「原作を見事に昇華して巧みにディスコミュニケーションを描いた」ドライブ・マイ・カー あふろざむらいさんの映画レビュー(感想・評価)
原作を見事に昇華して巧みにディスコミュニケーションを描いた
職人芸の塊のような映画だ。
村上春樹の短編は、あくまでも原作であって、種のようなものだ。本作は、その種から見事な花を咲かせることに成功している。
この映画は、西島秀俊が演じる、俳優の家福悠介が、広島でチェーホフの「ワーニャおじさん」の舞台を作っていく過程を描いている。
彼は亡くした妻のことをひきずっている。舞台俳優はオーディションで選んだが、ワーニャ役には家福の妻の浮気相手だった高槻という俳優が選ばれる。
原作では、高槻はさほど重要人物ではない。ほぼ全編が家福と、彼のドライバーである渡利みさきの会話に終始する。物語における「現在」は、ほとんどが車の中で、舞台は東京だ。原作では、俳優は舞台でも実生活でも演じ続けると語られ、妻との関係においてもそうだった、と。家福は仕事場と自宅の往復の中間、つまり車の中でのみ本当の自分を取り戻す。
映画では、舞台は東京から広島、北海道をつなぐ。そのすべてを車で移動する。日本人の感覚だと、飛行機を使うだろうと思うが、逆にこれがこの映画の重要なポイントで、要するにこれはロードムービーなのだ。車で移動するという意味でもそうだし、家福や、他の登場人物の心の旅でもある。
登場人物はみんな棒読みだ。チェーホフの舞台、という要素があるから、この演出が生きてくる。舞台でも、実生活でも、人は演じ続けているのだ。そして、棒読みのセリフ回しの中に、感情を感じ取ることができる。西島秀俊はさほどうまい役者だとは思っていなかったが、沈黙の中で感情を表現していた。
そして高槻を演じた岡田将生。彼だけは感情豊かに演技をする。これは、棒読みの演技ができないというよりは、家福とは違う世界に生きている人間だからだろう。後半、高槻が、カメラをじっと見据えて、長いセリフを言うシーンがあるが、これは本作において、ひとつの山場だった。岡田将生がおいしいところを全部持っていってしまったように感じたほどだ。
本作が職人芸だと感じたのは、「ワーニャおじさん」の場面を切り取って、家福の心を説明しているところだ。この紐づけのやり方はうまい。一場面だけではなく、全編にわたって、延々とワーニャおじさんのシナリオが、家福の心理描写をし続けるのだ。村上春樹の短編と「ワーニャおじさん」を徹底的に解剖して再構築したような印象をうける。
この映画では、家福の住むマンションや、泊っているホテル、洋服、どれもこれも洗練されている。そして、そこに心はない。どんなに豊かな生活をしていても、人は自らの心に真摯に向き合うことでしか成長できない。そして、自らの心に向き合ったうえで、そこにはなにもないことに気づいてしまう人間もいる。
非常に重いテーマを、巧みにまとめあげた手腕がすばらしい。小生はインターナショナル版というのを観たので、日本版はどうなっているかわからない。個人的には最後のシーンは不要だと思った。