「“確信”の危うさは現代の偏向SNSにも通じる」私は確信する 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
“確信”の危うさは現代の偏向SNSにも通じる
本作については当サイトの評論・批評枠に寄稿したので、その補完的な論点をこちらに書いてみたい(あわせて読んでくださるとなおありがたい)。
まず原題「Une intime conviction」は、英語では「(an) intimate conviction」、直訳すると「内なる確信」となるが、日本の法律用語では「心証」に該当し、裁判官や陪審員が審理においてその心中に得る確信を指す。私も含めフランスの司法に明るくない人なら、心証が優先される裁判を相当異常に感じるはずだ。遺体という物証もなければ、殺人の目撃証言も自白もない(つまりスザンヌはどこかで生きている可能性もある)のに、殺人罪で起訴され、陪審員の心証が一定数あれば有罪になるのだから。
ただし、この心証優先主義は、かつて強要された自白が判決に影響し冤罪を数多く生んだことの反省から、現行のように改められたそうで、いまだ発展途上という気もするし、「怪しい、疑わしい」というだけで司法・マスコミ・世論が“犯人”を決めつける悲劇はどこの国でも起こりうる。さらに言えば、SNS上の不確かな情報だけで誰かを攻撃したりデマを拡散したりするのも、自分の判断は正しい、自分がやっていることは正しいという独りよがりの正義感が行動原理という点で同根の問題なのだろう。
事件と裁判の主要関係者を実名のまま俳優に演じさせて裁判の経緯を再現しているが、アントワーヌ・ランボー監督は唯一創作したノラのキャラクター設定で印象操作を行ったと思う。評論枠で書いたように、ノラのモデルになったのは、法学部の学生だった頃にジャックと出会い、スザンヌの失踪後に彼と同棲するようになった若い女性。もし映画のノラがより現実に即して、もっと若い20代くらいの女優によって演じられ、単なる善意のボランティアでなく、被告人と恋愛関係にある(さらに言えば利害関係もある)という設定だったら、観客の印象もかなり変わったのではないか。さらに言えば、ヴィギエ夫妻の家庭内別居の発端は、ジャックが学生と度々浮気したことだったという。こうしたジャック側の不都合な真実を劇映画化にあたって見せなかったことで、妻の愛人オリヴィエの印象は相対的に悪くなった。
控訴審弁護人デュポン=モレッティが終盤で推定無罪の原則を説く弁論は確かに感動的なのだが、「ジャックの冤罪が晴れて良かった!」と喜びつつ、「どうみたって真犯人はオリヴィエだ!奴を訴えろ!」と思ったならば、危うい正義感で突っ走ったノラと変わらない。
「私は確信する」という邦題は、一見恰好良さげだが、確信を抱くことの危うさという含みもあって、よく考えると怖いタイトルだ。