ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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ゆったり鑑賞できた3時間
地方公演に赴いた「舞台演出家」と現地より手配された「若き女性運転手」の2人の主人公。
妻に先立たれ、喪失感を引きずる「演出家」
過去の境遇からか自分を表現することに不得手な「女性運転手」
妻との思い出を象徴する「演出家」の愛車に対して持ち主に大事にされてきたことを感じ取り、丁寧に扱いながら稽古場へ送迎する「運転手」
そんな日々の中物語はゆったりと進行する。
劇中終盤「正しく傷付けばよかった」と後悔を吐露する様ははとても共感できるものがあり、男が誰しももっている弱さである。
そして、この2人の邂逅は必然だったとも受け取れ、それぞれが互いに境遇や心情を吐露しあうことで、2人が前進する契機となった。
答えの出なかった『ノマドランド』、答えを出した『ドライブ・マイ・カー』
『ノマドランド』を観た時、夫の影を追い求めてどこまでも遊牧民の生活を続ける主人公の姿に、物凄い絶望感を覚えた記憶がある。
底無しの絶望。どんなに他の“遊牧民”達と交わろうが、絶対に埋められない、ぽっかりと空いた愛すべき者が居るべき場所の空席。
『ドライブ・マイ・カー』もよく似ている。主人公は夫の方だが、わだかまりを残したまま居なくなった妻の影を追い求め、仕事である筈の舞台の主役すら出来なくなってしまう。
ただ、この主人公が違うのは『ノマドランド』と違い、自分と同様に喪失感を知る人間達が近くに居てくれるという点。
特に無表情な運転手の“みさき”。
彼女が言っていた「周りの大人たちに嘘ばかり吐かれていた」の理由を知った時、ようやく主人公も抱えていた荷物を下ろす決心をする。
…非常に心地の良い映画でした。
同じ境遇だけど、そうと口に出せない大人達が、不器用に袖を擦り合わせに行く物語と言うか。
ところでこの映画、物語も素晴らしいですが、ドライブ好きにはたまらん映像描写で、まさに一粒で二度美味しい作品でありました。
星5でないのは、若干言い回しが苦手な場面があったという理由なだけで。
言葉、テキストをめぐる物語
村上春樹の短編集を基にした濱口竜介脚本・監督作品。俳優・演出家である主人公が、妻の不貞現場を目撃したまま、不意に妻を失ったあと、広島での演劇制作と、無愛想な送迎ドライバーとの交流によって、再生していく。
濱口作品は初見だが、作中、演者にチェーホフの「ワーニャ伯父さん」のテキストを、感情を入れずにゆっくりと読ませ、体に染み込ませていく手法は、監督自身の演出技法とのこと。
原作未読なので、どこまで創作要素を入れたのかわからないが、画面上に字幕を映す多言語演劇は興味深いし、韓国手話まで取り入れているのは秀逸。脚本家である妻が語る話、「ワーニャ伯父さん」の朗読テープを含め、言葉、テキストをめぐる物語と言える。言葉の意味ではなく、言葉そのもののやり取りが、互いの感情に作用するというか。言葉すらなく、手振りだけで感情を揺すぶるラストは象徴的。
主人公役の西島秀俊は素晴らしい。三浦透子と西島秀俊が並んで車のサンルーフから煙草を差し出すシーンがいい。難役の岡田将生も頑張っていた。あと光っていたのが、ユナとユンスの韓国人夫婦。妻役の霧島れいかには、もう少しミステリアスさがほしかった。
作品全体として、外国映画のような肌触りで、近いところでは、ジャームッシュの「パターソン」、イランのファルハディの諸作品を思い出した。
主な舞台となった広島と瀬戸内のロケーションも良い。ごみ処理施設のエピソードも。
あらためて原作を読んでから、また味わい直してみたい。
村上春樹とともに、村上春樹を超えて/「マイ」カーとともに「マイ」カーを超えて
この作品の出来は、
「村上春樹」の名前を生かしつつも消すことができるかどうかということにかかっていたのだと思う。
しかし、それは濱口が雑誌『文学界』9月号で語っていたように、まさにテキストに忠実に、そしてテキストを超えていく作業でもある。
