ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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こういう作品の観方が未だに分からない
オープニングで霧島れいかが語る話を「どこかで聞いたことあるな」と思ってたら、つい最近、原作読んでた。でも内容はほとんど忘れてたな。
三浦透子の運転手も出てきて「そういえば、そんな短編もあったな」と思ったの。
原作・村上春樹にしてるけど、そこをベースに、新しい話を作ってるよね。違うかな。原作を読めてる自信は全くないので、違うかも知れないな。
西島秀俊の演技が淡々としてて《2/デュオ》っぽいなあと思ったの。
みんな淡々と演技するよね。劇中劇の読みあわせでも『感情を入れずに読め』って言われてて。
『ロボットのように』みたいな台詞も出てきて、「これ、モデルは平田オリザなのかな」と思った。青年団の松田弘子さんも出てるしね。
劇中劇の多国語で上演されるチェーホフは面白そうだけど、これ観るのしんどそうだな。舞台の俳優の演技に注力したいけど、後ろの字幕みたいと訳が分からないよね。チェーホフのテキストを完全に頭に入れてから観るのか。
終盤で、西島秀俊と三浦透子が、三浦透子が生まれた街へ行って、そこで再生を果たすんだよね。車中の会話で『君のせいじゃないと言ってあげたいが、言えない。君は母さんを殺し、僕は妻を殺した』が良かったなあ。
きっかけになるのが岡田将生の傷害致死だけど、岡田将生の役は必要なのかな。良く分からなかった。オーディション合格の時点で「この役、最後は西島秀俊がやることになるんだな」と思うしね。
車も主演の一人だね。滑るように走る画が全部良かった。
画は綺麗で良かったね。清掃工場の海辺で話すところとか「計算されてるなあ」って構図だったし。
観てて、面白いし、それだけで良いんだろうと思うんだけど、この手の作品は未だに「解った」って感じがないな。面白いと思ったから、それでいいか。
運転の女
少し説明が多すぎるんじゃないかと思いながらずっと見ていてのだか、他者とのコミュニケーションをテーマにした本作は、聴覚や視覚障害者向けのバリアフリー版が別途あるらしい。環境意識への高まりとともに、ダイバーシティ等への配慮のあるなしがマーケットにも直接影響を及ぼすようになってきた社会の風潮を、ちゃんと察知した上での演出だろう。読解力不足が指摘される若者にも優しい本作を監督した期待の若手ホープ濱口竜介の、バランス感覚の良さにも注目したい1本である。
映画中盤、韓国人主宰の演劇祭におよばれした舞台俳優兼演出家の家福(西島秀俊)が開催地の“広島”へとむかうシーンをバックに、初めて映画タイトルが表示される濱口お得意の演出。おそらくここまでが村上春樹の原作に忠実なパートで、以降は濱口監督オリジナルの創作ではないのだろうか。何せその原作短編を読んだことがないのではっきりしたことは言えないのだか、どうもハルキムラカミにリスペクトを捧げたのはここまでだよ、と言っているような気がするのである。
が、説明が多い割には何を言いたいのかがわかりにくい。なぜなら、言葉による他者とのコミュニケーションの難しさを、その言葉=テキストによって説明しようとしているからである。いわば観客ー役者ー演出家(映画監督)の間に横たわる見えない壁(バリア)をフリーにしようと試みた作品なのだろうが、「いまAとBの間に変化が起きた。それが観客に開かれているかどうかはわからない」家福の台詞中の、その“変化”がどんなものかが、映像からはうまく伝わってこないのである。
直近の作品中で、我々観客の映画理解力をゾンビやチンパンジー並みと評価を下しているジャームッシュやカラックスならば、嘆く以前にここですっぱり諦めていたのかもしれない。しかし、濱口竜介はけっして諦めない。尺が3時間近くになろうが、予算をかなりオーバーしようが、役者から濃厚なベッドシーンにNGを出されようがへこたれない。何とかして観客に自分の言いたいことを伝えようと奮闘努力するのである。芸術家としての真摯な姿勢を貫き通す監督なのである。
