賭けて「レポート」できるかだ。
今の時代だから「こそ」観るべき映画
今年90本目(合計154本目)。 ※投稿が1週間遅れです(視聴は7/30)
タイトル通り、また、多くの方が知っている、いわゆるアウシュビッツ収容所をテーマにする実話もの。
ナチスのこの収容所政策は、主にユダヤの方が犠牲になったとされますが、中には政治犯や思想犯、宗教関係者や、障がい者(身体・知的・精神)、同性愛の心を持つ方にも及んでいます。
始まりの「歴史を忘れるものはまた同じ過ちを繰り返す」というメッセージ、また、一見すると無関係なのでは?と思われるエンディングロールで流れる一連のやり取りも、アウシュビッツ収容所(他の収容所も同じ)が、「少しでも気に入らない人」をどんどん迫害していたその忌まわしい歴史、また、現在においても世界各国で程度の差はあっても迫害行為(ヘイトスピーチ的なものも含む)があること、それを念頭に入れたのでしょう。
その意味で、この映画は「ナチス政権の反省すべき点を描く」という点にあるものの、それを超えて、「真に平等で誰もが基本的人権を享受できるべき」という点を伝えたかったというように解することが可能で、その点は、比較的差別が少ないとされる現在の日本(2020~2021)でも十分ではない(いわゆるヘイトスピーチ類型)ことを考えれば、実際のガス殺であろうが言葉による暴力であろうが「等しく」許されるものではなく、「誰もが基本的人権を持ち、何らの理由もなく迫害されたり不当な差別を受けることはない」というごくごく当然のことを日本も達成しているとは現在でも言えず(それでも少しずつ改善はしている)、この映画が「真に」伝えたかった点、それが冒頭とエンディングロールにあること、それは忘れてはいけない、そう思います。
また、日本ではこのナチス政権のアウシュビッツ収容所政策などについては、義務教育の小中や、便宜的な準義務教育といわれる高校でも学習が疎かになりがちな分野です。日本では教科書には文科省の検定基準がありますが、余りにも残酷なシーンや表現は、当該小中高の一般の子供の心の発達を目安に審査されますから、こうした部分には検定意見が入り修正を余儀なくされます。そのため、小中では「アウシュビッツ収容所等の政策があり…」だけであり、高校で多少もう少し踏み込んで習うとは言っても高校教科書の検定基準に緩くはなっても存在はしますから、日本の小中校の義務教育(準義務教育といわれる高校/高専も含む)では、「そもそも論として」こうした歴史については、単純に「アウシュビッツ収容所政策があった」こと以上のことは習わず、その前提で入試等も作られているわけです。
すると、日本の小中高校生は、自分で積極的にこうしたことに興味を持って調べない限りわからないことなのであり、文科省の「心の発達に応じた記述」という点は理解しても、今のままでは日本の教育も「結果的にそうした史実があることを不完全にしか教えない、理解させない」ことに片棒を担いでいるも同然であり、この点については、日本においては(まぁ、検定のルールがあるような国は程度の差こそあれ同じでしょうが)この事情から、「知らなければならない歴史を教えない、遠ざけている」というのが現状であり(文科省の事情は当然理解できる)、検定の範疇に入らない(映倫の審査しか入らない)映画館でこの作品が放送されたことは、相当な評価があるものと考えています。
採点にあたっては、下記が気になったものの、作品の傷ではないので、5.0にしました。
----------------------------------------------------------------------
(減点なし/他事考慮)公開当日、視聴した方には抽選でスロバキアのミニワインが当たる(もちろん、今のルールでは劇場内では飲めない)というプレゼント企画を映画館でやっていたのですが(初日、金曜日のみ)、この作品にスロバキアワインは明示的に出てこないはずです(最後に、赤十字関係者と話をするときに、飲んでいるのがそれ?)。
まして、アウシュビッツ収容所で収容されている方が間違っても好きに飲めるものではないわけであり、「映画の重み」ということを考えた場合、何をもってこんな「趣旨がわからない」プレゼント企画を実行したのかが本当に謎で(この作品をどう解しても、スロバキアワインを飲みましょうという映画ではない)、正直、「これはモラル的にどうなのか…」と思いました。
----------------------------------------------------------------------
ワクワクの冒険活劇ではない。
スロバキア系のユダヤ人がアウシュビッツを脱出する話。
事実に基づいているので、淡々と話が進んでいく。脱出も活劇的ではないしワクワクする要素もない。
