ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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トイレに席をたつ人、最多の映画でした。
初めの音の語りのシーン。
少し入り込めなかったけれど、
「そうか、村上春樹さんの作品か。」
と自分の中で一つ前提を作ると、
入っていくことができました。(原作未読ですが…)
2人の舞台制作陣も、
変なオーラが出ているし、話し方も独特で、現実にいるようないないような。
高槻が捕まった後の駐車場で、
今それをいうこと?と突っ込む家福さん
と2人の宇宙人みたいに感じ、
笑いそうになりました。
でも、村上春樹さんの世界観か!
と思えばよく思えてくる魔法です笑
韓国の俳優さんはやっぱりうまいな
そんな印象を受けました。
最終的にはとても良い運転手だということは分かりましたが、
第一印象が悪い…
こんな人に頼むのかと思いました。
自分と向き合って自分を知り、
その自分に素直になれたらいいのになぁ…
心がゆっくり包まれてゆく感じがしました。
愛する人ほど心を傷つけあうことってあるよね
印象的な3つのシーンについて
まず印象に残ったのが、夫婦が4歳で亡くなった娘の四回忌の帰宅後のセックスシーンである。
あれは抱いてはいけなかったのではないか、と思うのである。
女性はただ話を聞いて抱きしめて欲しい時もあるらしいのである(彼女に言われたことがある)。
女性にハグするべきなのにキスをすると大怪我をすることがある。
彼らはハグするべき時にセックスしてしまい関係が完全に崩壊したのではないか、と思うのである。見ていてほんとに痛々しい。
最後のセックスの翌朝音は昨日の話は覚えてるか?と聞く。家福は覚えていないという(もちろん嘘だ。内容が自分が不倫現場を覗き見たことと重なってしまったのだ)。覚えているというべきだった。音はセックスの途中に意識を回復したように見え、彼女は話したことを覚えていた。もしくは、覚えていてほしかった。"覚えてないということは大したものじゃなかったということだから"というセリフが怖い。別れ際に女の子から言われた既視感のある発言。
二つ目。音が倒れてるところを家福が見つけるシーン。
音がコートを持って倒れているのがわかる。
私は"音は家福の帰りが遅いから心配して外に見に行こうとしたのでは?"
彼女"音は大事な話があると伝えたのに帰らない家福にあきれ頭を冷やすか浮気相手に会うために外出しようとしていた"
男はロマンチスト、女はリアリストだと思い知らされる
三つ目は高槻が車の中で家福に語る音の真実の物語。
この物語は最後、好きな男の子の家に空き巣に入った女子高生が本物の空き巣の左目を鉛筆で突き刺す。そしていろんなところを刺して殺してしまう。が、家に監視カメラがつけられたが、それ以外に世界が変わった様子がない。
彼女はカメラに繰り返す。"わたしがころした"と。
このシーンはとても重要だと思う。
まず監視カメラに音声は記録されない。
①口の動きと目線だけでメッセージを伝えるというコミュニケーションの意味(高槻の再現が面白い)演じる、メッセージを伝達するという個から切り離された表現の意味を考える
②わたしがころした はわたしが娘を殺したという罪の告白である。家福は音を殺し、みさきは母を殺し、音は娘を殺した…と思っている。そして
③ 左目に鉛筆を突き刺す、というのは家福の左目の緑内障に関係している。重層的な世界観。音は家福を殺そうとしていると自覚している。そして家福の心の一部を殺してしまった。その罪の意識から最後まで逃れられなかった。
なぜ現代に生きる我々はここまで罪を抱えないと人を愛せないのだろう、と思わざるを得ない。
この作品は村上春樹の作品の本質を的確に捉え、なおかつわかりやすく提示することに成功している。村上春樹の作品は世界中に読まれ、"これ俺じゃん"という読者をたくさん増やしている。この作品を観て"あ、これ俺じゃん"ってなる人はかなりいると思われる。それはおそらく村上の原作よりもはるかに強い訴求力だ。身につまされる。
結論。彼女や奥さんを大切にしましょう。
追記
劇中劇で監督自身の映画制作技法をそのまま作中で見せてしまうところはトリュフォーの"アメリカの夜"を思わせる。
村上春樹の"女のいない男たち"の中の"独立器官"ではトリュフォーの"夜霧と恋人たち"が引用されている。
韓国手話のユナの日本での境遇(誰ともコミュニケーションがとれないが愛する家族とは親密な関係)は、五体満足にも関わらず人知れず孤独な闇を抱える音と対比されているように思う。だからこそ、ラストのワーニャ伯父さんでソーニャを演じるユナから辛くても生きて行きましょうと"韓国手話で"伝えるシーン(しかもオーディションでの演技と全然違い眼差しが優しい)が泣けるのです。
再追記
2回目を観て時系列が明確にわかりました
家福が運転中に事故を起こし
左目に緑内障があることが判明する
家福が音と浮気相手(誰かは顔が見えず不明)のセックスを目撃する
娘の祝儀後
音"私あなたで良かったと思ってる"
"子供もう1人欲しかったんじゃない?"