そのために家福(濱口)がとった(小津やカウリスマキを想わせる)演出方法が、本当の自分を引き出す力があるというチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の棒本読み、外国人、唖者の女優など日本語が話せない&通じない役者のキャスティング、なのである。自分の代わりにワーニャ役に抜てきした音の浮気相手でもある高槻(岡田将生)たちに対し、家福いわく“(チェーホフの)テキストを役者の身体に潜り込ませる作業“を行うのである。役と役者本人の内面との“切り離し作業”と言い換えてもいいだろう。
しかし、車の中で亡き妻音(霧島れいか)との棒読み合わせ=“音”と感情の切り離し作業を無意識のうちに行っていた家福に、ここで思わぬ副反応が生じるのである。幼い娘の死を自分の責任であると思い込み、複数の男を自宅マンションに連れ込んで自傷的な浮気行為を繰り返していた音。そんな妻の傷んだ姿を見て見ぬふりをしていた罪の意識が、家福の思惑とは裏腹に心の中でドンドンと肥大化していくのである。チェーホフのテキストによって本当の自分=魂が表出してしまうのである。
家福に自分を空っぽな人間だと語った高槻は、(ワーニャ役の稽古をすることによって)SEXと暴力という肉体的コミュニケーションしかはかれない自らの内面をさらけだす。他人と話す時は全くのポーカーフェイスで、言葉を話すことができない🐕️の前でしか内面の感情を表現できなかったドライバーのみさき(三浦秀子)もまた、『ワーニャ伯父さん』の稽古を見学したことによって、家福に亡き母親との確執を語り出すのである。
ある事情によって再びワーニャを演じなければならなくなった家福は、稽古を一時中断、生きていれば死んだ娘と同い年のみさき、そして妻の思い出が刻まれた“(クモ)真っ赤”なSAABとともに、自らの心の奥深くに眠っている“原罪”を見つけに、みさきの自家跡へ、魂の源流へと遡る再生の旅に出かけるのである。「どこかへ連れてってくれ」新藤兼人が脚本担当なら間違いなく原爆ドームに連れて行ったと思われるそのトリップはまた、“ヒロシマ”という過去のトラウマから目をそむけ続けてきた日本人の“原罪”を再認識させる旅だったのかもしれない。
正しく傷ついてこなかった
辛い言葉だ。避けてしまった本当のことは、生きていく限り一緒に心に抱いていく。
それでも生きていかねばならない。手話の女優さんのチェーホフの台詞が身に滲みる。
単調な本読みの違和感は戯曲を体に染み込ませると言うよりも、感情の噴出のための演出とは意地の悪い見方だろうか?
それにしても、風景も音もつつましく美しくて飽きないのは、心地良い運転に身を委ねているからだろう。
原作をしりませんが…。
映像、小説、哲学、演劇、さまざまな要素が混在となり一つの劇場映画となってます。
劇中舞台のセリフが、それぞれの配役の葛藤や感情を表現して複雑な伏線や心理を表現しているとともに、演技に国境は無いと思うところがしばしば見られます。
個人的に感慨深い映画で点数つけましたが、エンタメ性は…!?
赦される喪失痕
舞台演出家の家福悠介と妻で元女優・脚本家の音は、贅沢ながらも慎ましく穏やかで満ち足りた生活を送っていた。悠介はある日、音から「今夜、話がある」と伝えられていたが、帰宅すると音はくも膜下出血で他界していた。喪失感を抱えながら2年が過ぎたある日、悠介は芸術祭で演出を担当する広島で長期滞在をすることになり、そこで専属ドライバーのみさきにと出会う。原作は村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」。
本作は、幾重にも編み込まれた入れ子構造がベースで、かつ、ロードムービー的要素、チェーホフの劇中劇、音の紡ぐ物語などなど、異化効果がふんだんに散りばめられた作品なので、鑑賞者の数だけ感じ入るポイントが存在するであろう、映画らしい映画といえる。たくさんの文脈が折り重なるなかで、わたし自身は「喪失痕」に関心を寄せた。
