「余韻の波〜」ドライブ・マイ・カー humさんの映画レビュー(感想・評価)
余韻の波〜
誰にも知られずにそっとしまっておくこと。
家福にもみさきにも重く深いそれがあった。
家福の知られたくない領域へ
高槻はつかつかとやってきた。
そしてそれは
みさきの領域に家福がたずねる運命へとつながる。
幼くして亡くした娘への自責の念と本心を隠す夫との関係に虚さを抱く音。
2年前、
音は家福と話そうするが、家福は用事があるふりをする。
その晩の音の急死で音の闇は永遠となり
家福もまた苛まれ続ける。
そんな折、広島で演劇祭の仕事が始まる。
主催者からドライバーにみさきを紹介され、
かつて音と不貞関係にあった高槻にも再会する。
ある日の稽古後、みさきが丁寧に運転するじぶんの車の中で
家福も知らなかったヤツメウナギの話の続きを高槻から聞かされる時が来る。
脚本家だった音は独特の方法で物語をつくっていたが、それをよりによって高槻から聞くのだ。
音の不貞の数々は家福の自己保身に対するやりきれなさの反映であり寂しさの裏返しだっだのだろう。
高槻と自宅にいた時も
音は家福が鏡越しに目撃しているのを知っていた気がしてならないし、
出張先にいることを装った家福に電話をした音は、きっと目的地におらず留まりながら嘘をついたこともわかっていたと私は思う。
そんな音が高槻を通して家福に宛てたメッセージ。
研ぎ澄まされた勘が紡ぐその物語の続きだ。
『植木鉢に鍵はもうない。』
それはつまり
当事者にしか知りえぬそこ(植木鉢)には、なければ開かないもの(鍵)が存在しないこと。
すでに存在しないものとは
かつて家福と音をつなげていたもの。
誰がいようと
なにをしていようと
私を咎めることはない。
(開けることのできる)鍵はもうそこにないのだから、と。
登場人物は鋭く例えられており
私の妄想配役はこんなかんじです。
空き巣の少女は音。
ヤマガは家福。
証拠を遺す少女(音)の癖は
ヤマガ(家福)のこころを試すための習慣。
後から来た空き巣は高槻と家福。
似て異なるふたりの共通点がつくりあげる架空の男。
ぼくは空っぽだと堂々と素直に言え他人との距離感を測らずに自由な空気のように振る舞う高槻と
表面では成功者で良き夫であるが立場を守る固い自尊心のせいで実は空の器のような家福。
監視カメラは、そこにひっそりと佇み実は全てを知ってるが向き合わない家福。
私が殺した…のは
娘(自責の念)、虚構の夫婦の形、本来の音、
なのではないだろうか。
大切な娘と暮らした日々の象徴の
家の鍵をどこかにやったのは
報われなさを衝動に転換させ自己嫌悪する音(自分)であり、音のもとで腕で目を覆ったままの家福(夫)でもある、と。
だから、高槻には家福への恨みなどはなにも言って無いだろう。
ただ、高槻に物語を伝えたのは、彼ならば
音から何かを感じとったまま躊躇なく家福に話すに違いないと確信していたから。
つまり音は家福にどうしても聞いてほしかったのだ。
乱暴なくらいの高槻に託された
その意味するところ。
つきつけられ追い込まれた無言の家福。
「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います。」
涙ぐみながら挑む目をそらさなかった高槻。
音の見立ては当たったのだ。
高槻を降ろし、助手席に乗った家福。
一緒に話を聞ていたみさきは淀みなく言う。
「あの人は嘘をついていないと思います。わかるんです…」
「ただ単にそういう人だったと思うことは無理ですか」
この言葉にみさきのすべてが注がれていた。
みさきが母親に抱く辛い過去の記憶。贖罪の気持ち。
それでも生きて来れた本能が、語るべきひとを選んだ瞬間だった。
選ばれた家福は辛さを生きる術を教えられたのだ。
それは友情や愛情ではまだなく…。
