無聲 The Silent Forestのレビュー・感想・評価
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胸一杯のリスペクトを贈りたい台湾映画の傑作
10月31日の日中に新宿武蔵野館で公開初日の『ひとつの机、ふたつの制服』を観て、主演の陳妍霏(チェン・イェンフェイ)にノックアウトされてしまったので、帰宅してから彼女の代表作であるこの『無聲 The Silent Forest』をアマプラで視聴した。
驚くべき傑作だった。
2020年、陳がまだ20歳の頃の作品だが、日本公開は2022年1月だったらしい。まったくノーマークだった。
『無聲』の主役は「台湾の柳楽優弥」みたいに見える俳優であるが(私見です。もちろんこの俳優もとても良い)、陳は重要なバイプレイヤーであり、彼女はこの作品の演技で台湾国内およびアジア圏の有力な賞を軒並み受賞している。
日本語のWikipediaはページが存在しないが「陳妍霏」で繁体字中国語ページがあるので右クリックで日本語訳が読める。
作品の出来として何よりも感服したのは、実際に台南の国立ろう学校で起きていた127件もの性被害事件を正面から取り上げて映画化していること、特に声をあげにくい、あげても軽視されがちな障がい者への加害について過不足なく取り上げていること、性被害者が「自分が我慢すればよい」と沈黙することもあること、そして性加害者は同時に性被害者であることも少なくないこと、つまり性暴力が連鎖していくことをエンディングにまで敷衍していることだ。
加えてジャニー事件を想起させる胸糞悪いプロットもある。
そして事件と犯人を隠蔽する学校と職員たち、「恥」を晒したくないという保護者。
一人だけ生徒を助けようと奔走する教師。
台湾という割合と小さな国のこぢんまりした社会で、これだけ腹を据えて性加害問題から目を逸らさずに向き合った制作陣に、心から拍手を贈りたい。
その描き方、映画としてのクォリティも極めて高いと思う。
これに匹敵するアジア映画(日本を含む)は一体あるだろうか?
にも拘らず、日本公開時にあまり話題になっていなかったのは、なぜか。
魂の殺人をどう描くか。
性暴力は「魂の殺人」と呼ばれているが、その言葉の意味がわかり、被害者が加害者に転じる経緯もわかるラストシーンになっている。
わかるのだけれど「う〜ん」と思ってしまった。
ろう者であるが故に声をあげることがより難しく、聴者の無理解や不適切な対応に晒され続けた結果、苦しくてもろう学校のコミュニティから離れられない子どもたち…。
その状況は伝わってくる。
だが、その子どもたちの中で127件もの性暴力事案が発生する事態になってしまったのは、校長が事なかれ主義で、周囲の教師や介助員たちが間抜けだったからなのか?
実際の事件の真相は知らない。もしかしたら、映画通りの校長や教師たちだったのかもしれない。けれど、周囲の大人の描き方や子どもたち同士の力関係の描き方がステレオタイプ過ぎて、子どもたちの性への興味関心がもたらす加害性や、性暴力を受けた子どもたちの葛藤や苦しみも記号化されて見えてしまうのだ。
どうしてこの監督はこの映画を撮りたいと思ったのだろう。そして、八仙人に何を託しているのだろう。読み取れない私の問題なのかもしれないが、何か中途半端な気がして、モヤモヤしてしまう。
<追記>
モヤモヤの理由を考える内に、一つわかってきたのが、この映画の中では、被害者に対するケアが一切描かれていないこと。
事件が起きても、次の場面では「もう終わったこと」になってしまっている感じがずっと続く。
もちろん被害者の心の中では終わってないということは描かれているが、それだけなのだ。
ラストシーンの主人公2人が笑って遊んでいる背後で、暗い目を向ける少年はどうして放っておかれたままなのか。
ストーリーの途中で、「ずっと昔からあったのに、今頃何を言っているんだ」と怒りをぶつけていた彼が、全くケアされずに加害者側に回るのが本当にいたたまれない。
観ないほうがよいかも
同級生によるレイプ、教師によるレイプ及び聾唖者の問題が複雑に絡み合った問題作。
ただ、観て良かったという感覚はなく、同じくいじめ問題を扱った「少年の君」と違い、後味もあまり良くない。
苦しみの根源を辿れど、どこまでも辿り着くことは無く
多くの問いを含んだ映像だった。
ジャニー喜多川氏による性被害の声がやっと取り上げられつつある今。
あまりに苦しい描写が幾たびも幾たびも重なるが、自分と遠い出来事とは思えなかった。
