ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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3時間って長い
自分が何とかできたかもしれない状況で大事な人を失った後の遺された者の悲しさ辛さ、それでも生きていくのだと決意する強さ。
そういったことはわかるけど、なんか余計な要素が多い。演じる俳優がバラバラの言語を話す演劇ってほんとに面白いの?なんで広島に韓国人しかも妻は鴦の夫婦がいるの?説明してたけど説得力なし。多様性はわかるが。緑内障のくだりとか、高槻がする左目をペンで突く話と繋げているのだとしても大して意味はなく、そういった一つ一つがメインテーマに繋がるわけでも特にない。なんでこんなに長くしたのか、私にはわからなかった。
ファンってのもあるのかもしれないけど、車の後部座席で向かい合ってアップで岡田将生が延々と話すシーンが良かった。岡田将生が出てなかったらもっとつまんなく感じたかも。
しかし数分間の顔面殴打で数日後に死ぬってことあるのかな。
大事なことは小さく語られる
福井の映画好きは映画館で観なかったことを後悔する
DVDとかで良い映画に出会うと、映画館で観たかった、と悔しくなる。そういう作品。
すごく新鮮な映画体験だった。
他の方も書いているように重奏的。
オムニバスじゃなくて、並行して進んで行く感じ。
目の前の映像とは別に観客の想像力をうまく使っているんじゃないだろうか、
それは始まりから巧妙に仕掛けられていたんじゃないだろうか、
観客の想像力によって成り立つのは、まさに演劇の世界だよなぁ、
等々、後になって思ったけど。
でも、重奏的な物語を観賞中けっして複雑に感じない自然な構成。
今でも目に浮かぶ、すばらしい映像。
間違いなく、今年のベスト。
上映中もう一度観に行きたい。
昨年の私的ベスト「はちどり」を上映したのが、福井県ではテアトルサンクだけだったのですが、今作も今のところテアトルサンクだけ。
本当にありがたい映画館です。
「言葉」なんて
私にとって
「村上春樹」…苦手
「演劇」…不勉強
「チェーホフ」…誰だっけ
というレベルの前提弱者として観賞。
もちろんそんな予習は必要ない訳だけど。
車内での膨大な心情吐露。
そして膨大な「間」
2時間にわたる長い長い前フリは、ストーリーが動き出す残り1時間のための重要な助走。
どれだけ近しい人物であっても、「言葉」で相手を知ったつもりになっているだけかもしれない。
しかし。
主人公が演出する芝居は、多くの言語どころか、手話まで表現に利用する。
「言葉でわかり合う」という事への皮肉なのか、熱望なのか。
淡々と、無感情に見える会話、そして物語は、彼のお芝居の稽古ともリンクしていたり。
…とまぁ、分かったフリして書いてみているが、多分印象はそれぞれだと思うし、この「淡々と」に飽きてしまう人もいるだろう。
私はあの韓国式手話で会話する女のコに感情を寄せていた気がする。
観た方なら、それぞれ心を寄せるキャラクターがいたのではないだろうか。
「こうあるべき」を押し付けてこない。
分かりあえなくてもいい。
でも、それぞれ大事なものがある。
不思議な空気感
先週末は特に観たい新作がなく、たまたま上映時間の都合がよかった本作を鑑賞してきました。事前情報をいっさい入れずに行ったので、冒頭から流れるいつもの見慣れた作品とは異なる雰囲気に、やや違和感を覚えました。しかし、ほどなくこれが舞台演劇の醸し出す空気感だとわかり、徐々に浸ることができました。もっとも舞台演劇を鑑賞したことがないので、想像でしかありませんが…。
そんな独特の雰囲気を作り出しているのが、車内でカセットテープから流れる、やや無機質な音声。それとオーバーラップするかのような現実の流れ。しかも、それが重なっているような、いないような絶妙な台詞回し。そんな実在の戯曲と重ねられた脚本を、序盤は霧島れいかさん、中盤は岡田将生くん、終盤は三浦透子さんがグイグイ引っ張ります。この三人が西島秀俊さんとのやりとりで見せる演技が、三者三様ですばらしかったです。
特に大きな事件が起きるわけでもなく、淡々と流れるストーリーなのに、なぜか目が離せませんでした。夢中になって観ていたというより、気づけば浸っていたというような不思議な感覚でした。途中で、演劇論や人生哲学的なくだりがあり、難しくて理解できない部分もあったのですが、それさえ心地よく感じてしまいました。