家福"君の考えを支持するよ"
"あの子は1人しかいないんだから"
音"でもあの子と同じくらい愛せたかも"
家福"…"
帰宅後セックスする
ヤツメウナギの話と好きな男の子の家に空き巣に入る女子高生の話で女子高生が好きな男の子のベットの上で自慰をしている最中に誰かが階段を上がってくるところで音がオーガズムに達し話が途中で終わってしまう
翌朝
音"昨日の話覚えてる?"
家福"ごめん、昨日の話は覚えてないんだ"
音"そう。
でもいいわ。覚えてないということは大したことじゃないってことだから(怖い)"
音"今日話せる?"
家福"なに...改まって"
音"早く帰ってきてね..."
別れを切り出されるとおもった家福は恐ろしくなり用事はないのに車でドライブし遅くに帰宅
外出し
高槻に会う音。
セックスしたあと空き巣の女子高生の続きの話をする。
階段を上がってきたのは本当の空き巣で、女子高生をレイプしようとしたため女子高生はその場にあった鉛筆を
空き巣の"左目に"突き刺す
その場にあったもので滅多刺しにして空き巣を殺してしまう
しかしとくに世界に変化は無く、監視カメラが男の子の家の玄関に設置されただけだった。
彼女はカメラに向かっていう。
"私が殺した、私が殺した、私が殺した"
家に帰宅したところで突然倒れる音
コートを持って
倒れている音を家福が発見する
この流れだろうな
すごい作り込まれてる上に、この時系列だと
音は家福を殺したという想いがあることが明確にわかる。
ヘミングウェイメソッドを思わせる脚本
最高
あとで気づいたこと
・家福とみさきが車内で喫煙しルーフから手を出して煙を流すシーンは線香を思わせ、日本ではすでに形骸化した葬式を暗喩しており音をあの場面で弔っているのではないか
・最後の演劇のシーンで家福の演技を観ているジャニスチャンの顔がクローズアップされ驚いた顔(嬉しそうに見える)をしているのは家福にも"なにかが起きた"ことに気づいたからなのかもとか。その時点で以前は彼女は家福の仕事のやり方に不満を持っていた様子だったが彼のやりたかったことを明確に理解したのかもしれない。
・村上春樹の好きなスタンゲッツやビリーホリデイの悲惨な人生はよく言われる話ですが、村上は"彼らの美しい音楽の背景には彼らの人生があること(主に麻薬です)忘れてはならないと何かで言っていた。なんかこの映画には共通する部分があるように感じる。
・最後の韓国にいるみさきは韓国語を普通に話しており、手慣れている感じから定住していると思われる。たくさんの食糧を買っているが、いずれも賞味期限が長そうなものばかりでありコロナ禍で長期間家にいなければならないためなのか、誰かのために買ったものなのかはわからない。ただ家福が不在の画面から考えると彼らは別離したと考えるのが自然かと思う。
Drive My Carというタイトルが明確に画面に現れるラストの画面からしても"私の車を運転する"というタイトルに準えた演出かと思われる(見事です)。
総論としては
①芸術は現実の反映であること(トリュフォーと同様)
②村上の原作では男と女の対称性、主に女性の言動の不可解さが強調されていたが(インディーワイヤーでも同様の指摘がありました)濱口監督は男女の性差ではなく現代人の心の闇、人知れず抱えている解決不可能な悩みについて描くことに腐心していること(そしてそれに成功している)。
③相手と分かり合えない時は自分の心を内省的に見つめ直す必要があるという考え方は村上と濱口監督で共通していること。
④日本の俳優の潜在能力の高さを思い知らされる。濱口監督は即興的な演出を好み、俳優の直感をかなり信頼している。西島秀俊や岡田将生を私はただのテレビドラマ用のトレンディ俳優としか考えていなかったが大きな間違いだった。
ミステリーとしての謎と決して解けない謎が混在している感じが村上春樹作品を思わせる。
際立つ言葉
全編を包み込む無機質と静寂、それにより際立つそれぞれが発する丁寧な言葉。
その言葉一つ一つが身体に染み込む様な感覚、何故かうっすらと涙が滲み出た。
きっと呑み込んでいるかもしれない感情を察知したのかもしれない。
そして厳選された言葉がこれ程の力を持つのかと驚いた。
手話を含めた多言語の舞台のシーンもこの効果を感じるものだった気もする。
観る前、キャストの中に霧島れいかの名前を見つけ、ノルウェイの森を歌うシーンが鮮明に思い出された。