わずか60頁程度の短編の作品を179分という長編に翻訳し直す作業は「村上春樹とともに、村上春樹を超えて」いかなければならない。正直に言えば、それは、なかばうまくいき、なかばうなくいかなかったということになるだろうか。
多くの映画評の記事にあったように、クレジットまではタイトルテキストとは別の「春樹」以前の物語だし(もちろんそれが「シェエラザード」や「木野」であることは踏まえてのことだが)、また北海道以降も「春樹」抜きだ。
「春樹」の作品に(広い意味でも、この短編集という狭い意味でも)、そしてそれをテキストとしたこの映画の通奏低音に「流れている」のは「無音」だろう。
「春樹」流のセックス描写はそれなしにはあり得ないし、そこからノイズが生じ、そしてさらに意味が与えられる。
家福の「妻」である音との「物語」は、二人の「心の」沈黙(これがこの物語の主題)から一方的に生じ、それを家福は受け止めること(彼のセックスは無音でしかあり得ない)でしか、彼女の彼女らしさに気づいてはいない。
だから、彼にとって自分の無音を受け止める目の前にいる女性は、「妻」ではなく、セックスの相手である女性でしかない。全てを削ぎ落とした後に残る女性が語る「物語」。それが家福の前にいる女性の役割だった。それ以上でも、それ以下でもなかったはずだ。
そしてまた台本の「イタリア式本読み」もこの通奏低音に通じるものだ。この読みは、「春樹」のセックス観に通じるし、エモーショナルものを抑えた乾いた交わりを描写している。
しかしこのような家福ではあるものの、それとは異なったテキストに意味を見出してもいた。
「私たちはロボットじゃありません」というジャニスのエレーナの言葉は、家福の「正しいセックス」からは離れているにもかかわらず、彼が求めたのは、音が語り出した延長にある物語であり、またその演出描写を実はそこに求めたのかもしれない。自分の言葉ではなく、他者の言葉を借りて。
だから、そのような家福だからこそ、イ・ユナのソーニャとジャニスのエレーナには、その「声」を聞きとろうとしているし、いや実際に聞こえているのだと思う。
このような家福の姿を通して、この作品は、「無音(沈黙)ーノイズー有意味化」を何度も繰り返し私たちに問い返し続け(だから手話を含めた他言語劇があるし)、そして、最後にはソーニャの言葉なき手話としての沈黙のセリフにつながってくる。
翻訳の可能性と不可能性。
一人ひとりの言葉の伝達可能性と不可能性、存在の共有性と独立性。
劇中劇は、本編に重層決定するイメージを刻印している。
言葉が通じると思っていた、あるいはそう思っているはずの者とは誰も結局はまじりえず(そう、音ばかりか、結局は高槻とも、或いはみさきとも)、そうではない、言葉を尽くさない、尽くすことのできない人と交わり得ることができることの予感を教えてくれる。
それを考えれば、この映画の冒頭シーンは、表情が見えぬ者の「影」の語りから始まった。影でしかない声を反復する男のシーンというのは極めて象徴的だろう。
そしてまた、これを十分に理解していればのことだが、「唐突な」ラストシーンも理解できる。
みさきは、吐露を経て・・・(その前段には招かれた夕食会がある)、彼女が選んだのは、通じ得ぬ誰か(犬は言葉なき通じ得るものの象徴)と共有し得る世界を初めて掴んだ姿だったのかもしれない。
場面としてはかなりの違和感があるものの、上十二滝町(中頓別町)でのみさきの言葉。
「母が本当に精神の病だったのか、私を繋ぎ止めておくために演じていたのかはわかりません。仮に演じていたとしても、それは心の底からのものでした。サチになることは、母にとって地獄みたいな現実を生き抜く術でした」。
これが「影」を共有できる彼女と家福との、ただそれだけの同じものも持つことのできる言葉だったのだ。
しかし実はすでにこの声を家福はすでに気づいていたのかもしれない。
「でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」
家福からすれば、おそらくは存在としては耐えきれないほどの軽さを持っていた高槻という人間のこの言葉は、家福の高槻に対する優位性を砕き、自分からすれば関わりうる他者に対するエゴセントリックな状況に気づかせ、それがこの後のみさきの言葉の伏線にもなってくるのだろう。