聴者の世界から弾き出された、ろうの小さな世界で。
閉鎖的空間、密接すぎる人間関係で繰り返される性被害。
窮屈な学校という世界で、いじめや人が替わりながら続く嫌がらせを間近にみてきた私も、この物語の中の一人でもあった。
嫌なことをされながらも続く人間関係、正義感で止めることのできない鬱屈さ。
女子生徒がクラスメイトたちに性暴力を受けるシーンは強くショッキングだった。
人気のない夜道でもなく、暗い倉庫でもない、明るい朝の通学バスの中、多くの人がいる中で。
加えて、繰り返し性暴力を受けている生徒が、先生に対して性暴力を否定し遊んでいただけと加害生徒らをかばうシーンでは、家庭内暴力の被害にあっている子どもが虐待をする親をかばうかのような、被害ー加害関係として単純化できない複雑な状況に、胸が引き裂かれる。
そして、次々に何年間も繰り返して性暴力を受けていた生徒が明らかになっていく。
ここでは女子生徒へ加害した男子生徒も、先輩から性被害を受けていた被害者であることも明らかとなる。
この映像の根幹の問いの一つに、女性が性暴力を受けることと、男性が性暴力を受けること、この2つに重さの違いがあるだろうか?という投げかけがあった。
女子生徒は性暴力が防げずに、自らの妊娠機能を奪うために闇医者に手術を受けに行くシーンがある。
女性にとっての性暴力のおそろしさの中でも、妊娠する可能性は大きな要素となっている。
しかし、妊娠しなければ性暴力の罪は軽いものとなるのか?
そして私が最も絶望的だったのは、性暴力を知った教師や校長らが問題を放置したことだった。
性暴力に遭ったことを告げても、被害者が嫌と伝えたかと問われることになったり、学校の評判のために対応されずに放置されたり。
苦しんでいる人が助けを求めた時、放置されることが、どれほど絶望するか。
放置することの底知れぬおそろしさ。
性被害の連鎖は、辿れど辿れど、どこまでも続くばかり。
正義感によって、女子生徒を助けるため男子生徒に加害した主人公の見ている世界と、主人公に加害された男子生徒の見ている世界にある、深い溝に震える。
ろう者と聴者、救いの手が差し伸べられた人とそうでない人、当事者と管理者。
「女性だから」「教師だから」「コミュニケーションが円滑だから」と何気なく分断、排除されること。
ラストシーンでは、正義感を持ってある人を救ったはずが、再び繰り返されていく連鎖。
そして、映像を見た人に受け渡されたこの事態を、私はどう受け取るのか。
この子はこれからどうすれば…
普通学校から聾学校に転校してきた主人公が、気になる女の子が通学バスの中で性暴力を受けているのに気づく。助けようとするが被害者の女子生徒は加害者の生徒も友達だから何もしないで欲しいと頼む。また学校側も大事にしたくないという態度で、主人公は理解ある若い教師に相談し、校長先生と本格的な聞き取り調査をすると、被害者が次々と現れ、主犯格の生徒が明らかになる。学校は調査結果を公表し、撲滅すると宣言する。
先生に転校を勧められた女子生徒は、幼稚園からこの聾学校におり、外の学校に行くの嫌だ、虐められるより孤独の方が怖い、と言う。
卒業式で校長先生が優秀な退職教員を紹介しながら、特別学校の運営は大変だと言う。
いつも不敵な笑みを浮かべている主犯格の生徒にメールが来て、様子が変わる。ある日主人公が体育倉庫に連れて行かれ、主犯格の生徒に、彼女に二度と乱暴されたくなかったら、羽交締めにされている下級生に性的嫌がらせをしろと脅され、仕方なく受け入れる。その動画が流出し、彼も母親に転校しなければと言われるが、彼にとってもやはり普通学校よりこの学校の方が良いのだった。
約束した筈なのに、彼女がまたレイプされたのを知り、主人公は主犯格をボコボコにする。ケガで入院した彼を見舞った教師は、彼が自傷行為をしていることを知る。
その病室にある人物が現れる。
主人公は同級生に呼ばれ、あるビデオを見せられる。それは10年以上前からの美術室前の監視カメラで、卒業式で退職時に表彰されていた美術教師がまだ幼い主犯格を頻繁に連れ込んでいるビデオだった。同級生は学校にビデオを削除するように言われたという。
若い教師は主人公にそのビデオを見せられ、主犯格の生徒に会いに病院へ行く。屋上にいた彼は全てを打ち明け、美術教師が憎い、なのに卒業式で彼を見て嬉しさを感じた、憎くて堪らないのに病室に来た彼を自分から触ってしまった、僕は変態なのか?と苦しみを告白する。
