「運転の女」ドライブ・マイ・カー かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
運転の女
少し説明が多すぎるんじゃないかと思いながらずっと見ていてのだか、他者とのコミュニケーションをテーマにした本作は、聴覚や視覚障害者向けのバリアフリー版が別途あるらしい。環境意識への高まりとともに、ダイバーシティ等への配慮のあるなしがマーケットにも直接影響を及ぼすようになってきた社会の風潮を、ちゃんと察知した上での演出だろう。読解力不足が指摘される若者にも優しい本作を監督した期待の若手ホープ濱口竜介の、バランス感覚の良さにも注目したい1本である。
映画中盤、韓国人主宰の演劇祭におよばれした舞台俳優兼演出家の家福(西島秀俊)が開催地の“広島”へとむかうシーンをバックに、初めて映画タイトルが表示される濱口お得意の演出。おそらくここまでが村上春樹の原作に忠実なパートで、以降は濱口監督オリジナルの創作ではないのだろうか。何せその原作短編を読んだことがないのではっきりしたことは言えないのだか、どうもハルキムラカミにリスペクトを捧げたのはここまでだよ、と言っているような気がするのである。
が、説明が多い割には何を言いたいのかがわかりにくい。なぜなら、言葉による他者とのコミュニケーションの難しさを、その言葉=テキストによって説明しようとしているからである。いわば観客ー役者ー演出家(映画監督)の間に横たわる見えない壁(バリア)をフリーにしようと試みた作品なのだろうが、「いまAとBの間に変化が起きた。それが観客に開かれているかどうかはわからない」家福の台詞中の、その“変化”がどんなものかが、映像からはうまく伝わってこないのである。
直近の作品中で、我々観客の映画理解力をゾンビやチンパンジー並みと評価を下しているジャームッシュやカラックスならば、嘆く以前にここですっぱり諦めていたのかもしれない。しかし、濱口竜介はけっして諦めない。尺が3時間近くになろうが、予算をかなりオーバーしようが、役者から濃厚なベッドシーンにNGを出されようがへこたれない。何とかして観客に自分の言いたいことを伝えようと奮闘努力するのである。芸術家としての真摯な姿勢を貫き通す監督なのである。
そのために家福(濱口)がとった(小津やカウリスマキを想わせる)演出方法が、本当の自分を引き出す力があるというチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の棒本読み、外国人、唖者の女優など日本語が話せない&通じない役者のキャスティング、なのである。自分の代わりにワーニャ役に抜てきした音の浮気相手でもある高槻(岡田将生)たちに対し、家福いわく“(チェーホフの)テキストを役者の身体に潜り込ませる作業“を行うのである。役と役者本人の内面との“切り離し作業”と言い換えてもいいだろう。
しかし、車の中で亡き妻音(霧島れいか)との棒読み合わせ=“音”と感情の切り離し作業を無意識のうちに行っていた家福に、ここで思わぬ副反応が生じるのである。幼い娘の死を自分の責任であると思い込み、複数の男を自宅マンションに連れ込んで自傷的な浮気行為を繰り返していた音。そんな妻の傷んだ姿を見て見ぬふりをしていた罪の意識が、家福の思惑とは裏腹に心の中でドンドンと肥大化していくのである。チェーホフのテキストによって本当の自分=魂が表出してしまうのである。
家福に自分を空っぽな人間だと語った高槻は、(ワーニャ役の稽古をすることによって)SEXと暴力という肉体的コミュニケーションしかはかれない自らの内面をさらけだす。他人と話す時は全くのポーカーフェイスで、言葉を話すことができない🐕️の前でしか内面の感情を表現できなかったドライバーのみさき(三浦秀子)もまた、『ワーニャ伯父さん』の稽古を見学したことによって、家福に亡き母親との確執を語り出すのである。
ある事情によって再びワーニャを演じなければならなくなった家福は、稽古を一時中断、生きていれば死んだ娘と同い年のみさき、そして妻の思い出が刻まれた“(クモ)真っ赤”なSAABとともに、自らの心の奥深くに眠っている“原罪”を見つけに、みさきの自家跡へ、魂の源流へと遡る再生の旅に出かけるのである。「どこかへ連れてってくれ」新藤兼人が脚本担当なら間違いなく原爆ドームに連れて行ったと思われるそのトリップはまた、“ヒロシマ”という過去のトラウマから目をそむけ続けてきた日本人の“原罪”を再認識させる旅だったのかもしれない。