それも「マイ」カーのなかで。
「ドライブ・マイ・カー」
SAAB900turboは、家福からすれば、他者と共有しうるテキストだった。
と同時に、家福にとっては、音であれ、高槻であれ、みさきであれ、彼らとの共有性はそこでしか見出せず、また、自分の思いが剥ぎ取られていく場面でもあった。
彼の運転への固執は、自分のテキストに収まりきれなかった彼らを「所有化」しようとするものでしかなく、それが徐々にではあるにせよ、否応なく助手席にしか居場所を見出すことができない自らの位置を確認すること、そう変更せざるを得ないこと、そしてようやく彼らとの共有テキスト性から乖離していたことに気づき、その問いを自分の中に埋め合わせようとした。
それが、このSAAB900turboには詰まっていた。
テキストとしてのSAAB900turbo。ドライブ・「マイ」・カーの「マイ」のテキスト共有性。
これが、本作品の骨子である。
ただ、ひとこと言っておこう。
やはり、広島からみさきの出身地北海道への場面の転換だけは、あらゆる解釈の彼岸にある。
『文学界』9月号の「提灯」エッセイでは「素晴らしい転換」などと評する言葉を吐いていた者がいたが、僕はそう思わない。ここは本当であれば広島で完結すべき内容で、最後になり「春樹」の語らなかった言葉を超えて語りすぎたのだと思う。家福にせよみさきにせよ(高槻がそうであったように)、音の言葉が潰えた「広島」でどの者の語りも終わらせるべきだったであろう。
語られず残されているままのオマージュを容易な場面転換で回収すべきではなかったと、自分は思う。
何事もなかったような夫と妻の関係はいかに
179分という長さを感じさせない映画だった。
妻の隠された行動に対し、夫は何事もなかったようにふるまう、また妻は人がうらやむような幸せな夫婦として愛情を注いでいるように見える。
本質的なことを語ることのない夫婦、それはどういうことを意味するのか。
劇中劇の台本読みのシーンは結構長く、多言語で行われるため、映画のストーリーとの関係がしっくりこなかった。これは私の理解力不足によることかもしれない。
西島秀俊の目線で進むので、岡田将生のみが知る妻がとてもキモとなる。
見終わって男女の関係を考えさせられた映画であった。
広島でのロケが多く、よく行く場所での撮影であったので、見慣れた風景だと映画がつくる創造の世界に入り込めないところもあった。
世の「忙しい」男性に見てほしい映画
なぜドライブマイカーが響くのか?それは家福の現実をすり抜ける様子が、自分自身と重なるから。彼は一見、現実をありのままに受け入れているかのように見える。ただ実は、「受け止め」ているわけではなく、受け止めることを恐れ、すり抜け、受け流していることが伝わってくる(批判的な表現ではなく、「すり抜け」るしかない様子が共感的に示される)。さらに、この物語で象徴的なのが、事実や物理的な事象と同じように、テキスト(虚構の現実や感情)をそのままに受け止めることの大切さだ。その後にしか本物の演技(演技と言えるかは?)ができないと。「テキストに飲み込まれる」と彼は言った。現実を受け止めきれず、すり抜けている彼だから、防御本能的にワーニャを演じられないと感じたのだろう。テキストをそのままに受け止めた後に表現されるモノは、言語や手話の壁を越えて、現実として表現されるモノになる(それはジャニスとユナの芝居で示された)。家福が演劇で表現したいものはそういうことなのだろう。家福も、それはわかってはいたが、できなかったからワーニャを演じされなかった。
高槻が言っていたのも一方で事実。「自分と徹底的に向き合うことでしか他人が見えてこない」と。高槻は、家福と同じように現実を受け止められない男性として描かれている。向き合っても空っぽ、暴力性、衝動的。社会一般の男性性の、家福とは違う側面での表象だと思われる。(悲しいのは、高槻と家福の会話は常に同じ地平に無いことだ。男性同士での会話の救いにならなさを感じてしまう。)