命がけで脱出し、現実を世界に知らせても連合国の思惑からアウシュビッツはすぐには解放されず、どんどん人が機械的に殺されていく。
確かにカタルシスには乏しいが、これがホロコーストなのだ。と、いう映画。静かに犠牲者の冥福を祈り、二度と悲劇を繰り返してはならないというメッセージは感じられました。
耐えて耐えて真実を。
シンドラーのリスト以降このテーマの映画増えたけどユダヤ人は人間にあらずだな。
火葬ではなく焼却とは。今でもえげつないことやってる国あるみたいやし。人間って本当にこの世で一番恐ろしい生き物だわ。ああやって命がけで逃げた人たくさんいるのかな。
報告書が出版されたのは7ヶ月が経ってからだった。あまりにも恐ろしすぎて信じてもらえなかった。
今では周知の事実でも、はじめてこの実態を聞いた人間のどれ程が信じることができただろう。信じたとしても、何割かに過ぎなかっただろう。
そんなことを、戦後7,80年経ってもずっと言ってる。だけど、それは言い続けなくていけないことなんだろうな。この手の映画が毎年のように何本も作られている現状は、そういうメッセージなんだろう。だって、現代においてさえ、差別は公然と、しかも、国の指導者クラスの人間の言動に表れている。それをエンドロールを眺めながら、確かにそうだ、こいつらはそうだ、とまざまざと思い知らされる。
かたや、言いはしないが、無策とか無関心というのもどうか。本日8/6、広島原爆投下の日、メディアや政府の広島に対する関心のなさを見るにつけ、だれかが何度でも繰り返し紡ぎ、語り部として残していくことの大事さを思う。
沈黙と忘却の罪
新しく入所してきた人々はまず名を尋ねられる。その後に名前は忘れろ、これからお前たちは番号だと言われる。美しき青きドナウが演奏され、大量に効率的に最終解決-ユダヤ人虐殺ーが実行されたのがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所だ。
赤十字もまずは「当事者の国の」赤十字とネゴシエイトしようとした。今の観点から見ると信じられないが戦時中の組織というのはそういうものなのかも知れない。アイヒマンが作らせたというユダヤ人評議会が収容所への移送者リストを作成したりユダヤ人の財産没収の手伝いをしていたという。それがなければあれほど組織的な大量移送は不可能だったという指摘もある。
アルファベット順に氏名が並べられ住所が記され強制移送目的の為に作成されたオーストリア系ユダヤ人のリスト。これが30分以上も延々とスクロールされる場面ー映画「ハイゼ家 百年」ーが蘇る。個々の人たちの存在と彼らの生活がタイプライター打ちの文字と数字に還元される、権力と暴力によって。タイプライターで書かれたレポートは真実を伝達した、脱走した二人の人間によって。
戦後、みんな「知らなかった」と言った。戦後の西ドイツを包んだ巨大な沈黙が、多くのナチ残党が普通に生活したり産業界に帰り咲いたり反共の組織で要職を占めることを可能にした。空間における罪ー庇い合う沈黙があったからだ。
ポストコロニアルの観点から、ヨーロッパの植民地主義が招いた悲惨とナチスの虐殺は地層で繋がっているのではないかという議論もある。ナミビアでの大規模虐殺(1904~5)、ニュー・イングランドの清教徒達による「インディアン」虐殺、オーストラリアやカナダで発見されている1950年代の先住民の子どもへの大規模虐殺が例えば挙げられる。このような数多くの虐殺の歴史を確認しながらナチのホロコーストを相対化して免罪することもない追悼が提唱されている。時間における罪である忘却に陥らない為に、以前も今もこれからも想起し議論し続けていかなければならない。
この映画は沈黙と忘却に対して静かに警告している。
おまけ
反イスラエルと反ユダヤ主義は異なる。イスラエルの政治に対する批判を安直に反ユダヤ主義と結びつけてはならない。
人間は過去を忘れずに生きられるか
なかなかハードな内容。
脱出シーンは少なく、全体の2/3はアウシュヴィッツの中での残虐な現実を描きます。
拷問、強制労働、ガス室送り、遺体焼却、脱走者の首吊り処刑……
最後の長回しもシリアスで名場面。
しかしこの映画の白眉は、オープニングの文字と、エンディングロールにありました。
オープニングのクレジット「過去を忘れる者は、必ず同じ過ちを繰り返す」。
そしてエンディングの、戦後の欧米政治家たちの、数々の演説。
果たして、人類は過去から学び、忘れずに、過ちをおかさずに生きているのか?と突き付けてきます。
忘れちゃいけないけど忘れてしまいたい
悲劇は世界中でまだまだ続いている、という意味での映画化なのだろうか。
それ(虐待、差別、不法行為など)を知った今、あなたは何をするか‥に尽きるのだとは、思う。
でも、苦しい映画だった。
何故今、アウシュビッツ?
