ミークス・カットオフのレビュー・感想・評価
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メインディッシュのないフルコースを食べた気分
最初から最後まで緊張感の連続。ただ、なんというラスト。後は見た人にお任せということなのか。
恐怖心から生まれるもの
ライカートらしく、限られた人物たちの限られたエピソードを丹念に描きながら、普遍的なテーマを豊かに描き出す作品。
西部開拓時代のオレゴンが舞台で、ファースト・カウでも出てきたビーバーの乱獲の話なんかも出てきて、彼女の課題意識がうかがわれた。
自分が本作から感じた一番は、「差別や人権侵害は、無知や知ろうとしないことに起因する“恐怖”によって生まれる」ということだ。
見知らぬ土地にも関わらず、一攫千金の欲望だけはあり、自分の努力によって、それが安易に手に入れられると思っている人々。
それが一転して、命をつなぐ水も手に入らない状況になり、道案内は信用できない。
そんな中で出会った1人の原住民。
彼に対するそれぞれの対応を観ている中で思ったのは、今、ガザ地区で起きている、虐殺や民族浄化としか呼べない、イスラエルによるパレスチナ人への非道な仕打ちの原型が、まさにここにあるということだ。(つまりは、21世紀のこの世の中で、イスラエルは前近代的な植民地支配を正当化しようとしているに過ぎないということで、決して許されない)
この映画の中で、その誤った認識を曲がりなりにもわずかに覆したのは、圧倒的な武器を持って威嚇する男共ではなく、ただただヒステリックに恐怖を叫ぶ人々でもなく、冷静になって、相手が欲していることを汲み取って与えようとした1人の女性がきっかけだったというのが、とても象徴的。
「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない」というのはよく言われてきたことだと思うが、この言葉は、相手に対して、無知や知ろうとしないことを貫く人にとっては、全く意味をなさないことがよくわかる。
それよりも、素直に「相手が求めていることをし、相手が嫌なことをしない」ことが重要で、それこそが結果的には自分も救うことにつながるということが描かれた映画だと思う。
あのまま、恐怖にかられ原住民を殺してしまっていたら、彼らもみんな死んでいただろうから。
結局、自らの命を救ったのは、相手への寄り添いと知ろうとする気持ち。
そのことを再認識した。
これを作れる力
大きな音もなく速い動きもない、しゅくしゅくと歩を進める人々を描く。事件がないわけではないが、それは果たして事件なのか?マークスをカットオフするのかしないのか、タイトルのそれさえも特別粒だてて描くわけでもない。なのになぜかずっと見てしまう、眠くもならない。これ実はすごい能力だと思う。こういう人たちがちゃんと評価されてそれなりの収入が得られる仕組みを維持してほしい。
いや、意外に面白かったです。
140年前のアメリカって、こんな感じだったの?!と驚きながら観てました。
今の便利極まりない生活をしている私は、なんか終始彼らに謝りたくなりました。
え、もうエンドロール?とびっくりしました。
予想外のラストに、裏切られた妙な爽快感。
印象深い1作になりました。
今回、この映画を観たのは、憧れのシネマ尾道で初めて映画を体験したかったから。
だから、何でもいいやーと飛び込んだけれど、この作品にあたってラッキーでした!
監督特集上映中だったので、他の作品も見たかったー、それだけが残念でした。
ミークスは首!って言う意味かな?