生きていくうえで何かを失うことはたくさんあるが、わたしたちが人生で遭遇しうる最大の喪失は誰かの「死」である。遺された者は「あの時、ああしていれば」という後悔に苛まれる。逝ってしまった人が大事であればあるほど、自責は募る。芸術の多くはそうした喪失の先の、「克服」や「再生」の美しさに光を当て、賛美を送ったが、本作は、傷痕が癒えることも何を創造することもなく、ただそれを抱えたまま生きていく群像を淡々と描く。だがしかし、淡々とした中にも、彼らが傷痕の存在を認めた後の得も言われぬ“抜けた”感じは、ある種のカタルシスを覚えさせ、鑑賞者であるわたしたちひとりひとりが誰しも隠し持っている「喪失痕」が赦された感覚に捉われる。
準主役に「赤のSaaB900」と「紙たばこと100円ライター」をチョイスしているのが渋い。長くこだわりぬいて乗るのにふさわしい北欧車で、一筋縄ではいかない家福悠介を投影するモチーフとしても最適だが、そのこだわりを捨てて、高槻のように分別をなくしたくなる刹那、「車内でたばこを吸わない」というルールをかなぐり捨てる、わけでもなく、やはりどこまでも分別が捨てられず、サンルーフから煙だけは吐き出すシーンが印象に残る。また清掃工場を一通り見学した後、川辺で一服するふたりがハイアングルで映し出される場面で、クライアントである悠介と一ドライバーのみさきが、実は同種の「喪失痕」であったという邂逅も素敵な場面だ。そして二人とも、携帯灰皿で吸殻を持ち帰るシーンをきちんと本編に入れ込むあたり、監督の徹底した演出が光る。トリリンガルのコーディネーターを演じたジン・デヨンや、迫真の演技を見せたパク・ユリムも好感が持てた。
一度の鑑賞では掴みきれない奥深さがあった。例えば、北海道に着いたあたりの、割と長尺の無音の場面などは、もう一度、ゆっくり観たい場面。更には、観賞後、村上春樹の原作や、劇中劇で脚本となっているチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」へ興味をそそられるあたりも良作と呼ぶにふさわしい出来だ。
スペシャルな時間を堪能致しました。
脚本、カメラワーク、撮影、役者どれもかもスペシャルなものでした。
3時間という長編作品であるが、没入して時間を忘れました。
久々にもう一度映画館で鑑賞したい作品と出会えました。
濱口監督サンキュー&コングラチュレーション
巧みな脚本と演出の作品だが、気になる点あり
巧みに作られた物語の構造、そして確かな演出力には関心したし、音楽の使い方のセンスも素晴らしい。3時間の長丁場だが、中だるみするような所もなく、映画を鑑賞できた。最初の40分ほどで何が主人公に起こったか、その状況を見せてからのオープニング、車で妻の声のテープを聴き台詞を言う役者の主人公の行為が、事件前と事件後で意味合いが変わる事や、舞台の台詞と実人生が繰り返し微妙に重なり合うという設定も面白いと思った。韓国通訳の方の家での食事のシーンは心温まる場面だったし、エンディング近くで主人公の人生と演劇が重なり合う場面も美しく見事だったと思う。濱口監督の作品は初めてだったが、確かな力量を持つ素晴らしい作家だと思った。
しかしながら、多分私の好みの問題かと思うが、二点ほど気になる点があった。
一つは主役の西島さんが、運転手の女性と本当に心を一つにする一番大事な場面で泣きの演技をするのだが、彼はそういう感情を吐露するような場面が得意でないと見え、あまり深く心に響くものが無かった。(ここはあくまで私の印象なので、そうは思わない人もいることだろう)
そして、もう一つ、一番気になった所が、あの高槻という若い役者のキャラクターだ。彼はこの物語の中で非常に重要な役割なのだが、劇中である過ちを犯している(というか何度も猿のように同じ過ちを繰り返す。)そして、それにも関わらず、主人公に好意的に近づき、挙句の果てには目を潤ませながら、主人公が他者と分かり合い、自分を見つめるきっかけになる言葉を与えようとする。恐らく彼が主人公に対して心を開き教訓めいた事を言うというのは、物語上感動的な場面なんだと思うが、ここが私は乗れなかった。
