ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
全786件中、681~700件目を表示
福井の映画好きは映画館で観なかったことを後悔する
DVDとかで良い映画に出会うと、映画館で観たかった、と悔しくなる。そういう作品。
すごく新鮮な映画体験だった。
他の方も書いているように重奏的。
オムニバスじゃなくて、並行して進んで行く感じ。
目の前の映像とは別に観客の想像力をうまく使っているんじゃないだろうか、
それは始まりから巧妙に仕掛けられていたんじゃないだろうか、
観客の想像力によって成り立つのは、まさに演劇の世界だよなぁ、
等々、後になって思ったけど。
でも、重奏的な物語を観賞中けっして複雑に感じない自然な構成。
今でも目に浮かぶ、すばらしい映像。
間違いなく、今年のベスト。
上映中もう一度観に行きたい。
昨年の私的ベスト「はちどり」を上映したのが、福井県ではテアトルサンクだけだったのですが、今作も今のところテアトルサンクだけ。
本当にありがたい映画館です。
「言葉」なんて
私にとって
「村上春樹」…苦手
「演劇」…不勉強
「チェーホフ」…誰だっけ
というレベルの前提弱者として観賞。
もちろんそんな予習は必要ない訳だけど。
車内での膨大な心情吐露。
そして膨大な「間」
2時間にわたる長い長い前フリは、ストーリーが動き出す残り1時間のための重要な助走。
どれだけ近しい人物であっても、「言葉」で相手を知ったつもりになっているだけかもしれない。
しかし。
主人公が演出する芝居は、多くの言語どころか、手話まで表現に利用する。
「言葉でわかり合う」という事への皮肉なのか、熱望なのか。
淡々と、無感情に見える会話、そして物語は、彼のお芝居の稽古ともリンクしていたり。
…とまぁ、分かったフリして書いてみているが、多分印象はそれぞれだと思うし、この「淡々と」に飽きてしまう人もいるだろう。
私はあの韓国式手話で会話する女のコに感情を寄せていた気がする。
観た方なら、それぞれ心を寄せるキャラクターがいたのではないだろうか。
「こうあるべき」を押し付けてこない。
分かりあえなくてもいい。
でも、それぞれ大事なものがある。
不思議な空気感
先週末は特に観たい新作がなく、たまたま上映時間の都合がよかった本作を鑑賞してきました。事前情報をいっさい入れずに行ったので、冒頭から流れるいつもの見慣れた作品とは異なる雰囲気に、やや違和感を覚えました。しかし、ほどなくこれが舞台演劇の醸し出す空気感だとわかり、徐々に浸ることができました。もっとも舞台演劇を鑑賞したことがないので、想像でしかありませんが…。
そんな独特の雰囲気を作り出しているのが、車内でカセットテープから流れる、やや無機質な音声。それとオーバーラップするかのような現実の流れ。しかも、それが重なっているような、いないような絶妙な台詞回し。そんな実在の戯曲と重ねられた脚本を、序盤は霧島れいかさん、中盤は岡田将生くん、終盤は三浦透子さんがグイグイ引っ張ります。この三人が西島秀俊さんとのやりとりで見せる演技が、三者三様ですばらしかったです。
特に大きな事件が起きるわけでもなく、淡々と流れるストーリーなのに、なぜか目が離せませんでした。夢中になって観ていたというより、気づけば浸っていたというような不思議な感覚でした。途中で、演劇論や人生哲学的なくだりがあり、難しくて理解できない部分もあったのですが、それさえ心地よく感じてしまいました。
最も印象的だったのは、ラストの家福とみさきのシーン。このシーンのためにここまでに長い時間をかけて二人を描いてきたのかと、ここで一気に収束するような感じがしました。みさきが語る過去から、彼女の人柄や人生観が伝わり、家福も自然と自分と向き合っていきます。人は矛盾に満ちた生き物で、それを他者が論理的に理解できない。そもそも自分を理解するのも単純なことではない。さまざま飲み込んで生きていくしかないが、そこにあるのは絶望ばかりでもない。二人のやりとりを観ながらそんなことを感じていました。
ただ、自分にはちょっと難しい作品でした。普段ほとんど読書をしないので、村上春樹さんの作品にもロシア文学にも疎く、本作を十分に味わえなかった気がします。特に劇中劇の内容がさっぱりわからなかったのは致命的でした。他のかたのレビューを参考にして、機会があればまた観てみたいと思います。
舞台の俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)。 彼が創り出す舞台作品は...