世間的評価は別として、トラン・アン・ユン独特のトロンとした空気を堪能出来るのが心地よい「ノルウェイの森」ギターを弾きながら歌うシーンはとても印象に残っていた。
偶然だろうけど、村上春樹と霧島れいかの化学反応は好きな雰囲気だ。
こういう作品の観方が未だに分からない
オープニングで霧島れいかが語る話を「どこかで聞いたことあるな」と思ってたら、つい最近、原作読んでた。でも内容はほとんど忘れてたな。
三浦透子の運転手も出てきて「そういえば、そんな短編もあったな」と思ったの。
原作・村上春樹にしてるけど、そこをベースに、新しい話を作ってるよね。違うかな。原作を読めてる自信は全くないので、違うかも知れないな。
西島秀俊の演技が淡々としてて《2/デュオ》っぽいなあと思ったの。
みんな淡々と演技するよね。劇中劇の読みあわせでも『感情を入れずに読め』って言われてて。
『ロボットのように』みたいな台詞も出てきて、「これ、モデルは平田オリザなのかな」と思った。青年団の松田弘子さんも出てるしね。
劇中劇の多国語で上演されるチェーホフは面白そうだけど、これ観るのしんどそうだな。舞台の俳優の演技に注力したいけど、後ろの字幕みたいと訳が分からないよね。チェーホフのテキストを完全に頭に入れてから観るのか。
終盤で、西島秀俊と三浦透子が、三浦透子が生まれた街へ行って、そこで再生を果たすんだよね。車中の会話で『君のせいじゃないと言ってあげたいが、言えない。君は母さんを殺し、僕は妻を殺した』が良かったなあ。
きっかけになるのが岡田将生の傷害致死だけど、岡田将生の役は必要なのかな。良く分からなかった。オーディション合格の時点で「この役、最後は西島秀俊がやることになるんだな」と思うしね。
車も主演の一人だね。滑るように走る画が全部良かった。
画は綺麗で良かったね。清掃工場の海辺で話すところとか「計算されてるなあ」って構図だったし。
観てて、面白いし、それだけで良いんだろうと思うんだけど、この手の作品は未だに「解った」って感じがないな。面白いと思ったから、それでいいか。
運転の女
少し説明が多すぎるんじゃないかと思いながらずっと見ていてのだか、他者とのコミュニケーションをテーマにした本作は、聴覚や視覚障害者向けのバリアフリー版が別途あるらしい。環境意識への高まりとともに、ダイバーシティ等への配慮のあるなしがマーケットにも直接影響を及ぼすようになってきた社会の風潮を、ちゃんと察知した上での演出だろう。読解力不足が指摘される若者にも優しい本作を監督した期待の若手ホープ濱口竜介の、バランス感覚の良さにも注目したい1本である。
映画中盤、韓国人主宰の演劇祭におよばれした舞台俳優兼演出家の家福(西島秀俊)が開催地の“広島”へとむかうシーンをバックに、初めて映画タイトルが表示される濱口お得意の演出。おそらくここまでが村上春樹の原作に忠実なパートで、以降は濱口監督オリジナルの創作ではないのだろうか。何せその原作短編を読んだことがないのではっきりしたことは言えないのだか、どうもハルキムラカミにリスペクトを捧げたのはここまでだよ、と言っているような気がするのである。
が、説明が多い割には何を言いたいのかがわかりにくい。なぜなら、言葉による他者とのコミュニケーションの難しさを、その言葉=テキストによって説明しようとしているからである。いわば観客ー役者ー演出家(映画監督)の間に横たわる見えない壁(バリア)をフリーにしようと試みた作品なのだろうが、「いまAとBの間に変化が起きた。それが観客に開かれているかどうかはわからない」家福の台詞中の、その“変化”がどんなものかが、映像からはうまく伝わってこないのである。
直近の作品中で、我々観客の映画理解力をゾンビやチンパンジー並みと評価を下しているジャームッシュやカラックスならば、嘆く以前にここですっぱり諦めていたのかもしれない。しかし、濱口竜介はけっして諦めない。尺が3時間近くになろうが、予算をかなりオーバーしようが、役者から濃厚なベッドシーンにNGを出されようがへこたれない。何とかして観客に自分の言いたいことを伝えようと奮闘努力するのである。芸術家としての真摯な姿勢を貫き通す監督なのである。
そのために家福(濱口)がとった(小津やカウリスマキを想わせる)演出方法が、本当の自分を引き出す力があるというチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の棒本読み、外国人、唖者の女優など日本語が話せない&通じない役者のキャスティング、なのである。自分の代わりにワーニャ役に抜てきした音の浮気相手でもある高槻(岡田将生)たちに対し、家福いわく“(チェーホフの)テキストを役者の身体に潜り込ませる作業“を行うのである。役と役者本人の内面との“切り離し作業”と言い換えてもいいだろう。