ケリーライカート研究4弾
ファーストカウもそうだけど、こういう西部開拓時代のある種限定的な状況をうまく使って西部劇の勇ましさとは違う人間の弱さや狡さを描くの彼女好きね。
知識や金や個々の事情や差別問題など炙り出すには最適な状況です。追い詰められると本性でるからさ。
経験もそこそこあるんだろうが調子のよいガイドのミークスについて行く可哀想な三家族、そこにネイティブインディアンも加わり疑心暗鬼の嵐、、、と言う話です。
こういう西部劇ってベトナム戦争、インディアンvs白人構図NGになってからだと思うんだけど、ここまで日常や人の感情に寄り添ったものはかなり少ないんじゃないだろか、しらんけど。
茫漠とした荒野から見えるもう一つの「アメリカ」を独自の視点で描いた一作
現代アメリカの諸相を描いてきたライカート監督による、西部開拓期の荒野を舞台にした一種の歴史物語とも表現できる作品です。ちょっと作風を変えてきたのかな、と思いながら鑑賞したところ、やはり本作もまた、「旅を通じてアメリカを描く」という明確な作品思想を宿した、紛れもないライカート監督作品でした。
茫漠たる荒野とその苛烈さに耐えながらのろのろと足を進める(実際かなりの部分自らの足で歩いている)、数組の家族の姿は痛々しくも美しさがあります。オーバーラップする画像に込めた仕掛けが新鮮な驚きを与える点もまた、この監督のなせる技です(特に作品冒頭のオーバーラップは見事です)。
描写の美しさ、構図の巧みさ以外に着目したいのが、旅人たちの使う道具が放つ尋常ではない生活感。今にも壊れそうに動く車輪、発砲までに大変な手数を要する銃など、ライカート監督は、彼ら彼女らがどのような環境でどのように生活しているのかを、執拗とも表現したくなるような丁寧さで描写していきます。劇中音楽や環境音など、音の使い方も地味に効果的。
物語の核となる、ミークス(ブルース・グリーンウッド)の、行き先が分かっているのか分からないのか判然としない案内人という、不安定かつ得体の知れない存在と、彼に不信感を抱きつつ荒野の生活では彼に頼らざるを得ない家族たちの対比が、「漂白」の浮遊感、不安定さに一層の切実さを加味しています。
余韻が残るというよりも「え、ここで終わる!?」と誰もが感じるであろう結末もまた、本作を忘れがたいものにしています。
オチた天使
えっ~ここで終わるのマジで....起承転結を映画シナリオの基本とするならば、ケリー・ライカートの作品は常に“結”がすっぽりと抜けて落ちている。それゆえ、観客は映画の中に放り出されたままふわふわといつまでも漂流しているような錯覚に襲われるのである。
何事もきっちりおさまりがついていないと気がすまない几帳面な観客の皆さんはなんとも言えない不安に苛まれ、私のような万事いい加減な人間は他にたとえようもない癒しを覚えられるのである。幌馬車隊からはぐれた3組の家族が、ミークという男のガイドに案内され、水を求めて荒野をひたすらさ迷う脈絡のないストーリー。
そこのどこが“癒し”かって?途中で現れた英語を全くしゃべれないネイティブが現地言葉(もちろん字幕はつかない)で唄い、立て付けの悪い幌馬車の車輪がキコキコときしみ、荷台に積まれた鍋が時折カランコロンと乾いた音をたてる時、あなたの脳波はβ波→σ波に変調し心地よい眠りへと導かれることだろう。それじゃ寝落ちしてんのと変わらないじゃん?
そう、その心地よさこそがライカート作品最大の魅力なのだが、この人今やフェミニズム監督としても大注目の女流監督さんなのである。フェミニスト女優ミシェル・ウィリアムズが彼女の作品に出演するために直談判したというのは有名な話。ミーク→マチズモvsテローズ夫人(ウィリアムズ)→フェミニズムのメタファーとして観れば、がぜん深みをます作品でもあるのだ。
映画タイトルの“cut off”には、近道や分かれ道という以外に“どん詰まり”という意味もあるらしく、知識を武器にここまで優位性を築いてきた男性と、柔軟な感性を楯に新世界確立を目指す女性との対立で、にっちもさっちもいかなくなっている“どん詰まり”状態のアメリカのアレゴリーにもなっているのである。じゃあ、あの得体のしれないネイティブはというと....
