「シチリア人になれなかったアメリカ人の悲劇」ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期 けろ教授さんの映画レビュー(感想・評価)
シチリア人になれなかったアメリカ人の悲劇
『午前十時の映画祭12』で鑑賞。『ゴッドファーザー Part III』は以前に鑑賞していたが、その時は『Part II』と比べてその出来の悪さに呆れたものの、今回鑑賞したこの『最終章』(Coda)は『Part III』と比べたら確かに良くなっていた。ただ、それは物語の展開が、ダイジェスト版としてすっきりして分かりやすくなったという意味である。この『最終章』を観て思ったのは、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネという複雑な男の感情を描くためには、おそらくはもっと尺が必要な映画であったということである。
ゴッドファーザー三部作は、シチリア人になりたくてなれなかったアメリカ人としてのマイケルを通して、「シチリア人」なるものを描いた映画である。『ゴッドファーザー』の最初のシーンが妹コニーの結婚式に、海兵隊を除隊したマイケルが、ダイアン・キートン演じるケイを連れて参加するシーンが示唆的である。「自分は父親のようにはならない」と言っていたマイケルが、父親のドン・コルレオーネの暗殺未遂事件を契機にファミリーに組み込まれ、最終的にはファミリーのドンになる。『ゴッドファーザー』ではマイケルはシチリア人になれたはずであった。しかし、『Part II』で描かれたのは、シチリア人になれなかったマイケルの挫折である。自分を裏切った兄の殺害。守ろうとした家族の崩壊。『Part II』の最後で、ヴィトーの誕生日にマイケルが海兵隊に入隊したことを兄弟に告げるシーンの回想があるが、『最終章』を観るまではそのシーンの意味は分からなかった。しかし、『最終章』を観てそのシーンの意味がようやく分かった。海兵隊に入隊するアメリカ人のマイケルは、シチリア人である兄のソニー達に受け入れられなかった。裏切り者の兄のフレドを殺害したのちのその回想は、自分がやはりシチリア人ファミリーにとって「他者」であることを痛感したということであろう。
この『最終章』で興味深いのは、マイケルが(嫌がる)ケイの案内人として、コルレオーネ家由来のシチリアの家などを訪れるシーンである。人によっては「中だるみ」とも評されるこのシーンであるが、ケイの視点から考えればそうとは言えない。ケイの視点は、シチリア人を理解できないアメリカ人の視点だからである。ダイジェスト版である『最終章』でも、いわば「中だるみ」ともいえるこのシーンを削除できなかったのは、そのシーンがシチリア人の描写を外部(非シチリア人の観点)から描写したものであり、ここを削除すると(シチリア人を描く)ゴッドファーザー三部作の意味がなくなるからである。
また『最終章』を観て改めて思ったのが、『Part III』が基本的にピエトロ・マスカーニの『カヴェレリア・ルスティカーナ』をモチーフとしていることである。このオペラの美しい間奏曲は、最後の階段での悲劇で使われているが、この映画で『カヴェレリア・ルスティカーナ』が選ばれたのはこの間奏曲のためだけではないであろう。ヴィンセントによるザザの殺害時のキリスト像とアンソニーが出演している『カヴェレリア・ルスティカーナ』の舞台でのキリスト像が同じであることがこのことを示している。『カヴェレリア・ルスティカーナ』は復讐というシチリア人の慣習を描いたオペラであるが、それがどのような悲劇をもたらすのかを描いたのが『Part III』と『最終章』であった。復讐は何ももたらさないのは、当の本人たちもよくわかっている。それでも、復讐をせざるを得ない。それを甘受できるか否かか、シチリア人であるか否かの分岐点なのか? この点、コニーとヴィンセントはシチリア人であった。告解をするマイケルは、シチリア人になりたかったが、なれなかったアメリカ人である。
最後に、『Part III』が公開されたときは、ソフィア・コッポラは酷評されたが、『最終章』を観て、そんなに悪くないと思った。十分に魅力的なイタリア女性である。