音の話の中で、空き巣は左目を刺される。空き巣は家福だ。主人公の女子高生は音だ。だから、最後に防犯カメラ(これも大きな隠喩)の前で「私が殺した」と叫ぶことで救われようとしている。しかも、家福にはヤツメウナギが「高貴」にも、石(日々の現実)にへばりついて死んでいくことまでしか話していない。娘の死というあまりに重い現実を、二人ですり抜けていることを自覚しているからだろう。(ただ、そのような重い現実をすり抜けることの是非は私にはわからない。一方で、「生きていく」ことの大切さもこの物語で通底している。受け止めることが困難なほど大きな現実を、受け止め、立ち向かうことばかりが正であるとは思えない。)
最後にみさきの故郷に旅する二人は、それぞれの過去の自分と向き合い、それを分かち合う。この物語を通して唯一、救われる方法として、このプロセスが描かれているように感じる。
少なくとも、家福の「すり抜け」るような現実の受け止め方は、現実の重さの軽重はあれど、私は実感する。現実やテキスト(他者にとっての事実)を、「そのまま」に受け止め、救われる(または、向き合う)ことの大切さを身にしみて感じる。
多くの「忙しい」男性に見てほしい。
ビートルズの曲名をタイトルにしがち(RGっぽい村上春樹あるある)
妻が他の男と浮気している現場を目撃するってどんな気持ちなんだろう。怒り狂ってしまいそうだけど、関係が壊れるのを恐れてその場を離れて黙っている気持ちもなんとなくわかる。家福と妻の音の幸せな生活が描かれる冒頭。音が亡くなった後に、演じている西島秀俊の文字がスクリーンに現れて(それなりに時間は経っていた)ここで!?と思ってしまった。たしかにこれでは長くなるはずだと思ったが、その後広島での演劇の演出、妻の浮気相手?高槻とのやりとり、ドライバーのみさきとの関係、みさきの過去といろいろとてんこ盛り。なるほどそりゃ長くなる。
家福の妻への愛、みさきの母への思いが絡みあって、お互いの思いを語るようになる2人。この流れはよかったし、最後もどういうこと?と思いながら清々しい終わり方だったので印象は悪くない。原作は未読だけど、これ短編なのか?
妻の不貞に振り回されるって話は村上春樹っぽい。雰囲気は好きなんだよね。個人的には演劇のシーンが結構長くてつらかった。これがないと手話のシーンが活きてこないという理由もわかる。でも、もっとコンパクトにできたはず。
長さを感じさせないと言ったら褒めすぎだけど、飽きずに観ることができ...
長さを感じさせないと言ったら褒めすぎだけど、飽きずに観ることができた。原作で印象に残ったみさきの台詞が使われなかったのは少し残念。
乗り越えられないものと向かい合うささやかな試み
濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」、単なる喪失と再生の物語ならここまで心を打たれなかったと思う。もう取り戻せない、今も乗り越えられないものを抱えながら、そして向き合いながら生きていく人生も祝福されるべきだという映画だと思う。傑作。
そして、全編に渡ってパク・ユリムさんの演技が圧巻なんだけど、終盤のあそこはもちろん、夕食のシーンでも素晴らしかった。というか、あのシーンは4人とも素晴らしい。
霧島れいかの冷ややかな視線と赤いサーブが夢に出てきそう
寝ても覚めてもの濱口監督作品
得体の知れない人間の闇を見つめて撮ってくれる監督です
絵は確かに濱口監督らしい絵なんだけど、今回は2時間ドラマの崖の上のように、ベラベラとセリフによる説明が…いらん!映画やぞ
と思いましたが…
所詮他者のことなんか決してわからない
妻であっても親であっても
ましてやいくら自分を覗き込んでみても
他国の言語で聞いても自国の言語で聞いても同じこと、不自由な舞台劇のように、生きているうちに言葉で他人との間の霧が晴れることなんてない
でも手話の人よかった
手話でソーニャをやるって誰のアイデアなんだろう?
この映画の中で唯一真実味のあるシーンに見えました
でも幸せに見える手話の妻とその旦那さんの間にも、きっと闇はあるよね
ラストで、韓国の街を犬を乗せて我がもの顔であの赤いサーブを運転している女…車と犬を略奪したのだろうか?
この映画の中でも、誰かによって言葉で語られることは所詮空虚でしかない、ということかしら?
