「あらすじとテーマ」ドライブ・マイ・カー あふれイど-f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
あらすじとテーマ
【要約】妻を失った役者が、専属運転手との交流を通じ、再び舞台に立つまでを描く。
【あらすじ】舞台演出家である主人公には、テレビ脚本家の妻がいました。
二人はかつて幼い娘を亡くしたものの、深く愛し合っていました。
しかし実は、妻は主人公がいないところで他の男と何人も寝ていました。
主人公はそのことを知っていながらも、夫婦関係が壊れることを恐れ、話題にしませんでした。
主人公と妻とのあいだに性交渉はあり、お互い満足できるものでした。
お互いの仕事にも関心を持ち合っており、毎日共同作業もしていました。
ある日の朝、主人公に向かって「今夜話がしたい」と妻が切り出します。
主人公は覚悟の上で了承したものの、仕事から帰宅した時、妻は急病によって倒れていました。
彼女はそのまま帰らぬ人となります。
主人公のライフワークは、チェーホフの小説『ワーニャ伯父さん』の舞台化でした。
彼は演出を手がけるだけではなく、自ら舞台に立ち、重要な役を演じていました。
しかし妻の死後、彼は舞台に立つことができなくなります。
その理由は「チェーホフのテキストは感情を引き出すから」。
感情に蓋をしてしまった彼は、舞台に立とうとすると自らの感情が飛び出てしまいそうになり、耐えられないのだといいます。
それ以来もっぱら、彼は演出のみを手がけていました。
しかしある日、舞台に出演予定だった俳優の一人が、不祥事によって出演をキャンセルすることになります。
そのため、主人公は「公演そのものを中止するか」「自らが再び舞台に立つか」の2択を迫られます。
舞台に立つには辛すぎるが、大切な公演を中止したくないーしかもここまで時間をかけて準備してきた
公演をー。
葛藤する主人公は、公演期間中の専属ドライバーに頼ります。
彼女は虐待されて育ちました。
無表情で感情の無いような、淡々とした女性でした。
その彼女に頼んだのは、「彼女の故郷に連れて行ってくれ」ということ。
彼女の故郷には、土砂災害で崩壊した彼女の実家がありました。
災害が発生したとき、彼女は屋内に取り残された母親を見捨てたのです。
「自分がもっと早く帰宅していれば、妻が倒れているところをもっと早く発見できていた」ー。
妻を見殺しにしたという罪悪感から、母親を見捨てた彼女に自らを重ね合わせます。
彼女は母親に虐待されていましたが、必ずしも母親を完全に憎んでいたわけでわありませんでした。
また彼女は、解離性同一障害のうたがいのあった母親の二面性を、決して「裏表」だとは捉えていませんでした。どちらも真実であると。
そう諭された主人公は、妻の「浮気」を、「嘘」「秘密」「隠し事」だと見る考え方の見直しを迫られます。
彼を愛する妻も、他の男との愛を求める妻も、本当の姿だと。
ここにきて「嘘」と「本当」の境界をなくした主人公は、自らの本当の気持ちに気づかされます。
本当は怒っていたのに、妻に責められなかったと。
自分は正しく傷つくべきだったと。平静を装っていたと。
傷つくべきだったのに傷ついていないフリをしたことが、自分の感情に蓋をすることだったのだと。
そう気づいた主人公は、まだ喪失の重みに深く傷つきながらも、舞台に立ち、再び重要な演技を行うのでした。
舞台のラストには、「つらくても生きていくのだ」と、希望に満ちたメッセージが込められています。
【解説】
劇中に登場するドライバーは、主人公の「ミラー」です。
ドライバーを客観的に眺め、彼女の境遇を自らと同一視し、自らに重ね合わせることで、主人公は自らを見つめなおすのです。
表面的には、感情のない「能面」のようなドライバーですが、過去に傷ついた記憶を抱えており、この「仮面」と「内面」の二面性が主人公との共通点でもあります。
【テーマ】仮面と真実
舞台こそ感情の表出の場である。舞台とは、「演技」をする場所だと思われがちだが、舞台こそ、真の感情を表出する場所である。
私生活上の経験が、真に「載る」場所だ。
それゆえ、「仮面」であると思われがちな舞台こそ、「真実」であると言える。
引いては、「嘘」であると思われがちな物語、虚構であるが、まさに「真実」であるとも言える。
それでは、この物語が引き出すあなたの「真実」ーまことの感情とはなんであろうか。
この物語は、どのような人生を送っている人に響く作品であるか?
誰のために、書かれ、撮影された映画であるか?
【鑑賞直後の感想】
虚構の物語に、現実生活が肉を持って載る時。
始まりはとっつきにくい映画(物語)でしたが、主人公がなぜ自分では主役を演じられないのか、どうして役を受けるのか、という疑問点をつかみにして、主人公の私生活事情を載せてやると、虚構と現実、あるいは「物語とは」みたいなテーマが浮かび上がってくると思います。
会話場面が多く、映像的な真新しさはありませんでしたが、クリアな映像、丁寧な音響がよかったと思います。(悪く言えば日本のドラマらしい感)むだな音楽がなく、静寂を大事にしていたのもよかったですね。配役は素晴らしかった。
舞台と私生活、ということで『バードマン』(イニャリトゥ)との比較で語りたい作品です。
『バードマン』の劇中に登場する『愛について語るとき我々の語ること』の日本語訳を手掛けたのが、村上春樹です。