舞台の俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)。
彼が創り出す舞台作品は、著名な戯曲をもとにしているが、世界各国の言語が入り混じる独特のもの。
私生活では20年以上連れ添った妻の音(霧島れいか)と穏やかながらも満ち足りた日々を送っていた。
しかし、ふたりの間に障壁がなかったわけではない。
十数年前に幼い娘を病気で亡くし、落ち込んでいた妻は悠介に隠れて、複数の男と関係を持っていた。
さらに、現在、テレビドラマの脚本家をしている音は、悠介との行為のあと無意識に物語を語りだすという奇妙な性癖があり、それがテレビドラマのもとになっているのだった。
そんなある日、出かける直前の悠介に音は思いつめた様子で「今晩話がしたい」と言い、その夜、遅く帰宅した悠介はくも膜下出血で倒れている音を発見、音はそのまま帰らぬ人となってしまう。
それから2年・・・
といったところからはじまる物語で、ここまでがかなり長いプロローグ。
この後、広島の国際演劇祭でライフワークともいうべき『ワーニャ伯父さん』の演出を任された悠介は愛用の赤い自動車で広島へ向かい、演劇祭の実行委員会から専属ドライバーとして寡黙な女性みさき(三浦透子)が提供されることとなる。
悠介は愛車の中で『ワーニャ伯父さん』の台詞を復唱することを常とし、ワーニャの台詞以外は音が読み上げるテープがその相棒であり、それは音が死んでからもなお続けられている・・・
このどことなく奇妙な物語がどこへ行きつくのか? 個人的には「怪談」だと感じました。
2年前に死んだ妻に囚われてしまった男の物語。
憑りつかれている、といってもいいかもしれません。
悠介に憑りついて離れないのは、「今晩話がしたい」といった音の話。
いつもならば、寝物語として聞いた音の話は、翌日、悠介が改めて語ってみせるのだが、音が死ぬ直前、最後に語った「ヤツメウナギの物語」は、不倫現場を見て見ぬふりをした悠介には語りなおすことが出来なかった。
「今晩話がしたい」と言った音の「話」とは、不倫をしている、という告白話ではなく、悠介が語りなおさなかった「ヤツメウナギの物語」であり、それは映画後半、音の不倫相手のひとりであった若い男優・高槻(岡田将生)の口から語られることになる。
そして、その「ヤツメウナギの物語」には続きがあり、幾重にも重なった死の物語が語られる・・・
このシーン、高槻の口を借りて音がよみがえったようであり、心底ゾッとさせられました。
映画は、音の存在を、彼女の声・言葉というモチーフを使い表現し、悠介の心に呪を掛けています。
その呪を解くのが、みさきとのロングドライブで、北海道のみさきの生家跡にたどり着いたのち、みさきの口から語られる母の死にまつわる物語であり、それをさらにダメ押しするのが最後の『ワーニャ伯父さん』の舞台です。
舞台のエンディングは、娘ソーニャがワーニャに語るセリフで終わるのですが、今回の舞台では、ソーニャを演じる女優は口が利けず、ワーニャに手話で語り掛けるという演出が採られています。
すなわち、ワーニャ演じる悠介に憑りついていた亡妻・音の声は聞こえなくなり、悠介もワーニャ同様に心の平安を得るというダブルミーニング手法。
驚くべき映画の構成、これはすごい。
カンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いたのも納得です。
前作『寝ても覚めても』で死神のような恋愛に憑りつかれた女性を描いた濱口監督、今回は、自分自身の疑念と亡き妻の妄念に憑りつかれた男を描くとは!
いやぁ、もう一度、鑑賞したいですね。
素晴らしい映画でした
最近、歳のせいか映画の最中で睡魔に襲われることがあり、レビュー等を見て不安を抱きながらも村上春樹ファンとして必須の映画なので平日の映画館で鑑賞しました。僕が思う素晴らしい映画は最初のシーンが良い。
この作品も冒頭からスクリーンに釘付けになりました。
主演の西島秀俊さんはもちろんの事、すべての俳優さんが素晴らしいです。特に個人的にはあまり好きでなかった岡田将生さんが最高でした。長い上映時間もあっという間に過ぎ、切ない感じのラストシーンもとても良かったです。
最近の邦画でほぼお見かけしない類い。器が大きい。全く焦らない。重奏...
