ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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村上春樹の小説
死をテーマに抱える人物たち
西島の演じる家福、奥さん役の三浦が演じる音、二人は夫婦、幼い娘を亡くしてしまう。
過去を背負いながらも良き妻であり、また同時に歪んだ性を持つ。元々女優だったが子どもの死から何も出来なくなってしまう。
少しずつ夫との性を通して快楽の後に脚本家として作品を作るようになるのだが、それは同時に夫との深い溝を作ってしまうのが切ない。
ある日、妻が病に倒れて急死する。
家福が広島で開演される作品のために、オーディションと演技指導を行うため、数ヶ月広島に滞在することになり、そこで出会った人達との人間模様にも死がある。
自分が、○○していたら、と言う罪悪感から現在の生き方が歪んでしまった、家福と似た女性が、家福が広島滞在中にドライバーとして雇われるのだが、相手を通して自分を見る事になる。
罪悪感を抱える人の辿る道が寒々しい北海道の何も無い土地へと二人を導いていく。
相手を通して自分を見た2人
その後の生き方は大きな変化を遂げた。
闇深い心理の変化を感じた。
静か
言葉のやりとりがはっきりしていて、聞きやすかった。福家夫婦が愛し合ってるのは、わかったけど秘密があって、お互い話せないまま死別って後悔しかない。
舞台での最後のセリフには、涙が出た。
人生経験を重ねてから見るとより揺さぶられるものがあるだろうなと感じた。
少し難しい
少し難しい。おおよそのストーリーは分かったけど、うっかり岡田将生扮する高槻が「同じ女を愛した男としての語り」の一部を聴き逃す。何してんだか。
妻が演劇のストーリーを作るために愛する旦那さん以外の男たちとセックスしていて、その現場を見た主人公西島秀俊扮する家福は、彼女のための行為(セックスするとストーリーが降ってくる)なので、見て見ぬふりをする。
しかし、その事が嫌で仕方なく、帰りたくない病が出てきて、彼女のくも膜下出血の病気発見が遅れたから死なせたと思い込み、悲しみの沼に落ちる。
演劇で生きている家福は、演劇に没頭し、高槻という才能溢れる役者に遭遇し、彼も妻「音」を愛した男たちであった。
演劇を進めるにあたって、訳あり運転手に女性ドライバーと人生のやり直しを二人で模索する。
作り上げた戯曲でのストーリーも良かったのかな。
「苦しくても生きろ」というセリフが俺の心に刺さる。
あらすじとテーマ
【要約】妻を失った役者が、専属運転手との交流を通じ、再び舞台に立つまでを描く。
【あらすじ】舞台演出家である主人公には、テレビ脚本家の妻がいました。
二人はかつて幼い娘を亡くしたものの、深く愛し合っていました。
しかし実は、妻は主人公がいないところで他の男と何人も寝ていました。
主人公はそのことを知っていながらも、夫婦関係が壊れることを恐れ、話題にしませんでした。
主人公と妻とのあいだに性交渉はあり、お互い満足できるものでした。
お互いの仕事にも関心を持ち合っており、毎日共同作業もしていました。
ある日の朝、主人公に向かって「今夜話がしたい」と妻が切り出します。
主人公は覚悟の上で了承したものの、仕事から帰宅した時、妻は急病によって倒れていました。
彼女はそのまま帰らぬ人となります。
主人公のライフワークは、チェーホフの小説『ワーニャ伯父さん』の舞台化でした。
彼は演出を手がけるだけではなく、自ら舞台に立ち、重要な役を演じていました。
しかし妻の死後、彼は舞台に立つことができなくなります。
その理由は「チェーホフのテキストは感情を引き出すから」。
感情に蓋をしてしまった彼は、舞台に立とうとすると自らの感情が飛び出てしまいそうになり、耐えられないのだといいます。
それ以来もっぱら、彼は演出のみを手がけていました。
しかしある日、舞台に出演予定だった俳優の一人が、不祥事によって出演をキャンセルすることになります。
そのため、主人公は「公演そのものを中止するか」「自らが再び舞台に立つか」の2択を迫られます。
舞台に立つには辛すぎるが、大切な公演を中止したくないーしかもここまで時間をかけて準備してきた
公演をー。
葛藤する主人公は、公演期間中の専属ドライバーに頼ります。
彼女は虐待されて育ちました。
無表情で感情の無いような、淡々とした女性でした。
