TOVE トーベのレビュー・感想・評価
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”ジェンダー”には絡めないように
先ずは、あくまで史実を元にしたフィクション。その時々の心情などは本人のみしか分るわけが無く、相手も又然り。
それよりも”ムーミン”の作者が実は・・・という捉え方より、何時の時代も冒険者が存在していて、それは誰にも止められないということを改めて認識すべきということであろう。昨今の皇室問題然り、何時だって制度や慣習からハミ出す人は出現する。バッシング位で諦めてくれるならばマシ。不義理を行なおうとも、迷惑掛けようとも、ましてや犯罪もどきであろうと、己に正直であるが故にそれを制御するもの自体が皆無。
良いとか悪いの問題ではなく、そんな世界で生きている自分達をどう収めるか、それが生きてることの意味なのかもしれない・・・
ムーミンになりたい
自分らしく生きることって、簡単そうで難しくって。
なんて素敵な生き方なんだろうと。
ムーミンはたくさんの言葉を教えてくれて、たくさん人生を豊かにしてくれた。その一つ一つがトーベの言葉なんだなって感じます。
思ってたトーベと違う!!
ムーミンのキャラや世界観は好きなので何度かチャレンジして惨敗しています。つい最近も読んでみたけどダメだった。
さて、本人はと思い見てみた。
もちろん映画なんでかなりの脚色はあると思うけど、、、なかなか波乱というか奔放な人生なのね。
北欧では性的マイノリティはキツかったでしょう。
去年見たTom Of Finland思い出したよ。
自分の勝手なイメージではもっと慎ましやかな人、耐える人、、だった。
もう一度原作読んで見ようかなと思わせる本人像、、、たぶん、全く違うムーミンが見えてくる、、、
そんな映画でした。
タイトルが、、
タイトルは「トーベ」じゃなくて「トフスラン」もしくは「トフスランとビフスラン」とかなら良かったのに。
数十年連れ添ったパートナーが存在するのにもかかわらず、短い期間の過去の恋人との話に自分の名前をタイトルに付けて上映されるなんて自分なら嫌だ、、
トゥーリッキとの関係性が見れるのを期待して行ったら出てきたのは最後の方のほんの少しだけ。
もちろんヴィヴィカはトーベに大きな影響を与えた人物だから、映画の内容自体は悪くなかった。でもまるでトーベ・ヤンソンの人生譚のように聞こえるタイトルはやっぱり内容に合ってなさすぎる。
同性愛が犯罪の時代だったとはいえ、トーベは性的マイノリティー自体にそこまで苦悩していたんだろうか、、。どちらかというとヴィヴィカの奔放さに振り回されて苦しむシーンが多かった印象。
性的マイノリティーの苦しみ=自分の芸術とはなにか?!の苦しみ を一緒くたにしようとするのがそもそも間違っているのではないか。
そこが気になって見ている間ずっとモヤモヤしてしまった。
トーベヤンソンの生き方とムーミン の背景
ムーミン の背景が知りたくて鑑賞。彼女こそ芸術家的人生。ムーミン を描いた女性がこんなにも奔放な人生だったとは。歴史的背景を調べて納得。当時女性芸術家が認められにくかった象徴として出てきたのがタバコを吸う画をはずすシーンかな、と思いました。同性愛も認められてなかった中で二人にしかわからない言葉がトフスランのキャラの源だなんてびっくりしました。ラストのダンスはトーベ自身が出てきましたが冒頭シーンと踊り方がそっくり。
ただそのようにある
芸術家だから、ではない。
多くの人が、自分ではない他の人になりたがっている。でも、自分は自分でしかない。
人との出会いが、少し自分を変えることもあるけれど。
今から見ると違和感ないが、中々複雑、多面的、寂しがりやのくせに人に拘束されたくない、ムーミン谷のキャラがみんな入っているような人と思った。
これはだめ
