無聲 The Silent Forestのレビュー・感想・評価
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魂の殺人をどう描くか。
性暴力は「魂の殺人」と呼ばれているが、その言葉の意味がわかり、被害者が加害者に転じる経緯もわかるラストシーンになっている。 わかるのだけれど「う〜ん」と思ってしまった。 ろう者であるが故に声をあげることがより難しく、聴者の無理解や不適切な対応に晒され続けた結果、苦しくてもろう学校のコミュニティから離れられない子どもたち…。 その状況は伝わってくる。 だが、その子どもたちの中で127件もの性暴力事案が発生する事態になってしまったのは、校長が事なかれ主義で、周囲の教師や介助員たちが間抜けだったからなのか? 実際の事件の真相は知らない。もしかしたら、映画通りの校長や教師たちだったのかもしれない。けれど、周囲の大人の描き方や子どもたち同士の力関係の描き方がステレオタイプ過ぎて、子どもたちの性への興味関心がもたらす加害性や、性暴力を受けた子どもたちの葛藤や苦しみも記号化されて見えてしまうのだ。 どうしてこの監督はこの映画を撮りたいと思ったのだろう。そして、八仙人に何を託しているのだろう。読み取れない私の問題なのかもしれないが、何か中途半端な気がして、モヤモヤしてしまう。 <追記> モヤモヤの理由を考える内に、一つわかってきたのが、この映画の中では、被害者に対するケアが一切描かれていないこと。 事件が起きても、次の場面では「もう終わったこと」になってしまっている感じがずっと続く。 もちろん被害者の心の中では終わってないということは描かれているが、それだけなのだ。 ラストシーンの主人公2人が笑って遊んでいる背後で、暗い目を向ける少年はどうして放っておかれたままなのか。 ストーリーの途中で、「ずっと昔からあったのに、今頃何を言っているんだ」と怒りをぶつけていた彼が、全くケアされずに加害者側に回るのが本当にいたたまれない。
観ないほうがよいかも
同級生によるレイプ、教師によるレイプ及び聾唖者の問題が複雑に絡み合った問題作。
ただ、観て良かったという感覚はなく、同じくいじめ問題を扱った「少年の君」と違い、後味もあまり良くない。
苦しみの根源を辿れど、どこまでも辿り着くことは無く
多くの問いを含んだ映像だった。
ジャニー喜多川氏による性被害の声がやっと取り上げられつつある今。
あまりに苦しい描写が幾たびも幾たびも重なるが、自分と遠い出来事とは思えなかった。
聴者の世界から弾き出された、ろうの小さな世界で。
閉鎖的空間、密接すぎる人間関係で繰り返される性被害。
窮屈な学校という世界で、いじめや人が替わりながら続く嫌がらせを間近にみてきた私も、この物語の中の一人でもあった。
嫌なことをされながらも続く人間関係、正義感で止めることのできない鬱屈さ。
女子生徒がクラスメイトたちに性暴力を受けるシーンは強くショッキングだった。
人気のない夜道でもなく、暗い倉庫でもない、明るい朝の通学バスの中、多くの人がいる中で。
加えて、繰り返し性暴力を受けている生徒が、先生に対して性暴力を否定し遊んでいただけと加害生徒らをかばうシーンでは、家庭内暴力の被害にあっている子どもが虐待をする親をかばうかのような、被害ー加害関係として単純化できない複雑な状況に、胸が引き裂かれる。
そして、次々に何年間も繰り返して性暴力を受けていた生徒が明らかになっていく。
ここでは女子生徒へ加害した男子生徒も、先輩から性被害を受けていた被害者であることも明らかとなる。
この映像の根幹の問いの一つに、女性が性暴力を受けることと、男性が性暴力を受けること、この2つに重さの違いがあるだろうか?という投げかけがあった。
女子生徒は性暴力が防げずに、自らの妊娠機能を奪うために闇医者に手術を受けに行くシーンがある。
女性にとっての性暴力のおそろしさの中でも、妊娠する可能性は大きな要素となっている。
しかし、妊娠しなければ性暴力の罪は軽いものとなるのか?