主人公が彼自身解決しなければならない問題を心の中に抱えているのは間違いない。それを見つめなければならない事も理解できる。だが、なんでそれを高槻から聞かされなければならないのだろうか?いや、だって主人公苦しんでるのこいつのせいじゃね?まず言うべき事言って、誤るとこ誤ってから腹割って話しろよ。しかも高槻はこの後にわざとなのか、意図せずなのか、主人公にまた迷惑をかける。そしてそれを誤ることもない。
小説を未読なので、確かではないが、この気持ち悪さは恐らく元々の小説の設定を上手く消化できていないところから来るのではないだろうか?なぜなら元の小説ではどうやら二人は長年の親友になった後、この話をしている。映画での関係はそこまでお互いが分かり合えているような状況ではなかった。そのため彼の台詞を聞いている主人公の顔が映るとき、分かり合えたというよりも、「こいつ何様のつもりで俺にこの話してるの?」というリアクションにしか見えない。その点が非常に気になり、残念ながら私は物語の深いところまで感情移入して入り込むことができなかった。
ちと長い
面白い。よく出来た作品だ。自然に物語にすっと入っていけた。上質のブランケットにくるまれるように、気がつくと僕はこの物語にそっとつつまれていた。こんなことは滅多にないことかもしれない。――そんなことを思いながら観ていた。中盤までは。
本作中、主人公がドライバーの運転技術を称賛する場面に「クルマに乗っていることを忘れている」というような台詞があるが、僕はいつの間にか自分が映画を観ていることを忘れてストーリーの中に、春樹&濱口ワールドの中に入り込んでいた。
物語がかなり進行してから(1時間くらい経ってからか)、クレジットが映し出されるという仕掛けも斬新であった。なるほど、こういうのもありだな。そうか、今まではイントロでここからがいよいよ本題か、とワクワクした。
その後も気持ちがダレることなく、物語の世界にひたることが出来た。
まるで自分も主人公たちとドライブしているような、スタッフとして演劇祭の制作に参加しているような、そんな擬似体験を味わうことができた。
とくに、韓国人夫妻の家での食卓のシーンは心温まる印象的なシーンで、観ているこちらもほっこりとなった。
(毒があり、スパイスも効いているが、)なかなか素敵な作品だな。こんな魅力的な作品をつくれるのは、春樹さんも、濱口監督も、きっと素敵な人だからなんだろうなぁ、と食卓のシーンのあとは、そんなことも思って観ていた。
が、でも、しかし、けれど、僕の集中が持続したのも、そのあたりまでだった。
それからあとが長かった。ちょっと長いな、と感じてしまった。
後半になって、僕の座席後方のおっさんがしきりにブッ、ブー!!と音立てて洟をかむので、少なからず身の危険を感じ早くこの場から脱出したいと考えたりして集中力を削がれたことも原因したのかもしれない。そんな鼻水ズルズルの体調で映画なんか観に来たらあかんで、おっちゃん。
話が脱線した。
そう、後半は集中力を欠いた。やっぱり3時間は、ちと長い。
よほどの作品でない限り、集中をキープするのはむずかしいのではないか。
そうなのだ、映画の途中から僕の感動は萎縮してしまった。
中盤以降のストーリーに(食卓シーンのあとの展開に)、どうも真実味を感じることができなくなってしまった。胸に響いてこなかった。
何よりも、いちばんのキー・パーソンであるはずのドライバー、みさきの存在が、僕にはいまひとつ魅力的には見えなかったのだ(小池栄子に似ていることも気になった)。
彼女が放つ言葉、経歴や母との関係などを語るシーンにもリアリティーをあまり感じることができなかった。みさきの「言葉」ではなく、三浦透子の「台詞」のように聞こえてしまった。
ただ、ラストはよかった。本作に重層的な構造を与えているチェーホフの舞台のシーンだ。
魅力的なラスト・シーンだった〈私たちは苦しみました、泣きました……〉。
そんなわけで、全体を通して見ると、質の高い作品であることはわかったが、僕好みの映画ではなかった。
けっきょく、監督がなにを伝えたかったのか、またしても僕のボケた頭では、それをじゅうぶんに捉えることができなかった。なんだか消化不良であった。
でも、これだけクオリティーの高い、緊張感を湛えた長編作品を、(しかもこのコロナ禍で)撮りきった濱口監督の才能と熱情には大きな拍手を贈りたいと思います。