しかし、車の中で亡き妻音(霧島れいか)との棒読み合わせ=“音”と感情の切り離し作業を無意識のうちに行っていた家福に、ここで思わぬ副反応が生じるのである。幼い娘の死を自分の責任であると思い込み、複数の男を自宅マンションに連れ込んで自傷的な浮気行為を繰り返していた音。そんな妻の傷んだ姿を見て見ぬふりをしていた罪の意識が、家福の思惑とは裏腹に心の中でドンドンと肥大化していくのである。チェーホフのテキストによって本当の自分=魂が表出してしまうのである。
家福に自分を空っぽな人間だと語った高槻は、(ワーニャ役の稽古をすることによって)SEXと暴力という肉体的コミュニケーションしかはかれない自らの内面をさらけだす。他人と話す時は全くのポーカーフェイスで、言葉を話すことができない🐕️の前でしか内面の感情を表現できなかったドライバーのみさき(三浦秀子)もまた、『ワーニャ伯父さん』の稽古を見学したことによって、家福に亡き母親との確執を語り出すのである。
ある事情によって再びワーニャを演じなければならなくなった家福は、稽古を一時中断、生きていれば死んだ娘と同い年のみさき、そして妻の思い出が刻まれた“(クモ)真っ赤”なSAABとともに、自らの心の奥深くに眠っている“原罪”を見つけに、みさきの自家跡へ、魂の源流へと遡る再生の旅に出かけるのである。「どこかへ連れてってくれ」新藤兼人が脚本担当なら間違いなく原爆ドームに連れて行ったと思われるそのトリップはまた、“ヒロシマ”という過去のトラウマから目をそむけ続けてきた日本人の“原罪”を再認識させる旅だったのかもしれない。
正しく傷ついてこなかった
原作をしりませんが…。
赦される喪失痕
舞台演出家の家福悠介と妻で元女優・脚本家の音は、贅沢ながらも慎ましく穏やかで満ち足りた生活を送っていた。悠介はある日、音から「今夜、話がある」と伝えられていたが、帰宅すると音はくも膜下出血で他界していた。喪失感を抱えながら2年が過ぎたある日、悠介は芸術祭で演出を担当する広島で長期滞在をすることになり、そこで専属ドライバーのみさきにと出会う。原作は村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」。
本作は、幾重にも編み込まれた入れ子構造がベースで、かつ、ロードムービー的要素、チェーホフの劇中劇、音の紡ぐ物語などなど、異化効果がふんだんに散りばめられた作品なので、鑑賞者の数だけ感じ入るポイントが存在するであろう、映画らしい映画といえる。たくさんの文脈が折り重なるなかで、わたし自身は「喪失痕」に関心を寄せた。
生きていくうえで何かを失うことはたくさんあるが、わたしたちが人生で遭遇しうる最大の喪失は誰かの「死」である。遺された者は「あの時、ああしていれば」という後悔に苛まれる。逝ってしまった人が大事であればあるほど、自責は募る。芸術の多くはそうした喪失の先の、「克服」や「再生」の美しさに光を当て、賛美を送ったが、本作は、傷痕が癒えることも何を創造することもなく、ただそれを抱えたまま生きていく群像を淡々と描く。だがしかし、淡々とした中にも、彼らが傷痕の存在を認めた後の得も言われぬ“抜けた”感じは、ある種のカタルシスを覚えさせ、鑑賞者であるわたしたちひとりひとりが誰しも隠し持っている「喪失痕」が赦された感覚に捉われる。
準主役に「赤のSaaB900」と「紙たばこと100円ライター」をチョイスしているのが渋い。長くこだわりぬいて乗るのにふさわしい北欧車で、一筋縄ではいかない家福悠介を投影するモチーフとしても最適だが、そのこだわりを捨てて、高槻のように分別をなくしたくなる刹那、「車内でたばこを吸わない」というルールをかなぐり捨てる、わけでもなく、やはりどこまでも分別が捨てられず、サンルーフから煙だけは吐き出すシーンが印象に残る。また清掃工場を一通り見学した後、川辺で一服するふたりがハイアングルで映し出される場面で、クライアントである悠介と一ドライバーのみさきが、実は同種の「喪失痕」であったという邂逅も素敵な場面だ。そして二人とも、携帯灰皿で吸殻を持ち帰るシーンをきちんと本編に入れ込むあたり、監督の徹底した演出が光る。トリリンガルのコーディネーターを演じたジン・デヨンや、迫真の演技を見せたパク・ユリムも好感が持てた。