子供の頃、アメリカの戦争ドラマを見ていると大抵 ドイツ人の隊長は高圧的で、残忍、そして理知的で人道的なアメリカ兵隊長。そんな物ばかり見ていたので刷り込みがある。絶対的な悪のドイツ、正義の味方のアメリカ。
だからアウシュビッツを必ず含めてのドイツの描かれ方は仕方ないのかなと思ってしまう。
収容所の様子や大佐の有様を見ていると、忘れたいはずの記憶をえぐられる感じがドイツ国民はするんじゃないかな、と。そして、大人になって自分の国、日本のアジアでの残虐な行いの事を知ると、こういう戦争映画はなんだか辛くてやるせない。
そう言う意味で、それを知った時あなたはどう動くのかと問われている様で落ち着かなかった。
映画なのに、楽しめなかった。見る映画を間違えた気がする、そして再び思う。人間には、暴力性と自分本位と言う原罪があるのだと。
そろそろ被害者視点から脱却した映画を観たい
第二次世界大戦が終了し、76年が経過している。そろそろ、ホロコーストを被害者視点からではなく、ドイツ人側から見た映画が作られてもいいような気がしている。
極悪非道なドイツ人の監督官がいる。息子が東部戦線で戦死したと知らされ、その怒りをユダヤ人に向けている。息子の戦死に何の関係のないユダヤ人たちを虐待するのかその心情が私には分からない。事実を描いてはいるが、真実は描かれていないと思ってしまう。
差別はいけない
一言でいうと、内容はタイトルにあるような映画です。冷静になると、他の映画と比べてどうというものではありません。8月によくある映画の一つで、私は好きなのでよく見ますが、新しさはありませんでした。
もちろんこの手の映画ですから、
ナチスがどれだけ非人道的な所業を行ったのか、ユダヤの人がどれだけ地獄を味合わされたのか見せてくれます。
(ただし同シリーズ映画に比べても、見ているのが辛くなるシーンは圧倒的に少ないです。誤解を招くかもしれませんが、中途半端に感じました。これは、それ以外に見せたいシーンがあるからでしょうが)
お金がたくさんあるのか、ここ数年でよく見受けられるようになったシリーズの映画ですね。
それだけユダヤ人虐殺に世界の目が、関心が向けられているのでしょうか?
1つの虐殺を伝える映画。いやいや、そうじゃないんだ。テーマである差別はいけないよ!を伝えたい映画なんだ。と思って見ていたのですが…
ーーーーー
差別はいけないよ!と伝える演出がありましたが、なぜ同じジェノサイドといわれる某国のことには無関心なんでしょうか?
最近、仲良くしているのでしょうか?そんな訳はありませんよね?米国よりの人たちのはず。
他にはアフリカのことなど、差別は白人の方が住む以外の国にもたくさんありますよ。
(今もなお!)、差別するなという人が差別をしているのだから、この問題の難しさは尽きないのでしょうし、この手の映画も来年以降も引き続き楽しめる、のでしょうね。
あとユダヤ人虐殺だけだめだよ、という差別はいけないよ映画だったようです。
繰り返していけない事とは何なのか?
