「悪ふざけの中で死の恐怖がそれぞれの心の底に澱のように溜まっていく」くれなずめ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
悪ふざけの中で死の恐怖がそれぞれの心の底に澱のように溜まっていく
日本では友達の存在を善とするパラダイムが支配的だが、東進ハイスクールの林修先生が、勇敢にも友達不要論をテレビで言ってのけたのには少なからず感心した。林さんの論理は至って単純明快で、学生のときの友達でいまだに付き合いのある人は何人いるか、ほとんどいないだろう。しかし大切な関係であればいまも続いているはずだというのである。つまり学生時代の友達との付き合いは時間の浪費でしかないという訳だ。まったく同感である。
松居大悟監督は映画「君が君で君だ」では、社会的な弱者の立場にいる若者たちが同一の目的で10年間を生きる青春群像を描きだし、必死で青春を生きた登場人物たちの姿に人生の切なさを感じた。
本作では一風変わった設定(ネタバレになるので詳しくは説明できないが)での青春群像を描いたが、「君が君で君だ」で感じた人生の真実は、本作ではあまり感じることがなかった。
登場人物たちの結びつきが、ただ同じ高校に通っていたというだけなのが原因かもしれない。高校時代の友達というと、孤独に耐えられない生徒たちが暇つぶしと悪ふざけに終始するだけの間柄である。孤独に耐性ができると、逆にそういう悪ふざけのくだらなさに耐えられなくなる。大人になって再会してもまた高校時代みたいな悪ふざけをするのはリアリティに欠けている。
暇つぶしや悪ふざけはいじめの端緒となることが多い。そもそも劣等感があって精神的に弱い友達同士での優位性の争いは、更に弱い者に対する優位性の誇示、つまりいじめに繋がっていく。本作品を観ていて終始不快な気分だったのはそのせいだと思う。
あるいは松居大悟監督は、否定されるべき登場人物たちとして本作品を製作したのかもしれない。当世の若者たちは学生時代の弱さを社会人になっても親になっても克服できず、群れることで孤独を回避し、暇つぶしをして時間を無駄にしている。翻って、学生時代に友達は無用だという訳である。
精神的に幼いままの登場人物たちに、死は重すぎるテーマだった。彼らが死を上手に受け入れられるはずもなく、悪ふざけの中で死の恐怖がそれぞれの心の底に澱のように溜まっていくのを感じて顫えていただけなのだろうが、もう少し作品の中でその顫えを表現してもよかったと思う。