通学バス車内ではまた生徒たちが大騒ぎしており、主人公も仲間に加わる。しかしかつて女子生徒が性暴力を受けていた一番後ろの席には、主人公が彼女を助けるために性暴力を与えた下級生が怒りを湛えた目で騒ぐ主人公達を見つめ、1つ前の席で眠っている生徒に何かをしかけようとするのだった。
唖者なので助けてと叫べないし、周囲も聾者なので聞こえない。映画の4分の3は聾者ならではの苦しみであったが、小児性愛がいかに罪深いことかという問題でもあった。
若い教師が美術教師を普通に退職させただけの校長を責めた時、校長は「学校運営の大変さを理解していない」と言い、ますます怒りを覚える。しかし特別学校が閉鎖になると生徒達も困るため、何がなんでも守らなくてはならないのは事実。やっぱり国や自治体の体制も問題なのだ。
個人の正義が試される
2022年劇場鑑賞17本目 優秀作 72点
テーマと絵の感じ、評価の高さから期待し、黄金町の上映終了ギリギリの鑑賞。
2時間未満にしてよくできた作品だと思った。
最初は性暴力の主犯の動機が薄いなあと思っていたけど、中盤から後半にかけて今作のテーマである性暴力からは遠のいていき、学校での経営や教育問題に踏み込み、まあ着地点としては安パイだけどそれで良かったです。
この年頃かつずっと同じ周りの子たちと育ってきたら、仲間はずれを怖がるのも大いに頷ける。
真摯に向き合ってくれた先生が本当に情熱的で、昨今の教育現場で少なくなって来ている彼に救われた映画でもあった。
もう関東では見れないので、配信されたら是非観てもらいたいです。
是非。
あまりに苦しすぎる衝撃
あまりにもショッキングで根の深い問題、実際にあったことに衝撃が大きすぎる。
性暴力の被害に遭ってもそこにしか居場所がないから…
それほど聾唖者への偏見、差別が強く、支援の体制がうまく行ってないのか…辛くなる。
辛い目にあった時、逃げてもよいと安易に言ってしまいがちだが、必ずしも正しいとは限らない。思い知らされた。
問題は生徒より、向き合う大人たち、健聴の人にある。善い人ぶって結局面倒を避けているだけ、そのしわ寄せが子供たちに…
後半明らかになる事実にどうすれば良いんだよと絶句した。
唯一、真摯に向き合ってくれたワン先生が今作の良心。彼がいなければ、観ているこっちもかなりのトラウマになっただろう。
希望のあるラストかと思いきや、問題は終わっていない…
かなり辛い気持ちになる映画だったが、目を背けてはいけない。
【無言の場所で長年行われていた事が惹き起こして行く哀しくも恐ろしき行為。隠蔽体質が負の連鎖を引き起こす事実を描いた陰鬱な作品。】
ー 冒頭、テロップで”今作は事実を元にしているが、出演者の名前などは架空のモノである。”と言う趣旨のテロップが流れる。
そして、映画を観ながら、その言葉に納得する。>
◆感想 <Caution! 内容に触れています。>
・台湾の聾学校で長年行われていた、美術教師による小学生だった生徒への忌まわしき行為は、その生徒の心を傷つけつつも、彼も又成長する中で、周囲にとってはモンスターの様な存在になっていく。
正に負の連鎖である。
・普通学校からその聾学校に転入してきたチャンは、バスの車中でベイベイと言う女の子が、性暴力を受けているのに周囲が無関心な事に驚く。
そして、徐々に何故に周囲の少年少女たちが無関心である理由が明かされていく。
この過程が、実に恐ろしい。
被害者が、加害者になって行く負の連鎖。
・全ての行為のきっかけになっていたユングアンは前半は、完全なる悪として描かれているが、中盤彼の行為の理由が分かるシーンは悲しい。
- 彼が、自らの身体を傷つけ、入院していた時に唯一正義感により事実究明するワン先生に言った言葉。
”入院している時に、美術の先生が来たんです。僕は、憎まなければいけないのに、アイツに抱き着いてしまったんです。僕は、変態なんです・・。”-
・生徒より、学校運営を重視する手話のできない女性校長が、長年隠蔽してきた事。
チャンが唯一頼るワン先生は愚かしき校長を詰問するが・・。
<無言の世界で行われていた恐ろしき行為を、皆が通常だと思うようになってしまう恐ろしさ。その事実を隠蔽する校長始め、学校側の人間。
実に嫌な気分で、観賞した作品であった。
見て見ぬ振りは駄目だ。隠蔽も駄目だ。
誰かが勇気を持って声を上げなければ、ならないのである。
それにしても、ユングアン少年の言葉は、人間の性に対する複雑さを感じてしまった。>
<2022年3月5日 刈谷日劇にて鑑賞>
性暴力事件を題材に深刻な社会問題を提起した衝撃作!