一度の鑑賞では掴みきれない奥深さがあった。例えば、北海道に着いたあたりの、割と長尺の無音の場面などは、もう一度、ゆっくり観たい場面。更には、観賞後、村上春樹の原作や、劇中劇で脚本となっているチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」へ興味をそそられるあたりも良作と呼ぶにふさわしい出来だ。
スペシャルな時間を堪能致しました。
巧みな脚本と演出の作品だが、気になる点あり
巧みに作られた物語の構造、そして確かな演出力には関心したし、音楽の使い方のセンスも素晴らしい。3時間の長丁場だが、中だるみするような所もなく、映画を鑑賞できた。最初の40分ほどで何が主人公に起こったか、その状況を見せてからのオープニング、車で妻の声のテープを聴き台詞を言う役者の主人公の行為が、事件前と事件後で意味合いが変わる事や、舞台の台詞と実人生が繰り返し微妙に重なり合うという設定も面白いと思った。韓国通訳の方の家での食事のシーンは心温まる場面だったし、エンディング近くで主人公の人生と演劇が重なり合う場面も美しく見事だったと思う。濱口監督の作品は初めてだったが、確かな力量を持つ素晴らしい作家だと思った。
しかしながら、多分私の好みの問題かと思うが、二点ほど気になる点があった。
一つは主役の西島さんが、運転手の女性と本当に心を一つにする一番大事な場面で泣きの演技をするのだが、彼はそういう感情を吐露するような場面が得意でないと見え、あまり深く心に響くものが無かった。(ここはあくまで私の印象なので、そうは思わない人もいることだろう)
そして、もう一つ、一番気になった所が、あの高槻という若い役者のキャラクターだ。彼はこの物語の中で非常に重要な役割なのだが、劇中である過ちを犯している(というか何度も猿のように同じ過ちを繰り返す。)そして、それにも関わらず、主人公に好意的に近づき、挙句の果てには目を潤ませながら、主人公が他者と分かり合い、自分を見つめるきっかけになる言葉を与えようとする。恐らく彼が主人公に対して心を開き教訓めいた事を言うというのは、物語上感動的な場面なんだと思うが、ここが私は乗れなかった。
主人公が彼自身解決しなければならない問題を心の中に抱えているのは間違いない。それを見つめなければならない事も理解できる。だが、なんでそれを高槻から聞かされなければならないのだろうか?いや、だって主人公苦しんでるのこいつのせいじゃね?まず言うべき事言って、誤るとこ誤ってから腹割って話しろよ。しかも高槻はこの後にわざとなのか、意図せずなのか、主人公にまた迷惑をかける。そしてそれを誤ることもない。
小説を未読なので、確かではないが、この気持ち悪さは恐らく元々の小説の設定を上手く消化できていないところから来るのではないだろうか?なぜなら元の小説ではどうやら二人は長年の親友になった後、この話をしている。映画での関係はそこまでお互いが分かり合えているような状況ではなかった。そのため彼の台詞を聞いている主人公の顔が映るとき、分かり合えたというよりも、「こいつ何様のつもりで俺にこの話してるの?」というリアクションにしか見えない。その点が非常に気になり、残念ながら私は物語の深いところまで感情移入して入り込むことができなかった。
ちと長い
面白い。よく出来た作品だ。自然に物語にすっと入っていけた。上質のブランケットにくるまれるように、気がつくと僕はこの物語にそっとつつまれていた。こんなことは滅多にないことかもしれない。――そんなことを思いながら観ていた。中盤までは。
本作中、主人公がドライバーの運転技術を称賛する場面に「クルマに乗っていることを忘れている」というような台詞があるが、僕はいつの間にか自分が映画を観ていることを忘れてストーリーの中に、春樹&濱口ワールドの中に入り込んでいた。
物語がかなり進行してから(1時間くらい経ってからか)、クレジットが映し出されるという仕掛けも斬新であった。なるほど、こういうのもありだな。そうか、今まではイントロでここからがいよいよ本題か、とワクワクした。
その後も気持ちがダレることなく、物語の世界にひたることが出来た。
まるで自分も主人公たちとドライブしているような、スタッフとして演劇祭の制作に参加しているような、そんな擬似体験を味わうことができた。
とくに、韓国人夫妻の家での食卓のシーンは心温まる印象的なシーンで、観ているこちらもほっこりとなった。