ムーミン好きな人は明るく、楽しい感じでこの映画は見てはいけない。有名人の人生の映画は多々あると思うが、裏の部分はあまり触れない方がいいことが多いと思う。
トーベが同性愛だったのとムーミンの話は別。
ムーミン大好き人はトーベの人生には触れなくていい気がする。
【ドレミファソラシド/大人として、ムーミンをもう少し好きになる映画】
埼玉県の飯能に”ムーミンバレーパーク”ができた時、なんで、バレーなんだよ!?ムーミン谷パークじゃダメなの!?って思った。
でも、ここ、子供が全て喜ぶかといったら、ちょっと違ってて、中には、”カバ怖〜い”と言って泣き出す小さい子もいるらしい。
子供には子供の感性があって、親が思い込みで、子供の嗜好を決めつけるなんて出来ないのだ。
この「トーベ」にも、そんなストーリーが織り込まれている。
いくら、同じ芸術の道を志しても、全く同じというわけにはいかないのだ。人はひとり一人異なるのだ。
でも、トーベのお父さんは、トーベを見守っていたことが判り、胸を打つ。
自分の道とは異なっても、親は子供の成長を見守ることが出来るのだ。
芸術にとって自由であることは重要なことだ。
でも、自由であろうとすると、相手にも自由であることを認めないといけない。
自由は大変だ。
でも、そうした葛藤から生まれる何かもあるはずだ。
この作品は、トーベのアートやムーミンへの取り組み、不倫や、同性愛や、友情や、そして、親子の確執や理解を通じて、大人が、ムーミンを、大人として、もう少し好きになる作品なのだと思った。
僕は、スナフキンと、ムーミンパパ、つくしみたいなのが好き。
ところで、井上ひさしさん作詞の”ムーミンパパの歌”を皆さんはご存じだろうか。
♪ ♪🎶♬🎵
海のうえには なにがある
海のうえには 空がある
空のうえには なにがある
空のうえには シドがある
ドレミファソラシド
♩♪🎶♬🎵
僕はこの歌が大好きだ。
30代、40代はまだまだ迷いの年齢なのだ
どうやらトーベ・ヤンソンの時代は、マンガは油絵や彫刻よりも格が下だと思われていたようだ。トーベ自身も世間の見方に抗い切れず、マンガは生活のためだと言い訳をする。しかしヴィヴィカはあなたの絵よりもあなたのマンガの方が好きだと正直な感想を言う。世間などお構いなしのヴィヴィカの自由な精神がトーベの創作意欲を解き放ったようだ。
それにしてもヴィヴィカという女性は自由奔放という言葉を体現したかのようで、結婚していることに縛られることなく、男でも女でも手当り次第に関係を結ぶ。トーベは嫉妬心を覚えるが、そこは芸術家である。嫉妬心を覚える自分を客観視して、乗り越えようとする。
フィンランドが特別に自由な国だった訳ではないと思う。ヴィヴィカが特別な女性だったのだ。ヴィヴィカに出逢えたことは、トーベにとって幸運だった。大抵の女性は家父長制みたいなパラダイムに縛られて不自由な思いをしていたに違いない。その証拠に、ヴィヴィカはしょっちゅうパリに出かける。フィンランドはヴィヴィカにとってさえも、やはり息苦しい国だったのである。
同じことはフィンランドに限らない。当時の世界は女性解放が端緒についたばかりであった。21世紀の現在に至っても、女性解放は尚も道半ばである。10月4日に発足した岸田内閣の閣僚20人の内、女性はたった3人だ。日本も遅れているが、イスラム原理主義のタリバンが支配するアフガニスタンみたいに、女性の自由などハナから存在しない国さえある。
トーベを取り巻く環境は、女性芸術家にとって生きやすいものではなかった。しかしトーベは、環境に内心まで支配されることはなかった。人間は環境に支配されやすい。戦前の日本の愛国婦人会やヒトラーに熱狂したドイツ人、それに渋谷で集団で騒ぐアホたちもそうだ。仲間とともに意味もなくひとつのパラダイムに酔いしれる。自分で考えないから楽なのだ。