その彼女に頼んだのは、「彼女の故郷に連れて行ってくれ」ということ。
彼女の故郷には、土砂災害で崩壊した彼女の実家がありました。
災害が発生したとき、彼女は屋内に取り残された母親を見捨てたのです。
「自分がもっと早く帰宅していれば、妻が倒れているところをもっと早く発見できていた」ー。
妻を見殺しにしたという罪悪感から、母親を見捨てた彼女に自らを重ね合わせます。
彼女は母親に虐待されていましたが、必ずしも母親を完全に憎んでいたわけでわありませんでした。
また彼女は、解離性同一障害のうたがいのあった母親の二面性を、決して「裏表」だとは捉えていませんでした。どちらも真実であると。
そう諭された主人公は、妻の「浮気」を、「嘘」「秘密」「隠し事」だと見る考え方の見直しを迫られます。
彼を愛する妻も、他の男との愛を求める妻も、本当の姿だと。
ここにきて「嘘」と「本当」の境界をなくした主人公は、自らの本当の気持ちに気づかされます。
本当は怒っていたのに、妻に責められなかったと。
自分は正しく傷つくべきだったと。平静を装っていたと。
傷つくべきだったのに傷ついていないフリをしたことが、自分の感情に蓋をすることだったのだと。
そう気づいた主人公は、まだ喪失の重みに深く傷つきながらも、舞台に立ち、再び重要な演技を行うのでした。
舞台のラストには、「つらくても生きていくのだ」と、希望に満ちたメッセージが込められています。
【解説】
劇中に登場するドライバーは、主人公の「ミラー」です。
ドライバーを客観的に眺め、彼女の境遇を自らと同一視し、自らに重ね合わせることで、主人公は自らを見つめなおすのです。
表面的には、感情のない「能面」のようなドライバーですが、過去に傷ついた記憶を抱えており、この「仮面」と「内面」の二面性が主人公との共通点でもあります。
【テーマ】仮面と真実
舞台こそ感情の表出の場である。舞台とは、「演技」をする場所だと思われがちだが、舞台こそ、真の感情を表出する場所である。
私生活上の経験が、真に「載る」場所だ。
それゆえ、「仮面」であると思われがちな舞台こそ、「真実」であると言える。
引いては、「嘘」であると思われがちな物語、虚構であるが、まさに「真実」であるとも言える。
それでは、この物語が引き出すあなたの「真実」ーまことの感情とはなんであろうか。
この物語は、どのような人生を送っている人に響く作品であるか?
誰のために、書かれ、撮影された映画であるか?
【鑑賞直後の感想】
虚構の物語に、現実生活が肉を持って載る時。
始まりはとっつきにくい映画(物語)でしたが、主人公がなぜ自分では主役を演じられないのか、どうして役を受けるのか、という疑問点をつかみにして、主人公の私生活事情を載せてやると、虚構と現実、あるいは「物語とは」みたいなテーマが浮かび上がってくると思います。
会話場面が多く、映像的な真新しさはありませんでしたが、クリアな映像、丁寧な音響がよかったと思います。(悪く言えば日本のドラマらしい感)むだな音楽がなく、静寂を大事にしていたのもよかったですね。配役は素晴らしかった。
舞台と私生活、ということで『バードマン』(イニャリトゥ)との比較で語りたい作品です。
『バードマン』の劇中に登場する『愛について語るとき我々の語ること』の日本語訳を手掛けたのが、村上春樹です。
かしこそうな作品
「木根さんの1人でキネマ」というマンガで「アカデミー賞ってどんな作品が取るの?」という質問に対して「かしこそうな作品よ」という答えがありまして、本作は正に「かしこそうな作品」でした。アカデミー賞にノミネートっという話題性につられて観に行ってしまったのですが、やっぱり無理でした。
そもそも個人的に村上春樹が苦手なんです。10代とか20歳前後とか若い頃はよく読んでいたのですが、大人になって読むと登場人物の大人としての責任感の無さに辟易してしまって。近年の作品もキャラクターが昔っから変わらないんですよね。ずっと責任感の無い大人しか書けない作家という印象です。で、そんな村上春樹の原作の映画が好きになれるはずもなく。
車の中での告白とか時におっと思う演出はあったのですが、総じて観てるのが辛い3時間でした。
映像作品としては楽しめますが、ピンとこなかったな〜
異文化交流とジェンダーと少し格差社会を取り上げており、ポリティカルには正しい作品なんでしょうが、正直いって、長くて説教くさい話。あ、あとハルキね。インテリリベラルな目線感がハルキっぽい。といっても、ノルウェーの森しか読んでいないので、違ってたらゴメン。