追記
僕は春樹さんのファンだけど、この原作は未読です。
原作を読んだあと、それをもとにした映画を観ると、原作の「ダイジェスト版」のようだなと思うことがよくあって、その度に「映画化」の意味を考えてしまいます。
だって、小説を読むのって、読み手がそれぞれの頭の中で「映像化」しているわけですからね。それをあえて映画にするというのであれば、ただ原作をなぞるだけでなく、原作にはない「映画作品としての何か」や「映画作品としての面白さ」がないとダメですよね。この作品はどうなのだろう? 是非、原作も読んでくらべてみたいです。
それから、予告編ではベートーヴェンのピアノ・ソナタ『テンペスト』が使われていて、その曲と映像が醸し出す雰囲気に誘われて僕は映画館に足を運んだのだけれど、本編ではいつまで経ってもテンペストは流れなかった。なんか騙されたような気がちょっとしました。不満です。まあ、たまにこういうことはありますけどね。
そうそう『ワーニャ伯父さん』も死ぬまでには読みたいなぁ。
僕のレビューも、ちと長い、ですね。すみません。
ラ王を食い損ねた男
いつもの映画館で
水曜日のメンズデーで祝日前日の好条件 2時間早退
3時間の上映時間には尻込みしていたが一睡もせず完走
チェーホフだとか戯曲だとか全く知らないので
どうなることかと思ったが何とかついていけた
テキストから何かを受けとるとか 面白かった
「寝ても覚めても」を観て嫌いな作風ではないだろうと信頼していた
アルコールが入っていなかったことも勝因かも知れない
ラ王を食い損ねた男が体当たりの演技
脱いだ女優に使う慣用句だな
妻役霧島れいかよかった 知らない人だが
ベッドシーンは苦手なのだが必然性があった
このシーンは省けない
いろいろあるけど折り合いをつけて生きていく
くどくどと説明した挙句
結局そういう内容の映画が好きなんだな この頃
「泣く子はいねぇが」とか「茜色に焼かれる」とか
「BLUE/ブルー」とか
いろいろと想像できるのが嬉しい
・自動車事故の場面はクラッシュへのオマージュか
・若い役者を起用した理由
・ラストシーンの車とか食品スーパーに至った経緯
他の人のレビューが楽しみだ
村上春樹の原作がどの程度反映されているもんだか
確認したいとも思った ブックオフにはなかった
終了後はこれまたいつもの公園のベンチで缶ビール
雨の予報だったが大丈夫だった 感謝
駅までの帰り道では新コロにもめげずに開いている居酒屋
外で待つ客 この間名前を公表されていた店
警察になるつもりはない
店も客もしたたかで賢い頼もしい とただ思う
自宅に着く直前に雨が降りだした
今日はつくづくついていた
エロかった、長かった、わからなかった
エロかった。
前半のもやもや感が、後半には解消されるのかなと思いながらも、私にとっては、
結局は、ほとんど何も解消されず、長かったという感じ。
原作は読んでません。
東京、韓国、広島、北海道
村上春樹原作。「女のいない男たち」の中の一編「ドライブ・マイ・カー」を深く掘り下げて映画化。山本晃久プロデューサーの企画で、最初は韓国釜山ロケを予定したらしい。しかしコロナ禍で中止。広島にロケ地変更。そのため、広島の国際演劇祭なのに韓国人主催者がいたのである。ラストも韓国になっていた。
原作に出てきた修理工場の大場さんが、みさきとカフクを引き合わせる韓国人のコン・ユンスになっているのだと思うと、この映画の膨らませ方は原作の二倍以上だと思った。
映画を見る前、「ドライブマイカー」しか読んでいなかった自分にはわからなかったが、「女のいない男たち」から「シェエラザード」「木野」の要素をそれぞれ前半部と後半部に取り入れているそうだ。
原作から変わっていることですぐ気づくこと。主人公のクルマ(サーブ900)の色がまず、異なります。原作では黄色だったのが、映画では赤。そして最初は後部座席に座るところとか。
ほかに原作にはなかった要素、国際演劇祭のだしものとしての「ワーニャおじさん」。多言語演劇という実験的手法。
日本語、中国語、韓国手話、タガログ語、ドイツ語。インドネシア、マレーシアも?