小さな声でぽつりぽつりとでる嘘のない言葉で、亡くなった娘と同じ歳のみさきの口から。
煙草をもつ2人の腕がサンルーフから伸び煙を後ろに送る。かつての禁煙車で呪縛のように絡んでいたなにかに変化が起き、信頼と同じような関係が生まれているのがわかる。
ほどなくして高槻は傷害罪で逮捕され、演劇祭迫る中舞台は主役をなくし、演ずることに自信をなくしている家福が代役となるか中止するかの暗礁に乗り上げる。
数日の猶予だ。
葛藤する家福は
なにかにすがるようにみさきの出身地へ行けるかと聞き
みさきは迷いなく車を走らせる。
秘そめていた闇は吐き出され剥がれていく。
剥がれた場所に少しずつ光をとりこむ。
まだ雪深い北の大地は静かだ。
寡黙なみさきが崩れた実家の前で花を手向けながらぽつりぽつりと語る母の死に関わる事実。
痛みを知っているかのようにサーブはみている。
その時間はいつしか家福を自分と対峙させ
二度と帰らぬ音への怒りと愛と自分への悔やみを吐露させるのだ。
自然と家福に寄り添い抱きしめるみさき。
それを受け、家福もまたみさきを抱き寄せる。
他に知りえぬ互いの孤独は
散りながら溶けていく雪のように
ハラハラとこぼれ落ちた。
暫くわからない感情が私には纏わりついた。
そしてもう一度観てこうおもった。
舞台のセリフは淡々とながれシンクロし作品の伴奏のような役割をしていく。
そして旋律には家福とみさきがたどってきた二つの人生が絡み、それぞれが背負っていた闇を少しずつ払いながら出会いの意味をみせる。
ドライブ・マイ・カー…
自分の人生の舵は自分がにぎる。
いろいろなことが押し寄せる毎日。
誰に出会い、何を考えるかで
道はかわる。
出会いがなければ?
考え、伝えなければ?
そしてふと…
すべては映画祭の主催者ユンスが出した家福への助け舟が始まりだったのではないかと思ったのだ。
娘と妻の死後、先に進めない家福を知り、同じくどこか心に闇を持つタクシードライバーみさきをあえて引きあわせたユンス。
妻ユナには聴覚障害があり、夫妻は流産という失意も経験している。
二人を自宅の食事に招いたのは、それまでの家福やみさきになかったもの、つまりハンデをこえ温かく飾らず実直に向き合う夫婦の姿が彼らを動かす糧になると信じ再生へのきっかけにして欲しかったからではないだろうか。
またオーディションの時、本読みや立ち稽古の時、再起して渾身の演技中に舞台袖にはける時、家福を見守るユンスがいつも変化を探して待つ顔にみえてならないのは偶然とおもえない所以である。
劇中劇。家福は舞台にいる。
ワーニャ伯父さん役の家福の背後にユナが姪のソーニャ役として立つ。
家福の視線でみる美しい手話。
それは説得力に満ち溢れた
役柄を通じて送るユナからの魂が宿ったエール。
家福にも、観客席にいるみさきにも音のないこだまとなって鳴り響いたことは間違いない。
ラストシーンに
韓国のスーパーで日用品を買い出しするみさきがいる。
あの頃よりふわりと軽くリラックスした面持ちだ。
新天地での暮らしを意味するナンバプレートをつけた赤いサーブにはユンスの家にいたような大きな犬が待っていて、みさきに懐いてる。
詳しい説明はほかに無い。
しかし、いまの生活の中にある穏やかさ、人との絆や信頼関係を垣間見ることができる。
向かう先のまっすぐな道は明るく
ひろがる空は爽やかで開放的だ。
セリフもないその余韻。
その横に
視聴者はマイカーを走らせるのだ。
安堵の風をさらりと纏うサーブが
傍を抜けていくのを感じながら。
それにしても
岡田さん、三浦さん…
すごかったですね。
脱字追加済み
他に知り得ぬ互いの孤独は深すぎると不幸ですね。
人生の舵は自分で握るという本作の命題が題名と韻をふんでるのに改めて気付きました。車の運転のシーンが多いことではなく‥
音の心情の表現もですがレビュー考察が深いのがいつも凄いと思います。
先程のコメント、?????