テーマになっている演劇もさっぱり門外漢。演劇もチェーホフですからね。まあ、チェーホフなんて吉田秋生「桜の園」しかしらんしな〜。あ、もう1本の「ゴドーを待ちながら」はアニメ「SHIROBAKO」でも出てきたから、オタクとして戯曲の有名ところは嗜まないといかん、ってことかね〜。
う〜ん、抽象的なテーマで言えば「現代社会のミスorディス・コミュニケーション」ってことですかね。社会性に乏しい生き方をしている自分にはピンときませんでした。
映像作品としては楽しめると思います。アカデミー作品賞ノミネート、おめでとうございます。最近の作品賞傾向的には可能性ゼロではないと思いますので、見ておいた方が良いでしょうね。
それでも、生きていく。
第45回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作。
第94回米アカデミー賞国際長編映画賞受賞作。
Paraviで鑑賞(レンタル・インターナショナル版)。
原作は未読です。
起伏に乏しく、淡々と物語が紡がれていくスタイルの映画を観るのは正直苦手なので、家で観る際は分割して観るのが常ですが、本作は何故か引き込まれて一気に観てしまいました。
とにかく続きが気になってしまったのです。
ミステリアスな雰囲気に目が離せなくなりました。
主人公が目を背けていた妻の秘密と彼女の実像、そして自分自身の心の深淵に向き合っていく姿を、豊かな人間描写と村上春樹原作らしいメタファー満載で描いていました。
繊細な演技と演出で観る者を物語の世界へいざない、多くを語らず、行間を読ませるような演出は非常に文学的であり、映画芸術の最たるものだなと思いました。
どれだけ愛し合っていても、相手の心の内を知ることは出来ない。それは家族でも恋人でも同じこと…
だからこそ自分自身と向き合い、悲しい過去や想いにどうにか折り合いをつけ、これからも生きなければならない。
心に深く刺さる作品でした。
[追記](2022/03/28)
国際長編映画賞受賞のニュースが!
おめでとうございます!
※修正(2023/06/01)
まぁでも普通
映画館で観れる人は映画館で観た方が良い
何故なら3時間と言う尺の長さはあなたに集中力を失わせ、家事や日常生活と言ったことに意識を向かわせるであろう。そしてそれらに追い回されることが如何に刺激的で、実りがあり、あなたの人生を豊かにするのかを気付かせてくれるからだ。
これを映画館で観たとなると、あなたには逃げ道は無くなりこの退屈なようで退屈な映画にたっぷり3時間付き合わなくてはならない。
だからこそこの作品を最期まで見たいのであればなるべく映画館で観るべき作品だ。
そんな作品だ。
本家アカデミーノミネートだ。
日本アカデミー8冠だ。
何時間だろうと付き合わなくてはならない。
もとい、映画代金位は何かを感じて帰らなくはと意気込み、最後まで寝息一つたてず鑑賞し切った自分を褒めて上げてもいいだろう。
この作品で語るべきことなんか無く、各々が好きなシーンを拾い集めて無理矢理こじつけがましく作品の主体を歪曲したり、または分かったようなことを語る暇があれば直ぐ様自分の現実の人生に戻り、大切な人を抱きしめて労い愛することの方がどれだけ意味があるのだろうかと、そう感じるざるを得ませんでした。
生き残った者は死んでいった者のことをずっと考えている。
それがずっと続く、生きていくしか無い。
いま、生きているうちに、愛もヘイトも伝えることである程度は生き残った者の溜飲は下がるものなのかなと思った。
中高年には
流石に起承転結ないと盛り上がらないので少し時間の制約もあり現実離れしたところもあるが
それは映画の世界
訴えたい、考えさせたいところが
それぞれの視点だからみなさん男女差で理解しがたいものもある
近しい人ほどコミニケーションを
や、人は複雑で長く付き合っているから理解しているわけではない
など考えさせられる事もあるが
作中にもあるように
知らなくてもまた、言わなくても良い場合もある
主人公は裏切られた感があり
ここで相対時するかは人それぞれ
妻は告白したがったようだが
しかしこの夫婦は言わなくてよかったと思う
男性の浮気でもここは別れるところだが
話し合えば極論は別離
改心しても許すかは相手次第
話し合いの前提は継続だから