映画冒頭に少年が読み上げる『創世記』がその答えのヒントになっている気がする。聖書によれば、知恵の実を食べ神と同じ善悪の知識を得たことによって、人間は原罪を背負う羽目になったとされている。ならば、白人の皆さんが考えるような善も悪もないあのネイティブは、知恵の実を食べる以前の原始の人間の姿、もしくはそれを超越した〈何か〉が投影されていたのではないだろうか。
荒野の中に生えていた一本の木は、テローズたち一向を水場へと導く道標だったのか。それとも、その実を食べることによって永遠の命を授かることができるという“生命の樹”だったのだろうか。後者の方だとするならばあのネイティブ、神が“生命の樹”を守るためにつかわしたという智天使ケルビムだったのではないだろうか。オチてないようでしっかりオチていた、ライカートらしからぬ1本なのである。
女は混沌で男は破壊。生命の木♥
女は混沌で男は破壊。されど
この映画に登場する人物は善人ばかりなり。
三回目の鑑賞。最初は寝てしまって、二回目を見て、アレ?
三回目でそうだよね。って感じかなぁ。
オルゴントレイルで、アルカリの湖。自ずとそうそうしたが、その点もキチンと忖度して、描いていた。それで良いと思う。
日本で言えば、満蒙開拓団みたいな人達。南北戦争開戦前だが、オレゴン州はアメリカの準州だった。このあと、ゴールドラッシュとかが起こる。
郷に入っては郷に従えというが、その郷は奪い取った郷。
そして、彼らの運命は、結論へ急ぐ必要は無い。最初の表題に描かれた木を見てそれが最後に。そして、
『カットオフ』を訳せば自ずと理解できる。
そしてそして、大サービスで台詞まで。
追記
ここでは『アダムとエバ』と言っているので、この集団はイギリス人の集団だと思う。イブも英語読みだろうが、元々ヘブライ語なので、エバの方が古い言葉。よって、イギリス人だと思う。また、エバは生命とも訳されるみたいだ。かけ言葉の好きなアメリカ人は詩的にそう言ったのかも。
追記 エデンの東 に対するアイロニーか?彼女達は基本的に西に向かっている。映像の演出も日中は進行方向左側から光が指している。
1845年、開拓時代の米国オレゴン。 先導役の男に従って、三家族の...
1845年、開拓時代の米国オレゴン。
先導役の男に従って、三家族の幌馬車が牛や馬、ロバとともに川を渡っている。
女たちは、鳥かごや衣類などを頭に載せている。
川は深く、胸近くまで水が迫っている。
丘にあがった一向にひとりいる少年は聖書を読んでいる。
楽園を追われたアダムとイブの物語・・・
夜になり、男たちがなにやら話し合っている。
先導役のミークをやめさせるかどうか。
ミークは道に詳しいと言っていたものの、どうやらそれは嘘らしい。
このままでは、移民団を離れた我々は西部にたどり着くどころか、その前に野垂れ死んでしまうのではないか、と・・・
といったところからはじまる内容で、60年代あたりまで頻繁に作られた西部開拓史モノのようなスタイルだが、ハラハラドキドキのエンタテインメント西部劇とは対極に位置する。
なにせ、ケリー・ライカート監督だからね。
とはいえ、そのうちにハラハラすることにはなるのだけれど。
さて、そんなインディペンデント映画にもかかわらず、俳優陣は豪華。
先導役のミークに、ブルース・グリーンウッド(髭面で、まるで表情は見えないけれど)。
リーダ格のテスロー夫妻は、ウィル・パットンとミシェル・ウィリアムズ(映画の中核はテスロー夫人)。
年かさのホワイト夫妻は、ニール・ハフとシャーリー・ヘンダーソン(息子ジミー役は、トミー・ネルソン)。
年若いゲイトリー夫妻は、ポール・ダノとゾーイ・カザン(『ルビー・スパークス』のコンビだ)。
そして、中盤以降に登場する先住民族(インディアンと表記、発音されている)役に、ロット・ロンドー。
これが出演者のすべて。
さて、一行は西に向かっているが、飲料水も乏しくなっている。