失礼ながら、何勘違いされているのでは?何め間違ってられません
、と思いますが。
『ベイビーブローカー』のレビューも拝読させていただきましたが、自分の記憶が不確かで、再度観てまた再読させていただきたいと思います。
ベイビーは⭐️5で、
ドライブは⭐️4.5なのですね。
フ〜ム、その違いもまた検証させていただきたいと思います。
一読はさせていただきましたが、
はぁ〜、これぐらいわからないと、本作、理解できないなぁ、と
理解できない自分がよくわかった次第です。
また再読させていただきたい、と思います😊
さすがのhumさん、ですね。
鏡のところ、そうかもしれませんね。入って直ぐわかる、のですから。
きりんさん
うわさ話に笑っていただき
ありがとうございます😃
押し寄せる新解釈!は観るタイミングでフルトッピングのパスタになったりネギも浮かばぬ素うどんになったりするかもですね〜。
結婚は稽古、結婚は舞台。
それぞれ責任ある自分の人生を生き切って…。のことばが胸にどーんときてます。沢山のお言葉いただきありがとうございました。
↑ 音についてのうわさ話、可笑しくって。
彼女がもし生き残っていたら・・物語はその後混乱を極めたでしょうね(笑)
共感ありがとうございました。
まったく奥深く厚みのある映画でした。
humさんの凄いオリジナリティ溢れるレビューも、この作品の多層性が生み出させるものなのでしょう、僕には思いもつかなかった感覚で、読みながら押し寄せる新解釈に驚き圧倒されました。
僕はレビュー本文にも書いたのですが、この映画をもっと冷ややかに突き放して捉えました。
高槻が“メッセンジャー然”として家福に語ったりする不貞の妻=音の、言葉や声や体臭について、その高槻と音の有り様がどうしようもなく耐えがたく僕は虫酸が走りました。
聞くべきものは無い。内容も無い。
家福もそう思っていいはずなのだと。
よって、
帰郷を経てきっぱりと毒親と訣別し得たみさきと、
みさきと共に迷いから吹っ切れて、亡き妻を高槻もろとも忘却の彼方に棄て去ってあるべき自分を取り戻した家福と。
自己回復の物語と観ました。
早世した娘も妻も、命の長短はあるけれどそれぞれ責任ある自分の人生を生き切って成仏です。
家福は彼女たちを引きずらないでいい。
禁煙車のサーブで線香の供養の火のようにタバコを吸い、恐らく妻のカセットテープはゴミ箱に放り込み、再び己を人生の主演者として舞台に戻らせた家福だからです。
僕自身に引き付け過ぎかな?
「ドライブ・マイ・カー」、
皆さんのレビューが本当に面白いです。
語りつがれる名画の誕生だと思います。
長文失礼しました、ありがとうございました。
こんばんは。
共感、有難うございます。
この作品は私も非常に好きなのですが、humさんのレビューは詩的で、且つ映画の映像を思い出させてくれつつ、そんな見方もあったのか!と教えてくれるレビューですね。素敵です。では。
音からメッセンジャーとして託された高槻。メッセンジャーとしての高槻の資質(誠実さとは微妙に違うけれど、ある種の真摯さは間違いなくありますよね?)を見抜いたみさき。
という解釈で合ってますか?
そのような視点、構図は思いもしませんでした。切り口が鋭いですね。
長いけど、また見たくなりました。
talismanさん
高槻が物語の続きを語るシーンで
…監視カメラがつき、植木鉢の下の鍵もなかった…
と言う部分なんですが、
物語をつくってるのは音だったので、音目線の考察をしてみたんです。
ちょっとこのあたり、妄想がかけ足になりまして正確さに欠けた書き方で混乱させましたよね。すみませんー。
岡田さんと三浦さん、素晴らしかったです。それからレビューにお書きになっていた「植木鉢に鍵はもうない」、これはすっかり忘れていましたが映画の中で言及されていましたっけ?
実は家の鍵というものを初めて紛失して、家中探し回る日々が続き疲弊してたのでとても胸に刺さりました。家族の鍵はあるし盗まれた訳でもないので泥棒に入られることはない、のですがこんなに動揺するとは思いもしませんでした。私事を失礼しました。