一旦許してもあとから感情が爆発する可能性もある
夫婦の話しというより
ドライバーの子の話しからも
悔いたことは取り戻すことはできないが
糧にする事は出来る
明日へポジティブに生きよう
というメッセージが良い
しかしあのサーブはもらったのかな
オスカーおめでとうございます
久々の映画館、で血圧が高いのか、頭痛がしてきましたが、3時間と後で知って驚き、それだけ見られたということはいい映画だったんだと思います。それなりに絵も楽しめましたし。
ただ、なんで、カミさんの浮気を黙殺したことにそんなに苦しむのか?と、身も蓋もないことを感じてしまうのが私にとっての村上春樹で、テーマの核心がなんか作り物の感がある。それをなんだか周りで話を勝手に盛り上げている感じ。ドキュメンタリーでないにしろ、えぐるように迫るものが映画でも文学でも表現できると思うのですが。
と、普通なら言い切るところですが、「きっと私の感性が未熟なんでしょう」と言わざるを得ないのが村上春樹様々なところです。( ノ_ _)ノ
最も難解なのは最後の場面。なんで韓国(北朝鮮かもしれないけれど)に?ということで、みなさんのレビューを読ませていただいたり、原作を読みましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。汚れた心のせいか、賞とりのために韓国ロビーの協力を募っているのか?という勘ぐりが頭をもたげました。
いろんな国からその国の言葉、手話で演劇をしつつ「世界に通ずる普遍性を描く」ということでした。とてもおもしろいし、韓国の女優さん、きれいだな〜と楽しめたのですが、なんだか東アジアで日本が忖度を続けている姿が重なりました。東京の電車やバスで、日本語、英語のみならず、韓国語、中国語の表示が映し出され、日本語の表示を待ち続けているような。こんなこと書くと政治的にかたよった人と誤解されそうですが、「日本、日本」と叫ぶより日本を意識してしまいました。
それでいて、いわゆる「心の傷」にさいなまれているのは日本人だけで、そのへんが”普遍性”になっていない。ちょっとだけ韓国人通訳の話もあるけれど、村上春樹が作り上げた心のひだを紡ぐのは日本人だけ、みたいな結果になっている。それを考慮すると、「外国語映画」ではあるけれど、「国際映画」にはなっていないと、賞の名前が昔から変わったところと整合しないと思いました。
短編小説をよくここまで肉付けした、と他のレビューでありましたが、3時間まで肉付けするのはやり過ぎでしょう。(^_^;)原作となった短編集、「女のいない男たち」のなかの他の短編のエピソードを織り込んだようです。あらかた寝取られ関係の話(という身も蓋もないまとめ方は正しい解釈ではないのでしょうけれど)が主だったような短編集でしたが、なかでも、ヤツメウナギの話、いるかな〜?と思っていました。ヤツメウナギは実家の地方の名産で、子供の頃は貝焼きという、魚醬で煮込んだ、汁が少なめの鍋物でよく食卓に上がりました。その姿と、食感がとてもグロテスクで味をあまり楽しめませんでした。小説ならまあ、文字なのでありかもしれませんが、あの画像はちょっときれいすぎて、それでいて説明的すぎていてちょっと伝わらないので?と思いました。
なぜ前世がヤツメウナギ?獰猛で顎のないグロテスクな姿、寄生した魚の肉を少しずつ食べる、それが肉欲を表すとすれば、なぜ自分は寄生することなく川底の石にかじりついたまま消えていくのか?自身の肉欲への嫌悪?そんなに盛り込まなくてはいけないのかな?と思いました。
肉欲、男女の愛憎、カセットテープ、SAAB、オーディオ、バー、演劇、そして日本映画界お決まりのタバコ(原作でも登場するけれど)、そう、すべてが古い。
こんなにタバコが出てくる風景、今の日本にはない。昭和のゴリゴリ演出家ならまだしも、おかえりモネそのままの現代受けする西島さんがタバコ吸うのは大きく矛楯する。外車やマニアックなオーディオなど、バブルの残骸、村上春樹の趣味はもう現代では空疎で、その頃の残像を追いかけている人か、現代の日本を知らない人にしか受け入れられないでしょう。
演劇が原作にない、この映画オリジナルの脚色ですが、「自分が消耗するのでのその役を演じられない」というのも素人には難しい。それがなぜ克服できるようになったのか?北海道で三浦さんと心の痛みを分かち合ったから?( -_-)映画とはいえ、ちょっとご都合主義ではないのかな?