人間は考える葦だが、自分で考える人と人の考えを鵜呑みにする人に分かれる。子供の頃は他人の意見を聞いたり読んだりすると、その殆どでその通りだと思う。しかし沢山の意見や思想に触れるにつれて、食い違いやズレや矛盾に気がつく。一体どの意見、どの思想が正しいのか。そこから自分で考えることが始まる。
本作品はトーベ・ヤンソンの30代から40代にかけての物語で、トーベが迷いから覚めて自分の道を進むようになる姿を描いている。そんな歳になってやっと自分で考えるようになったのかと思う人もいるかもしれない。しかし現実をよく見てみるがいい。女は結婚して子供を産むのが幸せだなどと唱えている年配者はたくさんいる。とっくの昔に終わった筈のそんなパラダイムを後生大事に抱いているのだ。それは自分で何も考えていない証左である。孔子は「五十にして天命を知る」(「知天命」)と言った。30代、40代はまだまだ迷いの年齢なのだ。
トーベは迷いを捨てて、足元を固めた。トーベがふらつくようなダンスを踊るシーンは、その足元の固さを確かめているかのようである。ヴィヴィカの劇団員から「ムーミンはどうしていつも穏やかなのか」と聞かれたトーベは「それは臆病だからよ」と答える。トーベはついに彼女なりの哲学を持つことができたのだ。劇団員は理解できなかったが、ヴィヴィカは即座に理解した。そして笑った。本作品で最も幸せなシーンである。
ムーミンを描いたトーベ・ヤンソンの自伝映画
ムーミンを描いたトーベ・ヤンソンの自伝映画
内容はトーベ・ヤンソンの個人的な交友録などが明かされる感じで
終始新聞の男性、富豪の女性などとの関係の列挙で終わる感じ
なので特に性的に興味がなければ特に観たいとも思わない映像が続く
問題点は
トーベ・ヤンソンのムーミンを生み出したイマジネーションやクリエイティブな部分に焦点を当てずに恋愛観に焦点を当ててしまったからこの映画は失敗したんじゃないだろうか?
誰もムーミンの作者の性的嗜好に興味はないだろう
ムーミンや他のキャラクターがいかに生み出されたか?
どのようにして物語を作ったか?
そうゆう部分にフォーカスすべきだったんじゃないかと思う
ムーミンに関する知識の一つも増えるかな?と思ってみたが
全くそんな事なかったw
ちょっと残念な映画
LGBTQが最近流行ってるからそれで作られたんだろうか?
そんなふうに勘繰ってしまうほど映画として面白みが足りなかったな
世界一有名なイラストレーターであり小説も書くマルチアーティストであり同性愛者(なお、当時は犯罪)な自由人
これ、ちなみにフィンランド本国では週間観客同数1位を連続で記録するなど、ロングラン大ヒットを記録したようです。と、帰りがけに買ったパンフより。
それだけトーベ・ヤンソンと言う人物が彼女のキャラクターと共に、国民に愛されているということでしょう。
でも、これ彼女に縁も所縁もない日本でどのように観るべきか。非常に迷うところです。
実際、この映画一つとっても、
①保守的な芸術家の父の下で生まれたマルチアーティストの先駆者
②1971年までは犯罪だった同性愛を貫いていた自由人
③まだ評価の低かったイラストレーターの仕事を有名な画家の仕事レベルにまで高めた俊才
とエッセンスが強すぎて、一体どの観点から観たら良いものか迷う。
ただ、この①~③全部が組み合わさってトーベ・ヤンソンという人物になるので、まあ、うん。相当突き抜けた方ですね。
途中「ムーミンって何で優しいの」みたいな質問を向けられた時に「愛情が欲しいから」っていうような言葉を返してた記憶があるんですが、あれ、ご本人自身のことですかね。
どちらかと言えばムーミンに関する話と言うより、作者であるご本人の主に恋愛話を中心とした生い立ちについての話。
なお、ラストに出ていた女性はヴィヴィカの元を去り後の、次の(むしろ生涯連れ添った)パートナーさんだそうです。トゥーリッキ氏。
パンフレットを読んだら、もう一回観たくなった。
前情報なしにみた。50年代音楽最高!