テスロー夫人は、「何も知らないくせに、先に来た者だ、なんでも知っている、と嘘をついたことが許せない」として、ミークを嫌い、信用していない。
するうち、荒野で先住民族の男性と出くわす。
男は逃亡するが、ミークとソロモン・テスローにより捕縛される。
危険な男だ、と言い張るミークをよそに、ソロモンは先住民の男に先導させることを提案、他の家族の夫たちも承諾し、先住民の先導で旅が続けられることになった(正確には近くの水場までの案内であるが)。
この中盤から、ある種のハラハラ感が醸成されていきます。
夜間、これまでは無音の闇の荒野だったのが、先住民男性の言葉が低く響き渡り、その声にテスロー夫人はある種の不安を覚える。
移民団から離れたのは間違いだった・・・
いや、そもそも、こんな異国の、何もわからない無明の土地へやって来たこと自体が間違いだったのではないか。
楽園を追われたアダムとイブと同じではないのか・・・
一向に水場に到着しないこと、その上、行く先々で、先住民男性が壁画様の痕跡を残していることに、ゲイトリー夫人は極度の不安に怯えるようになる。
わたしたちは、先住民の一団に襲われ、皆殺しにされる、と。
いずれも、未知なる土地・未知なるひとに対する不安からくる恐怖なのだが、テスロー夫人は先住民男性に悪意がないことに気づき始める。
それに対して、ミークはいつまでも「危険な男だ、危険だ」と先住民への恐怖を煽っている。
終盤、先住民男性は丘の上で、ひとつ向こうの丘を指さし、天を仰いだりしながら何かを叫んでいる。
テスロー夫人は、それを「向こうの丘を越えたら水場がある」と解した。
(先住民男性の言葉には、日本語はおろか英語の字幕もないので、実際に何を言っているのかは正確にはわからないが)
急斜面を慎重に下したが、幌馬車三台のうち、最後に下したテスロー夫妻の馬車は抑えが効かず、大破してしてしまう。
荷物を分散して、歩を進める一行。
先導するのは先住民男性だ。
やがて、一行の前に、一本の樹が現れる。
荒野の真ん中に。
それはアダムとイブが追われた楽園にある「生命の樹」のようにも見える。
テスロー夫人は、先導した先住民男性を見つめる。
彼はまだ荒野を歩いていく、その後姿を。
わたしたちを導いてくれる者は何者なのか?
キリスト教でいうところの神なのか。
もしくは、文化的な先人なのか。
それとも・・・
20世紀を超えて21世紀に入ったわれわれの道程は、誰に導かれてきたのだろうか。
驚嘆すべき傑作でした。
【砂漠の中、自分達の案内人に対する不信と、インディアンへの恐怖。横溢する焦燥感の中、頼りにならない男達の中、女性のエミリーが決断した事を描く異色の西部劇。】
■1845年のオレゴン。広大な砂漠を西部へ向かう白人の3家族は、近道を知っているというミーク(ブルース・グリーンウッド)を雇う。
しかし、長い1日が何度繰り返されても、目的地に近づく様子はない。
やがて、道に迷った彼らに対して飢えと水不足と、互いへの不信感が募って行く。
◆感想
・1845年のオレゴンと言えば、劇中でもミークが口にするように、インディアンが恐れられていた時代である。
・そんな中、テスロー(ミシェル・ウィリアムズ&ウィル・パットン)、ホワイト(シャーリー・ヘンダーソン
&ニール・ハフ)、ゲイトリー(ゾーイ・カザン&ポール・ダノ:この頃から、夫婦役・・。)の三家族は幌馬車で西に向かう。
・ミークは、インディアンの恐ろしさを三家族に話しながら、旅は続くが、エミリー・テスローは彼に、冷たい視線を送る。
・何時まで経っても、目的地に着かない中、ミークは一人のインディアンを捕まえる。
ー この後、インディアンを撃ち殺そうとするミークに対し、猟銃をエミリーが向けるシーンは、緊張感MAXである。彼女は、この時点でミークへの信用を失っていたのだろう。
エミリーは、その前にインディアンの靴を縫ってあげたりしたときの、インディアンの優しい目を見ているのである。