をしてもう一つのオリジナル脚本が北海道旅行。「2日でできるか?」、「タイヤはどうした?」と多数ツッコミがありましたが、私も見ていて同感でした。('-'*)フェリーでのテレビで岡田君の余罪がニュースになっていましたが、それ、いるかな〜?なんだか霧島さんの秘密の語り部のようなひとなのに、あれでは「ただのクズ」になってしまって、これまでの話の信憑性が吹っ飛んでしまうのでは?
あと、緑内障の話をしておくと、事故の原因となるくらいまで悪化している人は稀です。逆に言うと、事故を起こしたくらいの緑内障が初期であるというのは考えにくいです。これが緑内障患者へのおかしな差別にならないか、気がかりでした。
ちなみに、原作に見えない部分を「ブラインド・スポット(盲点)」と書いて、心理的な盲点を匂わせる伏線にしていましたが、ブラインド・スポット(blind spot)、盲点は健常者でも、だれでもある、視野で見えない部分です。緑内障で起きる視野の異常は「暗点(scotoma)」と言います。それくらい村上春樹は目の異常の知識がないまま、ただ小説の題材にしただけなので、疾病差別につながらないようにしていただきたいです。
唯一、印象的だったのは北海道への道中。三浦さんは母親を起こさないように運転の技術を磨いた人。その車中で西島さんが眠りから覚める。それがなにを意味するのか、ただ意味もない、ただのシーンなのかわかりませんが、なにか縛呪が解かれたような不思議な感覚を覚えました。
1,200円だったからかも?!
コロナ禍の中、かつて隆盛を誇った近くのシネコンを前日ネット予約。3時間の長丁場だから端席で、トイレに行きやすいよう選んだつもりが壁奥。封切からかなり経っていたのと朝一の上映会なので200席に少し足らないスクリーンに10人弱の客入りでした。村上春樹氏の本は、全く読んだことはないですが、映画はノルウェーの森は観ました。でも全く内容は覚えてなくレビューもしたかな?!程度。赤い車の意味、若い男の振る舞い、運転手の過去、ワーニャ伯父さん、多国籍、多様性、いろんなことを考えさせられる内容で悪くはなかったです。死ぬこと生きること、結婚他人、愛哀、義務責任、親子、過去未来、対比がいろいろあり、たくさん考えました。赤車じゃなく黄コンバーチブルだったら、また考えさせられました。泣ける場面はなかったですが1,900円ではなく良かったです。オリンピック残念。居抜で良い店入るとイイなぁ。
映画史に残る珠玉のロードムービーが生まれた。
米アカデミー4冠作品ということで、かねてより注目していたものの、シアター系は1日1回しか掛からないという塩興行でなかなか時間が合わずやっと観た。
村上春樹短編の原作は読んでいないものの、いかにも村上春樹作品に登場する意識高い系夫婦wのセックスと超非現実な語りから始まる冒頭で、正直なとこ一抹の不安もよぎったw しかし全編鑑賞後、予想を遙かに上回る佳作であったと感嘆した。
とにかく上映三時間という長丁場にもかかわらず、丁寧に丁寧に登場人物達を掘り下げて撮り上げ、その繊細な演出も素晴らしく最後までダレることなく観ることができたと思う。確かに原作は村上春樹ではあるものの、浜口監督シナリオのストーリーテーリングは賞賛すべきところが多い。西島演じる家福の舞台演出術の描写などは、論理的で破綻もなく舌を巻いた。こういところはおざなりになりがちだから余計にそう思うのだ。
「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」
ロシア帝国の偉大な作家チェーホフはワーニャ伯父さんでそう書き記した…劇中の舞台と主人公たちの人生が鮮烈に交錯してゆくのは胸に迫るものがあった。ふつうに観ていても心揺さぶられるものが多い本作だが、「人生はかくも醜く辛い」ということを数多く認識してる人にとっては、より琴線にビシビシ触れるものが多いことだろう。
あと余談だが、狂言回しの小道具となる車がなぜサーブ?というのも後半からラストにかけて観てゆくと納得なのだ(笑)