監督によるとリハーサルシーンのレッスンでは、日本語→韓国手話、韓国手話→韓国語というような通訳をしていたらしいです。ソーニャ役のイ・ユナを演じたパク・ユリムは、一言も発していないが、手話も演技らしい。通訳や手話通訳が何人もいてスクリプターは大変だったと思います。
奥さんの名前。女優から脚本家になったという経歴。情事後の興奮状態で話す空想の女子中学生の話。子供の亡くなった年齢。高槻のキャラクターがやや若いこと。
運転手みさきの育った家庭環境もかなり掘り下げられていました。広島に来てゴミの回収車に乗っていたとか。
霧島れいかさんも「24JAPAN」のきつい上司とは一味違った役でしたが、「ノルウェイの森」(10)にも出ていたとは覚えてませんでした。一回しか見てないので。あと西島秀俊は「トニー滝谷」の語りもやっているそうです。
岡田将生くんが、「大豆田とわ子」とはまたひと味違った軽めの男を演じてハマっていました。
多分、カフクにはめられたんだけどね。
あまり物事をよく考えもせず、軽はずみな行動をとってしまうことで他人に迷惑をかけていることの無自覚さをカフクは高槻につきつけた。そしてタカツキは、その報いを受ける。
けして岡田くんがそういう人ではないのだろうけれども。演技が上手いというだけだ。
「ワーニャ伯父さん」「シェエラザード」「木野」を読み、監督の「寝ても覚めても」と山本プロデューサーの「彼女が名前を知らない鳥たち」も見てみたい。その上で本作品を見直すとどうなるか確かめてみたい気もする。
村上春樹ファンでも評価が分かれそう
ハードな性表現が多くて正直疲弊した。棒読み調のセリフが続くのは、村上春樹の世界観通りとはいえ、映像化するとやはり違和感がある。かといって、ものすごく感情移入して演じられると、もっと違和感があったかもしれない。
メッセージ性というか、テーマとなっている喪失感は、ワーニャ伯父さんのセリフと相まって原作にはない伝わりやすさが出ていたと思う。
でも、村上春樹独特の飄々とした感じは、本作ではあまり出て来ず、むしろ登場人物の行動の突飛さが際立つように見えてしまったのは少し残念だった。
全体を夫婦と恋愛という、人間の感情の中でもかなりシビアで、人によって千差万別の関係を基調にしているので、受け取られ方もかなり幅があるものになっているのではないか。
とはいえ、万人受けを目指さず、村上春樹作品をここまで別物に昇華させたのはあっぱれである。
原作をモチーフに再構成した作品
原作の短編集を読んでからの鑑賞
カンヌの脚本賞も納得の作品
原作では、みさきが音の心情を語ったところで
さらっと終わっているのだけど
本作では家福とみさきが悲しみや苦しみと向き合い
乗り越えられたところまでを
しっかりと観せてくれた
ラスト、ワーニヤ伯父さん劇中の
手話が心に響いた
私も死んだら
苦しんだこと、泣いたこと、つらかったこと…たくさんたくさん
神様に聞いてもらいたい
死者の分人
身近な人が亡くなったとき、その空白とどう向き合っていくのか、そんなことを考えさせられる作品だった。その人とどんなに親密な関係を築いていようと、自分が知っているのはあくまでその人の一面だけであり、それが全てではない。他の人に見せていた素顔、いわば他の分人を知り、それを受け入れられるか、非常に難しい問題だと感じた。
終盤では演劇を通して、身近な人の死があってもなお、1人の人間として生きていく使命を優しく説かれているようにも感じた。暴力で物事を解決しようとした高槻とは、対極の位置付けだ。
わからないけど分かる韓国手話
脚本にかなり手を加えているのに、村上春樹らしさを保ちながら映画として成り立っていると思う。
原作では舞台俳優の主人公とドライバーの話・妻の不倫相手の話くらいだったが、
映画では
①舞台俳優の妻との暮らし
②演劇祭への参加とドライバーとの出会い
③コミュニケーション手段が入り交じる『ワーニャ伯父さん』の下読み・稽古風景
④ロードムービー
などがかなり重層的に描かれている。3時間という長尺の中で、
韓国手話で何言っているのか分かるようになってきたりという謎の
「今なんでわかったんだ?」感を感じながら見ることができる。
この「?」が嫌味ではない形でかなり多い作品なのだが、なんで嫌味ではないのかよくわからない。
劇中の③下読み風景はそのヒントになるのか、
演技がゾーンに入る瞬間を、完全な形でお客さんに見せるということを
劇中劇で実践しているのが面白い。この劇中劇がまさに映画の稽古でも行われたはずで、
不思議なシンクロ感を感じながら見られた。
『ハナレイ・ベイ』を彷彿とさせる描き方もあり、
大事な人を失った人間が、それを引き受けるというテーマ性なのかもしれない。
村上春樹原作と知ってたら観てなかったはず