最近の邦画でほぼお見かけしない類い。器が大きい。全く焦らない。重奏的。久々に、この映画は終わらなくていい、と思った。
難しい!たぶん素直に難しいと受け取るべき!
ハッキリ言って、演劇的な難しい台詞回しを全部は理解できませんでした。演芸をさっぱり観ないからかもしれません。慣れている人が見たらセリフも理解できて、直喩隠喩も理解できて、また全然違う感想になるのでしょうか。
けど結局私は良くわからなかったので、そのまま受け取ることにしました。製作者の意図が前提にある導かれるストーリーではなく、偶然が前提でそのストーリーの中で登場人物が想いを巡らし語った、と。ただその中でも広島在住の韓国人夫妻についてはちょっと考察を巡らしてしまう存在です。幸福の象徴でしょうか。そう言いたくなってしまうほど光輝いて見えました。奥さんが最後の舞台上で非常に聖書的なセリフを語るのもそれを印象付けます。
冷静に考えるとストーリーは全然リアルではなく、むしろ荒唐無稽です。しかし演技と演出のリアルさで押し切っている感じですか?演技も、公演に関わる部分はとてもリアルに感じましたが、逆にそれ以外のシーンではむしろ演劇的な観客を意識したかのようなちょっとリアルさを欠いた演技に感じました。
もうけどごちゃごちゃ考えても正しい監督の解釈など理解できるわけないし、とにかく素晴らしかったです。素晴らしい映画でした。ただ続く人生へ向ける眼差し。複雑すぎて素直に捉えるしかない、素晴らしい映画です。もう本当に面白かったです。
(当然ながら)このレビューは個人的な記録を主たる目的に記しているもので、この映画は全然私の手に負えるものではありません。しばらくは、ちゃんとした批評、キチンとした評論を探すことになります。早くそういう文章を読みたいです。
よかった
車にクセがあるとか運転がうまいと言ってもオートマなので、あまりピンとこない。オレはマニュアル乗りなので、オートマは下に見ている。
奥さんの浮気を知っても黙殺するところに凄味を感じる。
けっこう長いわりに退屈しないし、役者さんの演技や演出はレベルの高さを感じるのだけど、あまり心に残らなかった。
幻想的なロードムービー?
上映時間が長いのは物語の進みがゆっくりだから
と言うより、間が長いのと繰り返しが多いから
ドライブシーンはもっと内容が欲しかったのに残念
長い映画の割に案外集中して観れてしまったのは映画のつくりが良かったからでしょう
でもこれが長いのを容認する理由にはならない
こんな終わり方をするのであれば2時間にまとめて欲しかった
西島秀俊は名演であった
シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。
タバコをふかして チェーホフなんか読んで
悪くないものよ ひとり暮らしも
男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。
本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。
セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。
本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。
濱口監督の心地よいハンドルさばき
村上春樹の持つ言葉の引力。
シンプルなのに沁みるようにスッと入ってくる。
冒頭から全てが美しい。
みさきの運転のように心地よい濱口監督の演出。
次々と目に飛び込む美しい景色。
目で追ってしまう魅力的な女性たち。
そんな時、アクセルを強く踏まれ感じる重力。
深い闇を照らすヘッドライト。
明確な感情を捉えることが出来なかった
失ったパートナーや家族に対する想いが
ライトの光で浮かび上がる瞬間。
こんなに清々しいドライブは久しぶりです。
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語
映画『ドライブ・マイ・カー』の感想です。
ブログではネタバレありで書いています。
監督:濱口竜介
制作年:2021年
制作国:日本
カンヌ国際映画祭 脚本賞、他3賞
原作:『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』) 村上春樹
【あらすじ】
舞台俳優の家福は、自身の不在中に妻が男を家に入れ、性交している現場を覗き見てしまう。
妻にはそれを告げずに夫婦生活を続けるが、妻は突然亡くなる。
二年後、舞台に上がれなくなった家福は演出家として広島に招かれるが、そこでの日々を通して、徐々に過去と向き合い始め。。。
【感想】
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語です。
男女の心情を丁寧にゆったりと描いており、観客として彼らに寄り添う時間とスピードは3時間という長さでも丁度良いと感じる程でした。
村上春樹原作。カンヌで日本映画初の脚本賞受賞作です。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
文学的か?