何だか残念
アカデミー賞総ナメになりましたが。
3時間の大作映画で、村上春樹の。とくれば期待値が高く。
村上春樹の小説はほとんど読まないので原作は、わかりませんが。何かしらの余韻や感傷を残すのではと、久しぶりの3時間映画に挑んだのですが。
とにかく、意味不明!ストーリーの意図がわからなくはない。しかし、すべてが唐突過ぎて、また無機質な朗読を読んでいる男女をただ観ていただけといえば辛辣ですが。
役者の個性が、見えて来なく。感情を抑えていた演出だったとしてもあまりにも素っ気なく。人物の内面性や人物像が見えてこない
愛妻を亡くした(西島さん役)の脚本家と、母親を災害で失くして自分が見殺しにしたと。良心の呵責に苛まれるドライバー役の彼女との出会い中で癒し癒されるカタルシス。二人に関わる大事な人達を失った喪失感とトラウマを二人が告白しあい、秘密を共有する事で二人の浄化と亡くなったお互いの大事な人への鎮魂歌?
内容がヘビーなのにちっとも感情の抑揚を感じず。劇中劇の中で、西島さんが演じた役柄の表現が唯一の感情の解放だった事は理解できるのだが。
脚本がダメなのか?演技者がダメなのか?
そして何故に?その映画がアカデミー賞を総ナメなのか。映画好きな私にとって不可思議な映画のひとつになった。
村上春樹の世界
なのかな、と思いながら観ていたが、ゴドーもワーニャも観たことない自分には難解。感情を込めずに台詞を言うという稽古がよくあるのかもしれないが、音のテープから流れる台詞回しがあまりに棒読みで?だった。パンフでわざとだとわかったが。三浦さんの芝居も硬い。タバコに火をつける仕草など、慣れていない感じ。岡田さんはつかみどころのなさが良かったが、車の中での意味ありげな告白は取ってつけたよう。脚本の問題かと思いながら観た。
海外の評価は高いので、村上春樹さんの世界観が評価されたのではと思うし、ネタとしては面白いとは思う。古典を知らずしてこの映画は理解できないと言われているような気がした映画。
好みが分かれる
村上春樹さんの作品がもともとあまり得意ではなかったのですが、村上春樹のファンの人に誘われて一緒に見に行きました。
最初の導入のシーン?がどうしても受け入れられず、その後も登場人物の独特な言葉遣いやキャラクター、ベットシーンが……。加えて、映画自体も難解で途中から眠くなってしまいました。途中の夜景のシーンが綺麗で良かったです。
一緒に行った村上春樹ファンは「とても面白かった」と言っていたので、好みが分かれる作品だと思います。村上春樹感が満載なのでファンの方やあの世界観が好きな方にとっては、とても面白いと思います。
一番恐ろしいのは、それを知らないでいること
映画「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)から。
約3時間(179分)が、あっという間に過ぎた作品だった。
今回は、台詞を聴き漏らしたくなくて、邦画なのに、
珍しく(字幕)バリアフリー日本語を設定した。
村上春樹さんの作品は、登場人物の名前が読みにくい。
主人公は「家福」(カフク)さん、妻の名は「音」(オト)さん、
さらに「山賀」(ヤマガ)さん「渡利」(ワタリ)さんなど、
文字で確認しないと、漢字が浮かばない苗字や名前が多かった。
私の場合、苗字が頭にパッと浮かばないと、どうしても、
それが気になって入り込めなくなるから、字幕は正解だった。
さて、前置きはさておき、気になる一言は、
「真実というのは、それがどんなものでも、
それほど恐ろしくはないの。
一番恐ろしいのは、それを知らないでいること」を選んだ。
作品の中、あちこちに散りばめられている「一番恐ろしいこと」
何気ない生活から、世界を揺るがすような事件も、
本当は何も知らないのに、知った気になっていたり、
もっと深い何かを見過ごしていたりする恐ろしさかもしれない。
世界で注目されているこの作品、世界の人々に伝えたいことは?