小説が非常に人気があるので、何度も読もうとしてみたけれど、長編は全部挫折。短編のものはなんとか読み通したけど、どれも受け入れられなかった。かえるくんとかパン屋とかTVピープルなど、そのうちに面白くなるんじゃないかと我慢して読んだんだけどね。どこに人気の秘密があるんだ?結論、私には村上春樹の小説はその良さが理解できない、少しも面白くない。で、この映画も原作が村上だと知ってたら、観てなかったと思う。観たかった脱力系コメディ映画の終了時間とこの映画の開始時間がたまたま合ってたので、それを知らずに鑑賞。これでやっと、すべての今月末期限の映画ポイントを消化できるわと思って。
しかし、この映画は非常に面白い、でも途中からね。広島に行くところで出演者名がテロップで出てきてからあと。それ以前の音とのやり取りは面倒くさいだけで、何の面白さも感じず。必要な場面だったことは後半でわかってくるけど、本当に退屈だった。執筆中の本の筋の、セックス後にやる二人でのオウム返しのやり取りが理解できず、また、浮気に対して黙って引き下がったのも納得できなくて、モヤモヤ爆発。で、車の疾走をバックにしたあの演者名出現の時には、エっ、これで終わり?何という映画だと物を投げそうになったけど、映画は続いてた。なんとかそのまま観てると、これがどんどん映画に引き込まれていく。ワケのありそうな運転手、おかしなオーディション、外国語で演じる役者、手話でコミニュケーションをとらなきゃならない役者まで。ワーニャ役は唯一まともそうだったのに、オウム返しで確認しあって本の筋を知っていた、音の浮気相手の一人じゃないか。しかも、先の筋を知っていたということは、家福よりもずっとあとまで音とやってたのかぁ。どういう話の運びになるのか全く見当がつかなかったけれど、徐々に映画館の椅子から前のめりになるほど。
面白い、本当に面白い。ただ、運転手の故郷へ行くのは良いけど、でもそこで抱き合ってしまったのは、擬制親子として?もしくは互いへの同情?それともこれら以外の感情?わからないままで、私には消化不良。んで、突然の韓国シーンになって、家福はどこに?買い物を済ませた運転手の向かう先で待っているのか?じゃあ、あれは愛情で抱き合っていたのか?でも、その理解不能な最後もなんとなく受け入れられたし、何の結論も出てないけど、オチもないけど、不思議と納得。その後、エンドロールで村上春樹原作というのが出て、ああなるほど、最後のわけわからないところが村上春樹の小説の映画化らしいところだわと納得。たぶん、私以外は彼の小説の映画化だと知って観ていたのだろうけど。
観てよかった。本当にそう思う。小説はダメだが、映画は相性が合うのかしらん。ところで、劇中劇の「ゴドーを待ちながら」は私でも聞いたことのある有名らしい不条理劇だけど、「ワーニャ伯父さん」も不条理劇なのだろうか?だから、実際の舞台ででもあんなバラエティに富んだ配役でやるのかな。
飽きさせない。
西島秀俊、岡田将生、霧島れいか
素晴らしい役者さんばかり、そして手話が美しいこと。。
劇中劇が完成されていく過程の細かさ、ドライバーとの距離感、過去。現在。
すべてが嘘がない。。
そしてすべてが嘘でもある。
と、ごまかしは嘘じゃないし、自分の心を溶かしていく、日常は裏切らないのだよね。
期待は裏切られるけど。
村上春樹作品をうまく実写化できたと思う。
村上春樹の作品は『いや、こんな無感動にリリカルなセリフを長々としゃべる人間いねーよ』と、若干不自然さを感じるところがあります。でも、淡々とならべられる奇麗な言葉をみてると心地よく、自分は彼の書く文章がある種の呪文のように感じています。
村上春樹原作の映画ではノルウェイの森を見たことがあるのですが、それほどおもしろくなく、彼の作品の映像化はやはり難しいと感じていました。
しかしドライブマイカーは彼の作品の雰囲気をうまく再現できてる気がしました。 余計なBGMや効果音をほとんど入れずに、演者たちのセリフに注目するようにとったのが良かったし、演者の演技もよかったと思います。
主演に声に魅力のある西島秀俊さんを起用したのもよかったと思います。
セリフが長いので上映時間が3時間とかなり長めになってしまいましたが、最初から最後まで退屈せず面白かったです。
映画とは邦画とは
を何かを考え直す日本以外でも戦える作品。幾重にもエピソードが絡まり無駄なくタペストリーを紡ぐように計算された脚本が後から後からじわりとくる。
なんでここまで韓国寄りにするのかと思ったら、最後の方にしなければならない理由がちゃんとあって、そこが映像的にも圧巻。
良質のロードムービーです。音さんがめちゃ色っぽい演技(主に声)で壷。
全786件中、561~580件目を表示