たとえそれが抱擁であったとしても…抱き合った時に相手の顔は見えない
なんだか村上春樹みたいやん
ふむふむ
やっぱ、、長いねw
ただまぁもちろん長いだけではありませんし、丁寧に描かれてるんだなと伝わってきました。
正しく傷ついてなかった。
結構あるんだろうな、そういうこと。
逃げて、逃げて、、、
長いとその世界に入り込みますね。
音が一切なくなった瞬間とか不思議な感覚でした。
三浦透子の面構え。
支持。
この距離感の群像によるこの物語でないと描けない事を描けている。
超ハードボイルドな三浦透子の不敵な面構え、
三時間と長いはずが展開が緩まないかに思える作劇と密度、
運転が上手いとして安心して物語に身を委ねられる快適を評す。
以前とは違う
村上春樹の作品はいつも喪失の物語だ。少なくとも以前はそうだった。
最近はあの特徴的だった文体が変わってしまった気がして読めていないのだが、この作品を観ると今でもそうらしい。
ただ、以前は喪失を前に呆然と立ち尽くしてしまう、あるいはなんとか折り合いをつけてゆくようなところだったのが、どうやら先に進めるようになってきたようだ。
あの懐かしいサーブのルーフに掲げられる二本の煙草は、先に進んでゆくための、墓標に供えられた香のようなものだったのではないか。
そうした「再生」を思わせる終わり方に、以前はなかった希望を見出してしまう。が、これが映画によるものなのかを原作を読んで確認してみようかな…
しかし、なんぼなんでも、長い!
大人の映画
原作を読んでいたのでどう味付けされるのだろうと興味津々で鑑賞した。村上春樹の「女のいない男たち」の中の二つの話が上手く組み合わされ、さらに話が膨らんで素晴らしい作品になっていて驚いた。
いくつかオリジナルのディテイルが足されていたが説明くさくなく、自然にその意図がわかるし、心理描写が的確で見る者の気持ちを上手くリードしてくれた。ストーリーに破綻がなく、なるほどと驚いた。脚本賞を取ったのに納得。特にチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を持ってきたのが凄い。脱帽。
西島秀俊も上手いが、岡田将生が少しいやらしい若者をわざとらしくなく演じていて素晴らしい。三浦透子も存在感がある。多国籍で作る芝居の役者さん達も皆さん的確。
主人公もドライバーの若い女性も心の底にしまっていた澱を洗い出し、それでも生きていく姿が、舞台に戻った主人公、韓国で暮らしているドライバーの姿で表わされ、終わり方が秀逸だった。
凄い
なんで泣いただろう!
気付いたらぼろぼろ涙が止まりません。
良い話といい表現。
伝わなかったことを丁寧に伝えようとすると、
伝えます。
最後の舞台、台詞なくて字幕を読んだら奥さんの声が聞こえます。最高の響きになります。
今日もいい作品と出会えて良かった。
「心」への敬意がない
村上春樹氏は多分、人の心を「わからないもの」として取り扱っており、特に短編では、その輪郭を丁寧に描くことで、読者に中身を想像させているのだと思います。
そこが面白い。
でもこの映画は、監督か脚本家かはわかりませんが、「女は男がわかってあげなくちゃいけない存在」といった古くて尊大な感覚で、人の心を「わかったつもり」になって作った映画に感じます。
もちろん、わかったつもりにならなければ映画にならないという事情もわかりはしますが、キャストの演技がうまいだけに語りすぎ、説明しすぎに感じてしまう。
そしてその説明がひどく頓珍漢に感じる。
村上春樹の世界観の表面だけを真似ているため、中身との齟齬が余計に気になってしまいました。
村上春樹原作でなければ我慢できたのかもしれませんが……。
この監督とは相性が悪いなと思いました。
騙されたと思って・・・
濃密な会話劇が静かでゆったりしたリズムで語られているのに疾走感が凄い!3時間がアッとゆう間にぶっ飛んでゆく。原作やチェーホフを知らなくても存分に楽しめた。それ程映画作品として強い。ジャンルを問わずお金を払ってまで面白い映画を映画館で観たい人に強くお勧めです。
とにかく言葉が多いのにくどくはなく、でも言葉は作品の中ではとても重...
とにかく言葉が多いのにくどくはなく、でも言葉は作品の中ではとても重要で、じゃあ言葉で説明しているだけかというとそうではない。加速も減速もなめらかに、流れるような作品。
静かな映画なのにとなりのスクリーンから重低音が響いてきたのにはまいった。シネコンの罠。
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