(毒があり、スパイスも効いているが、)なかなか素敵な作品だな。こんな魅力的な作品をつくれるのは、春樹さんも、濱口監督も、きっと素敵な人だからなんだろうなぁ、と食卓のシーンのあとは、そんなことも思って観ていた。
が、でも、しかし、けれど、僕の集中が持続したのも、そのあたりまでだった。
それからあとが長かった。ちょっと長いな、と感じてしまった。
後半になって、僕の座席後方のおっさんがしきりにブッ、ブー!!と音立てて洟をかむので、少なからず身の危険を感じ早くこの場から脱出したいと考えたりして集中力を削がれたことも原因したのかもしれない。そんな鼻水ズルズルの体調で映画なんか観に来たらあかんで、おっちゃん。
話が脱線した。
そう、後半は集中力を欠いた。やっぱり3時間は、ちと長い。
よほどの作品でない限り、集中をキープするのはむずかしいのではないか。
そうなのだ、映画の途中から僕の感動は萎縮してしまった。
中盤以降のストーリーに(食卓シーンのあとの展開に)、どうも真実味を感じることができなくなってしまった。胸に響いてこなかった。
何よりも、いちばんのキー・パーソンであるはずのドライバー、みさきの存在が、僕にはいまひとつ魅力的には見えなかったのだ(小池栄子に似ていることも気になった)。
彼女が放つ言葉、経歴や母との関係などを語るシーンにもリアリティーをあまり感じることができなかった。みさきの「言葉」ではなく、三浦透子の「台詞」のように聞こえてしまった。
ただ、ラストはよかった。本作に重層的な構造を与えているチェーホフの舞台のシーンだ。
魅力的なラスト・シーンだった〈私たちは苦しみました、泣きました……〉。
そんなわけで、全体を通して見ると、質の高い作品であることはわかったが、僕好みの映画ではなかった。
けっきょく、監督がなにを伝えたかったのか、またしても僕のボケた頭では、それをじゅうぶんに捉えることができなかった。なんだか消化不良であった。
でも、これだけクオリティーの高い、緊張感を湛えた長編作品を、(しかもこのコロナ禍で)撮りきった濱口監督の才能と熱情には大きな拍手を贈りたいと思います。
追記
僕は春樹さんのファンだけど、この原作は未読です。
原作を読んだあと、それをもとにした映画を観ると、原作の「ダイジェスト版」のようだなと思うことがよくあって、その度に「映画化」の意味を考えてしまいます。
だって、小説を読むのって、読み手がそれぞれの頭の中で「映像化」しているわけですからね。それをあえて映画にするというのであれば、ただ原作をなぞるだけでなく、原作にはない「映画作品としての何か」や「映画作品としての面白さ」がないとダメですよね。この作品はどうなのだろう? 是非、原作も読んでくらべてみたいです。
それから、予告編ではベートーヴェンのピアノ・ソナタ『テンペスト』が使われていて、その曲と映像が醸し出す雰囲気に誘われて僕は映画館に足を運んだのだけれど、本編ではいつまで経ってもテンペストは流れなかった。なんか騙されたような気がちょっとしました。不満です。まあ、たまにこういうことはありますけどね。
そうそう『ワーニャ伯父さん』も死ぬまでには読みたいなぁ。
僕のレビューも、ちと長い、ですね。すみません。
ラ王を食い損ねた男
いつもの映画館で
水曜日のメンズデーで祝日前日の好条件 2時間早退
3時間の上映時間には尻込みしていたが一睡もせず完走
チェーホフだとか戯曲だとか全く知らないので
どうなることかと思ったが何とかついていけた
テキストから何かを受けとるとか 面白かった
「寝ても覚めても」を観て嫌いな作風ではないだろうと信頼していた
アルコールが入っていなかったことも勝因かも知れない
ラ王を食い損ねた男が体当たりの演技
脱いだ女優に使う慣用句だな
妻役霧島れいかよかった 知らない人だが
ベッドシーンは苦手なのだが必然性があった
このシーンは省けない
いろいろあるけど折り合いをつけて生きていく
くどくどと説明した挙句
結局そういう内容の映画が好きなんだな この頃
「泣く子はいねぇが」とか「茜色に焼かれる」とか
「BLUE/ブルー」とか
いろいろと想像できるのが嬉しい
・自動車事故の場面はクラッシュへのオマージュか
・若い役者を起用した理由
・ラストシーンの車とか食品スーパーに至った経緯
他の人のレビューが楽しみだ
村上春樹の原作がどの程度反映されているもんだか
確認したいとも思った ブックオフにはなかった
終了後はこれまたいつもの公園のベンチで缶ビール