あえてセリフ劇にしてるんだろうけど、舞台的な感じは好みじゃない。セリフで言わせてしまうとか。
どうしても演劇だったら、文学だったらと発想してしまう。
夢の話も映像にしなかったのは演出だろうけど、それこそその夢の話を映画にしたら面白そうと思ってしまう。
わたしとは、だれか。
村上春樹の小説を読み終えた後に、つい反芻しながら咀嚼する時のような時間を味わいました。
短編がなぜこの長さになるんだ…と思わなくはないですが、だからこそ伝わる後半の「向き合い」があるのだろうとも感じます。長い分だけ、西島さんと三浦さんで良かったと思いました。
自分の気持ちを真っ直ぐに受け止め表現することは、自身の傷つきを受け入れること。その一方で、傷つくことへの恐れは、目の前の(どこか偽物の)心安さに簡単にかき消されるのだと知りました。
そして自分と向き合うことがこんなにも難しいのだから、他者を正しく知るなんてことはより難しく、「そのまま」受け容れるしかないのだと教えてくれた映画でした。
劇中劇と並走させることで狙いたかった効果をどのくらい感じられたかわかりませんが、多様な言語や手話、淡々としたセリフまわしの醸し出す世界観は、自分で意味を付けて補いながら観るような、不思議な感覚でした。
狭い車内、広い大地、そして舞台。
人は誰もが役者で、セリフや言葉を通じて、自分と向き合い、その過程で自分を知るのかもしれない。
数年後に見て、その時の自分とまた向き合ってみたいと思いました。
喪失と後悔と真実を観ること
映画が始まってすぐに、この映画🎬は、絶対面白いな。と、確信できて、最後まで裏切らない映画でした。
大切な誰かを亡くした時に、
なんとか出来たのに、それが出来なかった、、
という場合は、、やはり後悔が、しつこくて、深い。
そうしたことを乗り越えて生きたい、すべての方に
オススメな映画です
そして、声、言語、音、セリフ、コミュニケーション
って、なんなのか。。ということが、伝わってくる映画でもあります。。
カンヌの脚本賞✨を受賞したことに
深く納得が行きました
こころが、ほんとうに静かに満たされました。。。
見る前に「ワーニャおじさん」は読んでおこう
映画普段全然見ません。
村上さんの作品はほぼ全て読破しています。
今まで村上さんの作品の映画化は、いまいちピンと来ませんでした。
そのため今回もがっかりするのでは、、。と思いましたが、映画を見付けない人にも楽しく見ることができました。
本作は「村上さんの作品を監督はこう解釈した」と真正面から向かっている姿勢がとても良いと思いました。
原作を読んだ者としては、鏡の使い方が上手いなあ、と思いました。
村上さんの作品では鏡はとても重要なモチーフだから。
性描写がありすぎて途中で気持ち悪くなって席を立ちそうになりました。ディープキスの音などいたたまれなかったです。これは不要かと。
「シエェラザード」との組み合わせはいらない気がします。
妻は話の中だけの存在としているだけで十分なので実在の音役は映像としていらないと思いました。テープの声だけの方が想像が膨らみます。「女のいなくなった男たち」でなく、「女のいない男たち」なので。
原作でも、妻は既に亡き存在として、他者からただ語られるだけの不確かな存在です。
できればサーブは黄色であってほしかった。村上さんの作品では色は必ず意味があるから。原作への敬意として。
十二滝村のシーンは、どこかで羊男が出てこないか注意深く見ていたが気づきませんでした。残念。
最後10分急に陳腐になりました。抱きしめあっちゃダメでしょ。「音を怒ってやりたかった。」とセリフで言わせてはダメだと思います。言葉でなくてそこは映画なので、映像とか音楽でなんとかしてほしいです。そのセリフは見る人に想像させてほしいです。
最後明るい話になって大団円だったので原作至上主義者には違和感は感じつつ見終わった後は明るい気持ちになったので良かった気もします。
高槻役の岡田さんは、秘めた挑発性がこの展開につながったのかと後半でしっくりきました。
でも、高槻という存在と家福との関係を丁寧に描き切らないままキメの台詞が来たので、いまいちのることができませんでした。
家福が高槻の懐に入り込んでこそ、あの台詞が家福の心に深く降りてくるのではないかと思います。あのキメ台詞を引き立たせたいのなら、関係性をしっかりと映画内で描き切ってほしいとも思いました。