・そして、彼らの前に現れた大きな木。そして、ミークは言う。”テスロー夫妻に従う・・。”
ー つまりは、インディアンの言う事を優先するという意味である。-
<今作は、うわべだけの男(ミーク)と、何もできない盲目的な人々(ホワイト夫婦&ゲイトリー夫婦)と、真を見定めることのできる人物(エミリー)の姿を、ロードムービー形式で、暗喩的に描いた作品である。
今作の旅の真のリーダーは誰であったか・・、を問う作品でもある。>
眠くなる
ケリー・カーライト特集を全部見たのだけど最後の最新作は、美しい景色をゆったりと描きアートに寄りすぎで眠い。ドラマの結末も不明瞭だ。荷物を積んだ馬車が坂を転げ落ちてつぶれるのがつらい。
インディアン、嘘つかなーい。
製作は2010年。ミシェル・ウィリアムズはすでにビッグ・ネーム。ブルース・グリーンウッド、ウィル・パットン、ゾーイ・カザンとポール・ダノ夫妻にシャーリー・ヘンダーソンですと?この地味にリッチなキャストには驚きます。
コロンビア川を北にする位置関係から「オレゴン準州」が舞台。時は1845年で、保留地に先住民を閉じ込める事を決定したインターコース法の設定後ながら、インディアン戦争が北米大陸北西部に飛び火する直前と言う時期。この「微妙」な時代設定は、まんま映画のシナリオに直結します。
ちょっとだけ脱線。
1836年、テキサスでコマンチ族に連れ去られた9歳のシンシア・アンは、25年後、コマンチ族の村を襲ったテキサス・レンジャーによって保護されました。彼女は成長し、コマンチの村で結婚し、二男一女をもうけて暮らしていたのです。保護から数年後、彼女は息子たちとの再会を果たすことなく病死したとされています。
で、ここからが本題。
時は過ぎ1875年の事。抵抗をあきらめた最後のコマンチ族は、騎兵隊に投降しました。そのリーダーであるクアナが「私の母はシンシア・アン・パーカーである」と告白したのです。クアナは身長190cmを超える屈強な身体の持主であるだけでなく、政治的な能力にも長けた男だったそうです。彼は、時の白人たちが求めている「インディアン・リーダー像」を理解し、演じきりました。先住民と政府の仲介役として活躍し、政府がインディアンに与えた土地を、再び白人に貸し出す事で経済的利益を得て、財を成したそうです。この「インディアン利権」は、今も民主党に引き継がれており、選挙地盤の一つになっている訳です。とは言いながら、クアナ・パーカーは、インディアンの地位向上のための活動に生涯を費やしたそうです。
でですよ。そのクアナが近親者に明かしていた本音が興味深いんです。
「インディアンを差別する白人よりも厄介なのは、進歩的で友好的な白人だ。彼らは、善意を振りかざして我々に近づき、子育てや教育に介入し、インディアンの文化や信仰、言語、家族を破壊しようとする」
映画の中で、ソロモンはエミリーに向かって言います。
「ミークが嫌い過ぎて、大事なものを見失っていないかと思って」
ミークのウソが許せず、その尊大な態度も受け入れられず、エミリーはミークを心底嫌っています。捕虜にしたインディアンは、道案内として利用価値があるから水と食べ物を与える。信用しているわけでは無い。これがエミリーの本音。
最終的に樹木を発見した一行。ミークは「今後テサロー夫妻の言う事に従う」と服従の意を表明。ラストカットは、更に曠野を進もうとするインディアンの姿です。
当時のアメリカは、インディアンの絶滅政策の末期ですが、その利用価値に気づいた人々の声も大きくなって来た時期。絶滅政策の推進者は淘汰されて、新興勢力に取って代わられましたが、居留地への移送は実行されます。
Meek's Cutoff は「暴力の時代の終焉」を言うのか。
一見、進歩的で友好的な白人の「傲慢な本音」への皮肉なのか。