最も印象的だったのは、ラストの家福とみさきのシーン。このシーンのためにここまでに長い時間をかけて二人を描いてきたのかと、ここで一気に収束するような感じがしました。みさきが語る過去から、彼女の人柄や人生観が伝わり、家福も自然と自分と向き合っていきます。人は矛盾に満ちた生き物で、それを他者が論理的に理解できない。そもそも自分を理解するのも単純なことではない。さまざま飲み込んで生きていくしかないが、そこにあるのは絶望ばかりでもない。二人のやりとりを観ながらそんなことを感じていました。
ただ、自分にはちょっと難しい作品でした。普段ほとんど読書をしないので、村上春樹さんの作品にもロシア文学にも疎く、本作を十分に味わえなかった気がします。特に劇中劇の内容がさっぱりわからなかったのは致命的でした。他のかたのレビューを参考にして、機会があればまた観てみたいと思います。
タイトルなし(ネタバレ)
舞台の俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)。
彼が創り出す舞台作品は、著名な戯曲をもとにしているが、世界各国の言語が入り混じる独特のもの。
私生活では20年以上連れ添った妻の音(霧島れいか)と穏やかながらも満ち足りた日々を送っていた。
しかし、ふたりの間に障壁がなかったわけではない。
十数年前に幼い娘を病気で亡くし、落ち込んでいた妻は悠介に隠れて、複数の男と関係を持っていた。
さらに、現在、テレビドラマの脚本家をしている音は、悠介との行為のあと無意識に物語を語りだすという奇妙な性癖があり、それがテレビドラマのもとになっているのだった。
そんなある日、出かける直前の悠介に音は思いつめた様子で「今晩話がしたい」と言い、その夜、遅く帰宅した悠介はくも膜下出血で倒れている音を発見、音はそのまま帰らぬ人となってしまう。
それから2年・・・
といったところからはじまる物語で、ここまでがかなり長いプロローグ。
この後、広島の国際演劇祭でライフワークともいうべき『ワーニャ伯父さん』の演出を任された悠介は愛用の赤い自動車で広島へ向かい、演劇祭の実行委員会から専属ドライバーとして寡黙な女性みさき(三浦透子)が提供されることとなる。
悠介は愛車の中で『ワーニャ伯父さん』の台詞を復唱することを常とし、ワーニャの台詞以外は音が読み上げるテープがその相棒であり、それは音が死んでからもなお続けられている・・・
このどことなく奇妙な物語がどこへ行きつくのか? 個人的には「怪談」だと感じました。
2年前に死んだ妻に囚われてしまった男の物語。
憑りつかれている、といってもいいかもしれません。
悠介に憑りついて離れないのは、「今晩話がしたい」といった音の話。
いつもならば、寝物語として聞いた音の話は、翌日、悠介が改めて語ってみせるのだが、音が死ぬ直前、最後に語った「ヤツメウナギの物語」は、不倫現場を見て見ぬふりをした悠介には語りなおすことが出来なかった。
「今晩話がしたい」と言った音の「話」とは、不倫をしている、という告白話ではなく、悠介が語りなおさなかった「ヤツメウナギの物語」であり、それは映画後半、音の不倫相手のひとりであった若い男優・高槻(岡田将生)の口から語られることになる。
そして、その「ヤツメウナギの物語」には続きがあり、幾重にも重なった死の物語が語られる・・・
このシーン、高槻の口を借りて音がよみがえったようであり、心底ゾッとさせられました。
映画は、音の存在を、彼女の声・言葉というモチーフを使い表現し、悠介の心に呪を掛けています。
その呪を解くのが、みさきとのロングドライブで、北海道のみさきの生家跡にたどり着いたのち、みさきの口から語られる母の死にまつわる物語であり、それをさらにダメ押しするのが最後の『ワーニャ伯父さん』の舞台です。
舞台のエンディングは、娘ソーニャがワーニャに語るセリフで終わるのですが、今回の舞台では、ソーニャを演じる女優は口が利けず、ワーニャに手話で語り掛けるという演出が採られています。
すなわち、ワーニャ演じる悠介に憑りついていた亡妻・音の声は聞こえなくなり、悠介もワーニャ同様に心の平安を得るというダブルミーニング手法。
驚くべき映画の構成、これはすごい。
カンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いたのも納得です。
前作『寝ても覚めても』で死神のような恋愛に憑りつかれた女性を描いた濱口監督、今回は、自分自身の疑念と亡き妻の妄念に憑りつかれた男を描くとは!
いやぁ、もう一度、鑑賞したいですね。
素晴らしい映画でした
難しい!たぶん素直に難しいと受け取るべき!