【あなたは声を持っていますか?】
しゃべることが出来るはずの僕たちでも、どんな理由があるにしろ、見ないふりをしたり、見過ごしたりして、声を上げなければ、声が無いのと同じではないのか。
そんな示唆も含んだ佳作だと思う。
そして、声を上げることが出来ないようにするために、最も効果的なのは、”罪を共有”させることなのだと改めて感じる。
この作品は、台湾の聾唖学校で実際に起こった事件をベースに制作されたものだが、この事件がおぞましいというだけにとどまらず、これは僕たちの社会の縮図とも言えるのではないかと強く感じる。
先般報じられた埼玉県川口市の学校ぐるみのイジメの隠ぺいも思い出すし、過去にニュースで取り上げられた生徒が自死を選択してしまったイジメを認めようとしない学校や関係者も似たようなもんだと思う。
そして、こんな○○ぐるみの話は、子供のケースだけではないだろう。
某大手広告代理店のイジメとも思える過剰労働を苦にした女性社員の自死や、近畿財務局の亡くなられた赤木さんのケース、政府ぐるみで隠ぺいしようとした公文書破棄、桜を見る会のトカゲのしっぽ切りだって○○ぐるみという点では同じだ。
この作品のエンディングの示すところは暗澹たる未来なのかもしれない。
ずっと受け継がれて、罪を共有して、繰り返される悲劇や犯罪。
最後の場面、終わってなんかいないと言いたいのだ。
だから声を上げよと言っているのだ。
世界のあちこちにある悲劇。
映画で取り上げた事件だけにフォーカスしてあれこれ考えるだけで済ませるようなものではないと思う。
あなたは声を持ってますか?
※ 台湾の若手俳優の熱演がすばらしいです‼️
閉鎖的なコミュニティの負の連鎖。
ことなかれ主義が子どもの心を殺す
性暴力・性虐待を扱った物語にハッピーエンドなんて待っていない。明るい未来を示唆していても、辛さと切なさは残ってしまう。
しかも本作はろう学校で実際に起きた事件を題材にした映画。聴覚障害者への性虐待という複雑な構図を持った物語だ。
実際の事件でもバスの中での暴行があったのかわからない。そんなことありえるのか?と思いながら観ていたが、聴覚障害者という点を考えるとたしかにありえるかもと思えてきた。無邪気に笑いながらバスで行われる非道な暴力。とても怖いシーンだった。
なんでこんなことが起きたのかを解明する過程で、この学校しか行く場がないと考える少年少女たちの苦しみがちゃんと伝わる作りになっているのがいい。ことなかれ主義の大人が子どもたちの心を殺すということか。しかもちゃんと虐待の連鎖も描いていることも驚いた。中国映画と違い、こうした虐待をなくすために党はこんな対応をとりました!みたいな宣伝はないし、複雑な気持ちにさせる終わり方もいい。ただ、観る側にパワーが必要。これから観るなら落ち込んでいないときにした方がいい。
バチカンにも通ずる小児性愛問題。
耳の聴こえない子供たちは、人を呼ぶとき、目の前で上下に手を振る。
すべての日常は、耳の聴こえる者とは違うものとなる。
閉鎖された密室では、不正が温存される。この映画は、近親相姦や教会での小児性愛のような犯罪の加害者と被害者の心理をよく描写している。
大人たちは保身にはしり、事実を隠蔽する。
子供たちは助けを求めるが、大人たちは都合よく聞き流し、やがて、子供たちは助けを求めることさえもあきらめ、絶望の中で自らを檻の中に閉じ込めていく。
絶望は恨みへと変わるが、その矛先は、自分と同じように抵抗できないものへと向けられていく。
「なぜ、いやがらない」「なぜ抵抗しない」…、力のない者へ、大人からの容赦のない追求がなされる。
自分の身の安全は捨てがたい。自分を捨て、人の安全を守るのは、英雄であり偉人だ。
この世には、凡人があふれ、自分の安泰のみを願い、昆虫のように群れをなして生きている。
ベイベイは転校しろと祖父に言われても、転校しないと抵抗した。性的に犯されながらも、その学校へ通うという。
外の世界の孤独さよりも、密室の中で自分が我慢して生きた方がいいという、この複雑な心理こそが、この映画の主題と言えるだろう。
映像ははかなくも、美しく撮られている。そして、声はない…。
ぜひ、劇場で声なき声を見届けてほしい。
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