一筋縄ではいかない、このテーマ。三家族と一緒に西部を旅している気分になる事で、インディアンを信じる?信じない?の自問を繰り返すうちに、最後は「誰が信じられると言うのですか?」と、軽い絶望とアキラメを押しつけられると言う。
そうなんです。これ、ウェンディ&ルーシー と共通しているんですよね。
ケリー・ライカールト監督には、まだまだ撮って欲しいし、人権屋が善人面してのさばる今こそ、「出番でっせ!」って言いたい。
良かった。結構。
西部劇の対岸ある傑作
名古屋シネマテークのケリー・ライカート監督特集から最後のポスト。これは『ウェンディ&ルーシー』に続きミシェル・ウィリアムズとタッグを組んだ作品。
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舞台はまたまたオレゴン。ただし時は1845年の西部開拓時代。まさに西部劇のターゲットになる時代だがテイストは全く異なる。
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移住の旅に出た3家族と案内人のミーク。家財道具一式を幌馬車に積み、人は歩くスタイル。近道を知っているというミークだったが5週間が過ぎても目的地に着くことはなかった。
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険しさを増す道。
原住民の存在を知り襲撃を恐れた。
間もなく食糧と水が底をつく。
果たしていつ着くのか。
ミークはもはや道がわからなかった。
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そもそも目的地とは?
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彼らは彼らの意思で前進を選んだ。
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とてつもない不安と恐怖の中、何が彼らをそうさせたのか、自分のようなチキンにはわかるはずもなく。彼らのような存在がヨーロッパからの移民の国、アメリカ🇺🇸を作ったのだろうが。
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う〜〜ん、これは西部劇の対岸ある傑作。
神がかっていた。
やはりラストカットに強烈な印象。絵作りと編集も秀逸で飽きることがな...
やはりラストカットに強烈な印象。絵作りと編集も秀逸で飽きることがない。普通飽きるし少しでも誇張した演出すると気になってしまうもの。めちゃ映画見てるんだろうなあ、すげえ。
こんなに暑くて、ただいるだけで水分は損なわれる時期にこのチョイスは...
こんなに暑くて、ただいるだけで水分は損なわれる時期にこのチョイスは正解とは言えない。
スクリーンでもただただ水を求め、疑心暗鬼の渦に巻き込まれている。
眉間の皺が寄り眠気と戦う、なかなか苦しい作品だった。
果てしないお引っ越し
誰を頼りにすれば良いのか疑心暗鬼なことばかり、一番危険かもしれない存在に希望を委ね、何ら役に立たない男どもの為体。
終わらない結末に唖然としながらも、勝手にそう思いながら観ていた自分の身勝手さ、続編ありきでも中途半端に途中だろうが終わり方は様々、何が待ち受けているのかはインディアンにしか知り得ないのだろう、もしかしたら行って戻ってな西部劇版「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の物凄く地味な物語が展開されているかも!?
広大なアメリカの自然な景色に目を奪われかけたら映るのは夜の生活が多め、そこで朝も昼も含めて働く女性の姿、全権を担い始める勢いのミシェル・ウィリアムズ演じる主人公が逞しく、女性の権利は男社会のド定番である西部劇のジャンルにもケリー・ライカートが静かにブチ込む力強さ。
全23件中、1~20件目を表示