ムーミンの世界の見た目が好き
柔らかな色とひかり
コラボグッズとかすぐ買っちゃう
そんな柔らかな印象だけで、ムーミンとは北欧とはと理解したような気になっていたわたし
トーベヤンソンの人となりをほとんどしらずに観て、
びっくり!ワオ!そうか と思って、更に大好きになりました
考え方が違いすぎるお父さんとの関係性
自由でしばられないひと、みたいに振る舞いたくて、
でも本当はさみしかった、愛がほしかったトーベヤンソン
自分に被せてしまった〜
印象的だった場面
ムーミンはどうしてこんなに優しいの?嫌われたくないの?→ムーミンは臆病なの。愛を求めてる。
嫌われないように振る舞う事と臆病な事をイコールにしてないとこ。
アトスの思いやりを、寂しさをうめるために使ったこと。一番傷つけてほしくないひとだった…。
芸術家であることを諦めてムーミンの漫画を描いてとても人気者になる 安定した収入を得る 大人になった?髪の毛をオールバックに
落ち着いてきた時に、最愛のヴィヴィカと再会してしまう。ただ懐かしさやその場の盛り上がりで自宅へ誘うヴィヴィカの言葉に、一回は承諾しながら、やっぱり帰るわと言えたところ(←ここからラスト エンドロールまで泣き通しでした😭)
ムーミン映画ではない
間違ってムーミンの作者だからという感覚で観ると、作品の捉え方を間違える
あくまでムーミンの作者、トーベ・ヤンソンの半生を描いた作品であり、時代背景も含めて彼女がどう思い、感じ、その中でムーミンはどう生み出されてきたのかを知る映画
ムーミンファンの方からすると、もしかしたらスナフキンやトフスラン、ビフスランの創作エピソードに物申す方も居るかもしれない
しかし、大枠ではトーベの自由さによって出来上がったことに変わりはなく、酒飲みでビッグスウィングジャズで踊り狂う姿は紛れもなく彼女の一面なのだろう
ムーミンは踊らない
ムーミンとは真逆のようなトーベ・ヤンソンの弾けっぷりが良かったです。
少し偏った描かれ方かなとは感じましたが、絵がキレイだったし、最後には静寂について包まれた世界を抱えながら跳ね回っているトーベも見ることができたので、良かったかなと─。
ほどよく感動させられました。
ムーミンはおまけです。
「1人の女性の恋愛と生き方の物語。その女性がたまたまムーミンの作者だった」という感じに受け取る方がいいかもしれません。一応ムーミンにまつわる裏話みたいなエピソードもありますが、ムーミンはあくまでも脇役です。それから女性同士のセックスが何度も登場するので苦手な人は苦手かも。(私はもういいよと思ってしまいました。異性同士のシーンだったとしても多すぎると感じます。)ムーミンファンの方はあらすじを確認してから鑑賞するかどうか決めたほうがいいと思います。ポスターほどポップでメルヘンな物語ではないです。トーベは作中で何度か踊りますが、ストレスを感じた時に踊るのです。
美味しそうな料理の代わりに奔放な人生に伴う葛藤が紫煙の向こうで振舞われるフィンランド版『美味しんぼ』
大戦の爪痕が生々しい1944年のヘルシンキ。彫刻家の父を持つ画家のトーベは創作の合間に小さな紙片に独自の世界観の中で暮らすキャラクター達のイラストを描いていたが、それらの小さな作品群は厳格だった父にとっては落書き同然だった。実家を離れてボロいアパートに移り住んだトーベは創作に打ち込むが作品はなかなか世間にも認められず、生活は困窮する。芸術家仲間とあるパーティに出席したトーベはそこで国会議員、哲学者、ジャーナリストといくつもの顔を持つアトスと出会い、別のパーティでヘルシンキ市長の娘で舞台演出家のヴィヴィカと出会い、交流関係が広がっていく中で少しずつ才能が開花し始める。アトスとヴィヴィカとの複雑な恋愛、母との交流、父との断絶、様々な経験がムーミン、ミムラ、スナフキン、トフスランとビフスランといったキャラクターに命を吹き込んでいく。
ポスターイメージのようなカラフルさは殆どなく終始燻んだような映像で描かれるトーベの生き様は保守的な思想に支配された世界の中では実に奔放。様々な困難を自らの力で乗り越えて道を切り拓いていくさまは痛快。現実世界での様々な経験がキャラクター達に投影されていく様子も随所で描かれていますがトーベの周りにいる人達の心情はほとんど描かれないので、常に葛藤を抱えて傷ついては毅然と創作に打ち込むトーベの姿が痛々しいです。特に入念に描かれているのはトーベ以上に奔放なヴィヴィカとの関係。まさにトフスランとビフスランのように寄り添い彼女達だけの世界観に耽溺する様をしっかり強調しているので、物語全体に切ない憂鬱が漂います。もう一点印象的なのは父ヴィクトルとの関係。芸術に対して確固たる理念を持つ父と折り合いを付けられないすれ違いに、自分自身と娘の関係を重ね合わせてしまい胸が詰まりました。随所に挿入されるジャズナンバーをバックに無心に踊るトーベの姿と様々な人達が燻らせる紫煙がノスタルジーを騒つかせる作品でした。
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