西島さんが目薬さすシーンが、時々あってそれがよかったです。
なによりも、一番光っていたのは、韓国語の通訳スタッフとして出ていた俳優さんです。あの方の地に足のついた演技で浮世離れの話でなくなった気がします。彼の存在だけでこの作品は★4つ。
追記:考えてみると、物語と映像には、一貫して死がまとわりついています。妻の死、みさきの母の死、抑揚のないセリフの練習。広島のゴミ処理場で出てくる原爆ドームを繋ぐ吹き抜け、北海道の雪景色の白。
だからあの芸術祭の担当の女の人はあんな無表情な話し方をするんだろうなと思いました。あの物語自体が異界の物語なのでは。ロードムービー仕立てになったことでお遍路さんを想起させます。その中を巡る赤いサーブは血の色ですね。それを生の象徴ととるか死の象徴ととるか。
連絡船で真っ黒な夜を越えて行くふたり
村上春樹の短編小説が原作。濱口監督の脚本。韓国の俳優たちを含めた多言語の舞台芸術場面に没入できないもどかしさを感じつつも、3時間の上映時間に長さを感じることはなかったのは、原作をかなり変えた脚本と西島秀俊と三浦透子を含めたキャストのためと思われた。
俳優で演出家でもある家福悠介(西島秀俊)は広島での芸術祭の期間中の約2ヶ月、愛車のSAAbの運転を任せることになった左頬に切り傷のある寡黙な蔭のある若い女みさき(三浦透子)は韓国出身の主催者の家に招かれ食事をともにすることをきっかけに話をすることが多くなったり、ふたりとも喫煙者なので話すことが多くなり、ゆっくり距離を縮めてゆく。悠介は3年前に妻の音(霧島)をくも膜下出血で亡くしていた。みさきは北海道の辺鄙な村(上十二滝町)の出身で、裏山の崖崩れで母子家庭のひとり親を亡くしていた。ふたりとも親しい者の死に際して、誰にも言えない愛憎と罪悪感の入り雑じった苦しみを伴う秘密を胸に生きていた。
芸術祭参加演劇に応募してきた俳優の高槻は女にも喧嘩にも手が早く、公演初日の数日前に傷害殺人罪で逮捕されてしまい、悠介は主催者側から公演中止か悠介が主役の代役を勤めるかを数日中に決めることを求められる。悠介が自ら主役を演じたくなかったのは、劇の主人公を演じると妻のことを色々思い出して辛いからなのだろう。
悠介はみさきに故郷の村をみせてほしいと言う。広島から北海道に車で向かうのだ。運転を代わろうかと申し出る悠介を拒むみさき。中学生の時から運転していたみさきのプロ根性(暴走族ではない)。青函連絡船(青函トンネルが出来以来、運航しなくなったのでは?)で仮眠をとって、故郷の雪に覆われた廃屋を前にして、抱き合い、涙するふたり。確か、連絡船のデッキから悠介は子供モノの防寒服を海に捨てたようなシーンがあり、仮眠するみさきに女性モノの防寒コートをかけてあげていた。悠介がこれまで大切にしていた思い出に一区切りつける決心をしたんだと思った。悠介には4歳でひとり娘を肺炎で亡くしている過去があった。生きていればみさきと同い年らしい。夫婦はその後、子供をもうけないことに決めて、妻もドラマの脚本家として活躍していた。夫婦がベッドでかわすピロートークはオーガズムに達した妻がうわごとのように言うことを悠介が翌日妻に口述するかたちで紡いでゆくドラマの脚本だった。思いを寄せる男子生徒の家に昼間忍び込み、タンポンや下着を置いて来て、自分の気配を残すという奇行を繰り返す女子高校生の話し。ここらへんは村上春樹っぽいのかなぁ???初期の村上春樹しか読んでないけど、こういうエロはちょっと春樹らしくない気がする。
霧島れいかはけっこうご年配なのにきれいなお背中でした。ありがとうございました🙏
脚本では原作での舞台の東京を広島に移し、撮影は主に釜山を使ったらしいので、青函連絡船は釜山の連絡船だったのだろう。
最後!悠介は芸術祭の舞台に立っていた👏乗り越えたのだ。
ラストはみさきがSAAbを運転する韓国の広い道路や量販店の駐車場で終わる。主催者の家にいた犬も一緒だった。左頬の傷もきれいに消えかかっていた。実に清々しい終わりかただった。みさきに赤いSAABをあげた悠介。車のナンバーは多摩503つ3982だったのが韓国のナンバーに変わっていた。犬はくれって言ったのかな?
サスペンス映画だったら、みさきが悠介と主催者夫婦を殺して、韓国に高飛びしたってことになるんでしょうけど。
全786件中、681~700件目を表示