そんな視点で見ると、唸ってしまうよなぁ。
ワーニャ伯父とソーニャ
原作の小説に丁寧に肉付けされたもうひとつの「ドライブ・マイ・カー」
家福とみさきのカタルシスが劇中劇ワーニャ伯父のラストに繋がる。
「どんなにつらい人生でも仕方がないわ、歩いていかなくちゃ…。あちらの世界でやっと一息ついて美しい人生を始めることができる…。」
異国の地で二人はワーニャとソーニャのように寄り添って暮らしていくのかな…そんなことを考えたラストシーンでした。
能動的な鑑賞が必要な映画
まぎれもない名作。
また、映画館で観るべき映画。
邦画だからテレビでいいかなー、とちょっと思ったが、映画館で観て良かった。
ただ、ある意味で難解で、観る人が映画に何を求めているかで全く評価が違ってしまう映画とも思った。観る人を選ぶ。
村上春樹はほとんど読んだことが無いが、この映画はすごく文学的であり、原作もこんな感じなのだろうな、と思った。
それにしても長い! 序章にあたるところが終わるところでオープニング・クレジットが表示されて、軽く混乱した。あまりに序章が長くて、「もしかしてこれエンディング・クレジット?」と思ってしまったからだ。
この映画は「演劇」をテーマにしているが、この映画そのものが演劇的なところが面白い。謎めいたストーリー、謎めいたセリフや行動、それらの意図は映画の中ではほとんど示されない。意図は鑑賞者が考えながら、感じながら、感覚をとぎすませながら観るしかない。そして一瞬でも気を抜いてしまうと、映画への関心を維持し続けることができなくなってしまう。映画鑑賞に対してきわめて能動的な態度が求められる。
音(おと)が夢うつつに語る物語、チェーホフの脚本が奇妙に現実のできごとや主人公の内面にリンクしている。まるでフロイトの夢診断のようだ。
演劇、文学というものの本質は、その物語の中に自己を投影し、何らかの答えを得ようとすることなのかもしれないな、と思った。
僕は昔から「聖書」という存在がどんな風に信仰者の支えになっているのかピンとこなかったのだが、この映画を観てそれが分かったような気がする。聖書の中で偶然目にとまった一句が、まるで神からの啓示のように感じることがあるはずだ。そういう形で信仰者は自己の内面を見つめることで神と対話するのだろう。
演劇者にとってたぶんチェーホフの戯曲は、まるで聖書のように、豊かな奥深い示唆を含む、特別なものなんだろう。
ただ、ぼくは残念ながらチェーホフの戯曲を読んだことがないので、この映画の登場人物たちにいまいち共感できなかった。主人公のやっている「多言語演劇」の何がすごいのかまったく分からないし、彼らの演じる「ワーニャ叔父さん」も面白いと思えなかった(少なくともお金だしてこの演劇を観たいとは思わない)。なんか徹底的に芸術を追及しててすごいな、って思うくらい。
この映画は「こだわり」を手放していく過程、傷ついた主人公の再生の物語とも読める。「車」は妻への思いそのものの象徴であり、主人公は車を他人に運転されること、車を粗雑に扱われることを異常に嫌がる。
しかし、避けていた妻への自分の本当の思いに向き合うことで、徐々に自分の気持ちを解きほぐしていく。ラストシーンでは、ついに主人公は車への執着から解放されたことが示唆される。
個人的に不満だったのは、高槻が車の中で長語りをするところあたりから、この映画のリアリティ・ポイントが変わってしまったように感じたところ。ここまでは映画の世界観はぎりぎりのリアリティを保っていたと思うのだが、このへんから妙に演劇的になってしまって、「こんなん現実でありえんやろ…」と思ってしまうシーンが多くなってしまった。一人の人物が会話もせずに演劇の脚本を読むように語るってのは現実にはそうそうない。
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追記
主人公の演劇論について、謎が多いので自分なりに自由に想像して考察してみた。もしかしたら全く的外れかもしれないが…。
まず、「感情をこめずに台本を読む練習」が出てきたが、これはいったい何なのか?