雨の予報だったが大丈夫だった 感謝
駅までの帰り道では新コロにもめげずに開いている居酒屋
外で待つ客 この間名前を公表されていた店
警察になるつもりはない
店も客もしたたかで賢い頼もしい とただ思う
自宅に着く直前に雨が降りだした
今日はつくづくついていた
エロかった、長かった、わからなかった
エロかった。
前半のもやもや感が、後半には解消されるのかなと思いながらも、私にとっては、
結局は、ほとんど何も解消されず、長かったという感じ。
原作は読んでません。
東京、韓国、広島、北海道
村上春樹原作。「女のいない男たち」の中の一編「ドライブ・マイ・カー」を深く掘り下げて映画化。山本晃久プロデューサーの企画で、最初は韓国釜山ロケを予定したらしい。しかしコロナ禍で中止。広島にロケ地変更。そのため、広島の国際演劇祭なのに韓国人主催者がいたのである。ラストも韓国になっていた。
原作に出てきた修理工場の大場さんが、みさきとカフクを引き合わせる韓国人のコン・ユンスになっているのだと思うと、この映画の膨らませ方は原作の二倍以上だと思った。
映画を見る前、「ドライブマイカー」しか読んでいなかった自分にはわからなかったが、「女のいない男たち」から「シェエラザード」「木野」の要素をそれぞれ前半部と後半部に取り入れているそうだ。
原作から変わっていることですぐ気づくこと。主人公のクルマ(サーブ900)の色がまず、異なります。原作では黄色だったのが、映画では赤。そして最初は後部座席に座るところとか。
ほかに原作にはなかった要素、国際演劇祭のだしものとしての「ワーニャおじさん」。多言語演劇という実験的手法。
日本語、中国語、韓国手話、タガログ語、ドイツ語。インドネシア、マレーシアも?
監督によるとリハーサルシーンのレッスンでは、日本語→韓国手話、韓国手話→韓国語というような通訳をしていたらしいです。ソーニャ役のイ・ユナを演じたパク・ユリムは、一言も発していないが、手話も演技らしい。通訳や手話通訳が何人もいてスクリプターは大変だったと思います。
奥さんの名前。女優から脚本家になったという経歴。情事後の興奮状態で話す空想の女子中学生の話。子供の亡くなった年齢。高槻のキャラクターがやや若いこと。
運転手みさきの育った家庭環境もかなり掘り下げられていました。広島に来てゴミの回収車に乗っていたとか。
霧島れいかさんも「24JAPAN」のきつい上司とは一味違った役でしたが、「ノルウェイの森」(10)にも出ていたとは覚えてませんでした。一回しか見てないので。あと西島秀俊は「トニー滝谷」の語りもやっているそうです。
岡田将生くんが、「大豆田とわ子」とはまたひと味違った軽めの男を演じてハマっていました。
多分、カフクにはめられたんだけどね。
あまり物事をよく考えもせず、軽はずみな行動をとってしまうことで他人に迷惑をかけていることの無自覚さをカフクは高槻につきつけた。そしてタカツキは、その報いを受ける。
けして岡田くんがそういう人ではないのだろうけれども。演技が上手いというだけだ。
「ワーニャ伯父さん」「シェエラザード」「木野」を読み、監督の「寝ても覚めても」と山本プロデューサーの「彼女が名前を知らない鳥たち」も見てみたい。その上で本作品を見直すとどうなるか確かめてみたい気もする。
村上春樹ファンでも評価が分かれそう
ハードな性表現が多くて正直疲弊した。棒読み調のセリフが続くのは、村上春樹の世界観通りとはいえ、映像化するとやはり違和感がある。かといって、ものすごく感情移入して演じられると、もっと違和感があったかもしれない。
メッセージ性というか、テーマとなっている喪失感は、ワーニャ伯父さんのセリフと相まって原作にはない伝わりやすさが出ていたと思う。
でも、村上春樹独特の飄々とした感じは、本作ではあまり出て来ず、むしろ登場人物の行動の突飛さが際立つように見えてしまったのは少し残念だった。
全体を夫婦と恋愛という、人間の感情の中でもかなりシビアで、人によって千差万別の関係を基調にしているので、受け取られ方もかなり幅があるものになっているのではないか。
とはいえ、万人受けを目指さず、村上春樹作品をここまで別物に昇華させたのはあっぱれである。
原作をモチーフに再構成した作品
原作の短編集を読んでからの鑑賞
カンヌの脚本賞も納得の作品
原作では、みさきが音の心情を語ったところで
さらっと終わっているのだけど
本作では家福とみさきが悲しみや苦しみと向き合い
乗り越えられたところまでを