ハッキリ言って、演劇的な難しい台詞回しを全部は理解できませんでした。演芸をさっぱり観ないからかもしれません。慣れている人が見たらセリフも理解できて、直喩隠喩も理解できて、また全然違う感想になるのでしょうか。
けど結局私は良くわからなかったので、そのまま受け取ることにしました。製作者の意図が前提にある導かれるストーリーではなく、偶然が前提でそのストーリーの中で登場人物が想いを巡らし語った、と。ただその中でも広島在住の韓国人夫妻についてはちょっと考察を巡らしてしまう存在です。幸福の象徴でしょうか。そう言いたくなってしまうほど光輝いて見えました。奥さんが最後の舞台上で非常に聖書的なセリフを語るのもそれを印象付けます。
冷静に考えるとストーリーは全然リアルではなく、むしろ荒唐無稽です。しかし演技と演出のリアルさで押し切っている感じですか?演技も、公演に関わる部分はとてもリアルに感じましたが、逆にそれ以外のシーンではむしろ演劇的な観客を意識したかのようなちょっとリアルさを欠いた演技に感じました。
もうけどごちゃごちゃ考えても正しい監督の解釈など理解できるわけないし、とにかく素晴らしかったです。素晴らしい映画でした。ただ続く人生へ向ける眼差し。複雑すぎて素直に捉えるしかない、素晴らしい映画です。もう本当に面白かったです。
(当然ながら)このレビューは個人的な記録を主たる目的に記しているもので、この映画は全然私の手に負えるものではありません。しばらくは、ちゃんとした批評、キチンとした評論を探すことになります。早くそういう文章を読みたいです。
よかった
車にクセがあるとか運転がうまいと言ってもオートマなので、あまりピンとこない。オレはマニュアル乗りなので、オートマは下に見ている。
奥さんの浮気を知っても黙殺するところに凄味を感じる。
けっこう長いわりに退屈しないし、役者さんの演技や演出はレベルの高さを感じるのだけど、あまり心に残らなかった。
幻想的なロードムービー?
西島秀俊は名演であった
シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。
タバコをふかして チェーホフなんか読んで
悪くないものよ ひとり暮らしも
男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。
本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。
セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。
本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。
濱口監督の心地よいハンドルさばき
村上春樹の持つ言葉の引力。
シンプルなのに沁みるようにスッと入ってくる。
冒頭から全てが美しい。
みさきの運転のように心地よい濱口監督の演出。
次々と目に飛び込む美しい景色。
目で追ってしまう魅力的な女性たち。
そんな時、アクセルを強く踏まれ感じる重力。
深い闇を照らすヘッドライト。
明確な感情を捉えることが出来なかった
失ったパートナーや家族に対する想いが
ライトの光で浮かび上がる瞬間。
こんなに清々しいドライブは久しぶりです。
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語
映画『ドライブ・マイ・カー』の感想です。
ブログではネタバレありで書いています。
監督:濱口竜介
制作年:2021年
制作国:日本
カンヌ国際映画祭 脚本賞、他3賞
原作:『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』) 村上春樹
【あらすじ】
舞台俳優の家福は、自身の不在中に妻が男を家に入れ、性交している現場を覗き見てしまう。
妻にはそれを告げずに夫婦生活を続けるが、妻は突然亡くなる。
二年後、舞台に上がれなくなった家福は演出家として広島に招かれるが、そこでの日々を通して、徐々に過去と向き合い始め。。。
【感想】
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語です。
男女の心情を丁寧にゆったりと描いており、観客として彼らに寄り添う時間とスピードは3時間という長さでも丁度良いと感じる程でした。
村上春樹原作。カンヌで日本映画初の脚本賞受賞作です。
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ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
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文学的か?
わたしとは、だれか。
村上春樹の小説を読み終えた後に、つい反芻しながら咀嚼する時のような時間を味わいました。
短編がなぜこの長さになるんだ…と思わなくはないですが、だからこそ伝わる後半の「向き合い」があるのだろうとも感じます。長い分だけ、西島さんと三浦さんで良かったと思いました。
自分の気持ちを真っ直ぐに受け止め表現することは、自身の傷つきを受け入れること。その一方で、傷つくことへの恐れは、目の前の(どこか偽物の)心安さに簡単にかき消されるのだと知りました。
そして自分と向き合うことがこんなにも難しいのだから、他者を正しく知るなんてことはより難しく、「そのまま」受け容れるしかないのだと教えてくれた映画でした。
劇中劇と並走させることで狙いたかった効果をどのくらい感じられたかわかりませんが、多様な言語や手話、淡々としたセリフまわしの醸し出す世界観は、自分で意味を付けて補いながら観るような、不思議な感覚でした。
狭い車内、広い大地、そして舞台。
人は誰もが役者で、セリフや言葉を通じて、自分と向き合い、その過程で自分を知るのかもしれない。
数年後に見て、その時の自分とまた向き合ってみたいと思いました。
喪失と後悔と真実を観ること
映画が始まってすぐに、この映画🎬は、絶対面白いな。と、確信できて、最後まで裏切らない映画でした。
大切な誰かを亡くした時に、
なんとか出来たのに、それが出来なかった、、
という場合は、、やはり後悔が、しつこくて、深い。
そうしたことを乗り越えて生きたい、すべての方に
オススメな映画です
そして、声、言語、音、セリフ、コミュニケーション
って、なんなのか。。ということが、伝わってくる映画でもあります。。
カンヌの脚本賞✨を受賞したことに
深く納得が行きました
こころが、ほんとうに静かに満たされました。。。
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