おそらく、役者が演じようとして演じることを矯正するためなのではないか?
映画に「うまく演じようとしなくていい」というセリフがあった気がしたが、まさにこれは演劇に限らず、あらゆる表現に共通する普遍的なアドバイスだと思う。僕自身、スピーチにしろ、プレゼンにしろ、文章にしろ、何らかの作品にしろ、「うまく〇〇しようとしなくていい」というアドバイスを何度諭されたか分からないほど批判されたし、僕自身も他人にこの言葉を何度も繰り返し言っている。
「『うまくやろうとする』ということが意識されている」、ということは、そこには演じようとする役者と演じられるキャラが分離しているということだ。観客はそこに、「うまく演じようとしている役者」をみるのであって、「キャラ」そのものをみているわけではない。
「演ずる意図をせずに演じること」の重要性はとてもよく分かる。僕は映画を観るとき、できるだけ役者の存在を意識したくない。無名の役者しか出てこない映画が理想だ。もし有名な役者が出ていると、どうしても「演じている」ということを意識してしまい、映画の世界に没入しにくいからだ。
役者が脚本を完璧に記憶し、自分自身を完全に捨て去って(忘我の境地となり)、脚本に対して何の意図ももたず、まさに操り人形のように演じたとき、そこにキャラそのものが立ち現れる…、これが主人公の演劇論なのではないか?
別の見方をすれば、これは役者が自分自身を空っぽにして、そこにキャラを「憑依」させているのだといえる。演劇の起源の1つとして、シャーマンが神や精霊を自身に憑依させる神楽のようなものがあると思うが、そういった考え方に近い。
主人公は妻の死後、「ワーニャ叔父さん」の役ができなくなったというが、これは、数々の悲劇にさいなまれ続けるキャラに主人公自身が過剰にシンクロし、演劇と現実の切り替えができなくなってしまうせいだと思う。
では、主人公のやっている「多言語演劇」というのは何なのか? 多言語演劇の面白いところは、役者どうしは相手の言っていることを理解していない、ということだ。少なくとも、理解する必要はない、と主人公は考えている。
それでも演劇が成立しているのは、脚本が完全に決まっているからだ。役者たちは決まったセリフを言うだけなので、相手の言葉を理解している必要はない。
ここからはほぼ完全に僕の妄想だが、多言語演劇というのは、現実世界の暗喩なのではないか。我々は他人とコミュニケーションしているつもりでいるが、実は全くコミュニケーションなどしていない。していると思い込んでいるだけ、相手の言葉を理解しているつもりになっているだけだ。
多言語演劇のある種のいびつさ、というか、不完全さ…、それを観客が観たときのいらだちや不便さの感情というのは、他人とは実は永久にコミュニケーションがとれないものなのだ、という絶望的な孤独感や、それでも不完全なまま世界が動いて進み続けているという、不安定感と同義のものなのではないか。
さて、最後の謎、主人公の多言語演劇と、音(おと)の夢うつつにおりてきた物語は、どういった意味で「同じ」だと言えるのか? それは、物語に「意図」が存在しない、ということなのではないかと思う。少なくとも「意図」を求めない、ということではないか。
音の物語はもちろん、音が考え出したものではない(おりてきたものだ)から、意図などは存在しない。しかし意味がない、ということではない。いや、意図がないからこそ、そこに無限の意味を見出せる、ともいえる。物語は観客に意図を押し付けない。しかし観客は自然にそこに自分の内面を見てしまう。音の物語の魅力はそこにあるのではないか。
そして主人公の多言語演劇もまた、注意深く意図を排除しているように思える。そこには頭から終わりまで一字一句チェーホフの戯曲が再現されるだけであり、いかなるアドリブもなく、ある意味で全く機械的な複製の作業をしているにすぎない。しかし意図が無いからこそ、やはり観客はそこに無限の意味を見出しうる、といえる。そしてその無限の意味を見出しうるほど豊かな内容をチェーホフの戯曲は内包しているのだ、と主人公は考えている。
ちょっと飛躍しすぎかもしれないが、考察終わり。
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