しっかりと観せてくれた
ラスト、ワーニヤ伯父さん劇中の
手話が心に響いた
私も死んだら
苦しんだこと、泣いたこと、つらかったこと…たくさんたくさん
神様に聞いてもらいたい
死者の分人
わからないけど分かる韓国手話
脚本にかなり手を加えているのに、村上春樹らしさを保ちながら映画として成り立っていると思う。
原作では舞台俳優の主人公とドライバーの話・妻の不倫相手の話くらいだったが、
映画では
①舞台俳優の妻との暮らし
②演劇祭への参加とドライバーとの出会い
③コミュニケーション手段が入り交じる『ワーニャ伯父さん』の下読み・稽古風景
④ロードムービー
などがかなり重層的に描かれている。3時間という長尺の中で、
韓国手話で何言っているのか分かるようになってきたりという謎の
「今なんでわかったんだ?」感を感じながら見ることができる。
この「?」が嫌味ではない形でかなり多い作品なのだが、なんで嫌味ではないのかよくわからない。
劇中の③下読み風景はそのヒントになるのか、
演技がゾーンに入る瞬間を、完全な形でお客さんに見せるということを
劇中劇で実践しているのが面白い。この劇中劇がまさに映画の稽古でも行われたはずで、
不思議なシンクロ感を感じながら見られた。
『ハナレイ・ベイ』を彷彿とさせる描き方もあり、
大事な人を失った人間が、それを引き受けるというテーマ性なのかもしれない。
村上春樹原作と知ってたら観てなかったはず
小説が非常に人気があるので、何度も読もうとしてみたけれど、長編は全部挫折。短編のものはなんとか読み通したけど、どれも受け入れられなかった。かえるくんとかパン屋とかTVピープルなど、そのうちに面白くなるんじゃないかと我慢して読んだんだけどね。どこに人気の秘密があるんだ?結論、私には村上春樹の小説はその良さが理解できない、少しも面白くない。で、この映画も原作が村上だと知ってたら、観てなかったと思う。観たかった脱力系コメディ映画の終了時間とこの映画の開始時間がたまたま合ってたので、それを知らずに鑑賞。これでやっと、すべての今月末期限の映画ポイントを消化できるわと思って。
しかし、この映画は非常に面白い、でも途中からね。広島に行くところで出演者名がテロップで出てきてからあと。それ以前の音とのやり取りは面倒くさいだけで、何の面白さも感じず。必要な場面だったことは後半でわかってくるけど、本当に退屈だった。執筆中の本の筋の、セックス後にやる二人でのオウム返しのやり取りが理解できず、また、浮気に対して黙って引き下がったのも納得できなくて、モヤモヤ爆発。で、車の疾走をバックにしたあの演者名出現の時には、エっ、これで終わり?何という映画だと物を投げそうになったけど、映画は続いてた。なんとかそのまま観てると、これがどんどん映画に引き込まれていく。ワケのありそうな運転手、おかしなオーディション、外国語で演じる役者、手話でコミニュケーションをとらなきゃならない役者まで。ワーニャ役は唯一まともそうだったのに、オウム返しで確認しあって本の筋を知っていた、音の浮気相手の一人じゃないか。しかも、先の筋を知っていたということは、家福よりもずっとあとまで音とやってたのかぁ。どういう話の運びになるのか全く見当がつかなかったけれど、徐々に映画館の椅子から前のめりになるほど。
面白い、本当に面白い。ただ、運転手の故郷へ行くのは良いけど、でもそこで抱き合ってしまったのは、擬制親子として?もしくは互いへの同情?それともこれら以外の感情?わからないままで、私には消化不良。んで、突然の韓国シーンになって、家福はどこに?買い物を済ませた運転手の向かう先で待っているのか?じゃあ、あれは愛情で抱き合っていたのか?でも、その理解不能な最後もなんとなく受け入れられたし、何の結論も出てないけど、オチもないけど、不思議と納得。その後、エンドロールで村上春樹原作というのが出て、ああなるほど、最後のわけわからないところが村上春樹の小説の映画化らしいところだわと納得。たぶん、私以外は彼の小説の映画化だと知って観ていたのだろうけど。
観てよかった。本当にそう思う。小説はダメだが、映画は相性が合うのかしらん。ところで、劇中劇の「ゴドーを待ちながら」は私でも聞いたことのある有名らしい不条理劇だけど、「ワーニャ伯父さん」も不条理劇なのだろうか?だから、実際の舞台ででもあんなバラエティに富んだ配役でやるのかな。
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