「世の「忙しい」男性に見てほしい映画」ドライブ・マイ・カー 気づいたら寝てたさんの映画レビュー(感想・評価)
世の「忙しい」男性に見てほしい映画
なぜドライブマイカーが響くのか?それは家福の現実をすり抜ける様子が、自分自身と重なるから。彼は一見、現実をありのままに受け入れているかのように見える。ただ実は、「受け止め」ているわけではなく、受け止めることを恐れ、すり抜け、受け流していることが伝わってくる(批判的な表現ではなく、「すり抜け」るしかない様子が共感的に示される)。さらに、この物語で象徴的なのが、事実や物理的な事象と同じように、テキスト(虚構の現実や感情)をそのままに受け止めることの大切さだ。その後にしか本物の演技(演技と言えるかは?)ができないと。「テキストに飲み込まれる」と彼は言った。現実を受け止めきれず、すり抜けている彼だから、防御本能的にワーニャを演じられないと感じたのだろう。テキストをそのままに受け止めた後に表現されるモノは、言語や手話の壁を越えて、現実として表現されるモノになる(それはジャニスとユナの芝居で示された)。家福が演劇で表現したいものはそういうことなのだろう。家福も、それはわかってはいたが、できなかったからワーニャを演じされなかった。
高槻が言っていたのも一方で事実。「自分と徹底的に向き合うことでしか他人が見えてこない」と。高槻は、家福と同じように現実を受け止められない男性として描かれている。向き合っても空っぽ、暴力性、衝動的。社会一般の男性性の、家福とは違う側面での表象だと思われる。(悲しいのは、高槻と家福の会話は常に同じ地平に無いことだ。男性同士での会話の救いにならなさを感じてしまう。)
音の話の中で、空き巣は左目を刺される。空き巣は家福だ。主人公の女子高生は音だ。だから、最後に防犯カメラ(これも大きな隠喩)の前で「私が殺した」と叫ぶことで救われようとしている。しかも、家福にはヤツメウナギが「高貴」にも、石(日々の現実)にへばりついて死んでいくことまでしか話していない。娘の死というあまりに重い現実を、二人ですり抜けていることを自覚しているからだろう。(ただ、そのような重い現実をすり抜けることの是非は私にはわからない。一方で、「生きていく」ことの大切さもこの物語で通底している。受け止めることが困難なほど大きな現実を、受け止め、立ち向かうことばかりが正であるとは思えない。)
最後にみさきの故郷に旅する二人は、それぞれの過去の自分と向き合い、それを分かち合う。この物語を通して唯一、救われる方法として、このプロセスが描かれているように感じる。
少なくとも、家福の「すり抜け」るような現実の受け止め方は、現実の重さの軽重はあれど、私は実感する。現実やテキスト(他者にとっての事実)を、「そのまま」に受け止め、救われる(または、向き合う)ことの大切さを身にしみて感じる。
多くの「忙しい」男性に見てほしい。