本作のクライマックスはエンドロールに流れる音声だと思います。オープニングの言葉を思い浮かべながら聞いてました。観賞後に監督のインタビュー記事を読んだら、どうやらこれこそがテーマのようですね。
ホロコースト、ジェノサイド、、実行命令を出した人、実行者達の罪は言わずもがなですが、その人達を生んだのは何なのでしょうね。彼らに権限を与えてしまったのは何だったのでしょう?それを突きつけられます。
大事なのは虐殺の悲劇はどこからは始まったのか?を知らなければならないし、理解しないとならないと言うことだと思います。歴史を知るとは出来事を知ると共に、なぜ起きたのか?を知ることだと思います。そして忘れない事。その重要なことを訴える作品です。と思うと、僕は知らない事多いですね。知らないから過去を繰り返してしまいそうです。いかんですね。
本作、映像作品としても見事です。直接的な描写が少ないのですが、圧倒的な絶望感を出してます。それは映像の色合いなのかもしれませんし、差し込まれる短い虐殺映像のインパクトの強さなのかもしれません。雄弁に語りますが、それは酷さを必要以上に訴えるものではないです。おかしいよね?これ、おかしいよね?を淡々と。
素晴らしいのではないでしょうか?
絶望は味わいたくない。かと言って、不条理な絶望感を味わう人々の上に成り立つ幸せもおかしい。どうすればよいのか?繰り返しますが、過去の経緯を素直に受け入れて学ぶことから始めないとならないのでしょう。
我らの誰もが未来を創るための積み重ねの一部なのでしょう。レポートを届けた彼ら、送り出した人々、無念に命落とした方々の想いは途絶えさせてはいけないんだな。
現在の義務教育にあってこそ必要
クラシック曲をときどき聞く。年に何度かはクラシックのコンサートやリサイタルに出かける。毎年出かけているオーチャードホールのニューイヤーコンサートでは必ず「ラデツキー行進曲」が演奏される。作曲はヨハン・シュトラウス一世だ。「美しく青きドナウ」も屡々演奏される曲である。こちらはヨハン・シュトラウス二世の曲である。いずれもオーストリアのウィーンの音楽家だ。
本作品ではアウシュヴィッツで音楽が演奏されていたことが紹介される。前述の2曲も演奏されていた。クラシック好きとしては軽いショックを受けたが、戦場ではないアウシュヴィッツのような場所を管理するナチス親衛隊にも、ストレスを発散させる機会が必要だったのだと理解した。
本作品は事実に基づいているとのことだ。当方は不勉強にして、アウシュヴィッツで何が行なわれていたのか、本作品を観るまで知らなかった。ただユダヤ人が機械的に収容されて番号の入れ墨を入れられ、順番にガス室で殺されているのだと思っていた。しかし収容されたのはユダヤ人だけではなく政治犯やホモセクシュアルなどもいた。生物化学兵器の実証実験の検体となって殺された人々が数多くいた。それ以外にも逃げようとしたり歯向かったりしてその場で銃殺された人もいたようだ。中には門の梁に吊るされて、時間をかけて縊死した者もいた。
収容所を脱出した二人の若者の言葉が印象深い。
こうしている間にも刻一刻と人が殺されている。
アウシュヴィッツの人々が望むのは空爆によって収容所が破壊され、自分たちも死ぬことだ。
大事なのはこの事実を知って何をするかだ。
二人の若者が情報を託すべきは本来は全世界の人々である。そのためには財力のある者、多くのコネを持つ者に一旦預けるしかない。若者たちのもどかしさと苛立ち、そして不安をこちらも共有した。
情報は全世界に行き渡っただろうか。我々は中学校の歴史でアウシュヴィッツで何が行なわれていたかを学習しただろうか。少なくとも当方にはその記憶はない。高校の世界史でも近代史はカットされていた。遠い昔の出来事も大事かもしれないが、十年後や百年後の未来を考えるためには近代史の学習が欠かせない。現在の歴史教育のカリキュラムは、我々から考える材料を奪っているのだ。
アウシュヴィッツ・レポートの内容を知っていれば、人間が極限状況に追いやられたとき、ごく普通の人間がどれほど残酷になってしまうのか、あるいは従順になってしまうのかがわかる。戦争は国家にとっては利益を得るための人的物的投資なのかもしれないが、個々の戦場や収容所においては人権と人格を蹂躙する恐ろしい現場になってしまうのだ。それを理解することができる。そして考える。戦争を起こさないために我々は何をすべきか。アウシュヴィッツ・レポートは現在の義務教育にあってこそ必要なのだ。
しかし憲法を教えないで道徳を教えようとする国家主義の政権はむしろその逆を行く。戦争は善、負けるのが悪だと。義務教育の授業でアウシュヴィッツ・レポートが紹介されることは、これからも期待薄だ。しかしインターネットの時代である。拡散することはできるだろう。
全53件中、21~40件目を表示