そして私が最も絶望的だったのは、性暴力を知った教師や校長らが問題を放置したことだった。
性暴力に遭ったことを告げても、被害者が嫌と伝えたかと問われることになったり、学校の評判のために対応されずに放置されたり。
苦しんでいる人が助けを求めた時、放置されることが、どれほど絶望するか。
放置することの底知れぬおそろしさ。
性被害の連鎖は、辿れど辿れど、どこまでも続くばかり。
正義感によって、女子生徒を助けるため男子生徒に加害した主人公の見ている世界と、主人公に加害された男子生徒の見ている世界にある、深い溝に震える。
ろう者と聴者、救いの手が差し伸べられた人とそうでない人、当事者と管理者。
「女性だから」「教師だから」「コミュニケーションが円滑だから」と何気なく分断、排除されること。
ラストシーンでは、正義感を持ってある人を救ったはずが、再び繰り返されていく連鎖。
そして、映像を見た人に受け渡されたこの事態を、私はどう受け取るのか。
この子はこれからどうすれば…
普通学校から聾学校に転校してきた主人公が、気になる女の子が通学バスの中で性暴力を受けているのに気づく。助けようとするが被害者の女子生徒は加害者の生徒も友達だから何もしないで欲しいと頼む。また学校側も大事にしたくないという態度で、主人公は理解ある若い教師に相談し、校長先生と本格的な聞き取り調査をすると、被害者が次々と現れ、主犯格の生徒が明らかになる。学校は調査結果を公表し、撲滅すると宣言する。
先生に転校を勧められた女子生徒は、幼稚園からこの聾学校におり、外の学校に行くの嫌だ、虐められるより孤独の方が怖い、と言う。
卒業式で校長先生が優秀な退職教員を紹介しながら、特別学校の運営は大変だと言う。
いつも不敵な笑みを浮かべている主犯格の生徒にメールが来て、様子が変わる。ある日主人公が体育倉庫に連れて行かれ、主犯格の生徒に、彼女に二度と乱暴されたくなかったら、羽交締めにされている下級生に性的嫌がらせをしろと脅され、仕方なく受け入れる。その動画が流出し、彼も母親に転校しなければと言われるが、彼にとってもやはり普通学校よりこの学校の方が良いのだった。
約束した筈なのに、彼女がまたレイプされたのを知り、主人公は主犯格をボコボコにする。ケガで入院した彼を見舞った教師は、彼が自傷行為をしていることを知る。
その病室にある人物が現れる。
主人公は同級生に呼ばれ、あるビデオを見せられる。それは10年以上前からの美術室前の監視カメラで、卒業式で退職時に表彰されていた美術教師がまだ幼い主犯格を頻繁に連れ込んでいるビデオだった。同級生は学校にビデオを削除するように言われたという。
若い教師は主人公にそのビデオを見せられ、主犯格の生徒に会いに病院へ行く。屋上にいた彼は全てを打ち明け、美術教師が憎い、なのに卒業式で彼を見て嬉しさを感じた、憎くて堪らないのに病室に来た彼を自分から触ってしまった、僕は変態なのか?と苦しみを告白する。
通学バス車内ではまた生徒たちが大騒ぎしており、主人公も仲間に加わる。しかしかつて女子生徒が性暴力を受けていた一番後ろの席には、主人公が彼女を助けるために性暴力を与えた下級生が怒りを湛えた目で騒ぐ主人公達を見つめ、1つ前の席で眠っている生徒に何かをしかけようとするのだった。
唖者なので助けてと叫べないし、周囲も聾者なので聞こえない。映画の4分の3は聾者ならではの苦しみであったが、小児性愛がいかに罪深いことかという問題でもあった。
若い教師が美術教師を普通に退職させただけの校長を責めた時、校長は「学校運営の大変さを理解していない」と言い、ますます怒りを覚える。しかし特別学校が閉鎖になると生徒達も困るため、何がなんでも守らなくてはならないのは事実。やっぱり国や自治体の体制も問題なのだ。
個人の正義が試される
2022年劇場鑑賞17本目 優秀作 72点 テーマと絵の感じ、評価の高さから期待し、黄金町の上映終了ギリギリの鑑賞。 2時間未満にしてよくできた作品だと思った。 最初は性暴力の主犯の動機が薄いなあと思っていたけど、中盤から後半にかけて今作のテーマである性暴力からは遠のいていき、学校での経営や教育問題に踏み込み、まあ着地点としては安パイだけどそれで良かったです。 この年頃かつずっと同じ周りの子たちと育ってきたら、仲間はずれを怖がるのも大いに頷ける。 真摯に向き合ってくれた先生が本当に情熱的で、昨今の教育現場で少なくなって来ている彼に救われた映画でもあった。 もう関東では見れないので、配信されたら是非観てもらいたいです。 是非。
あまりに苦しすぎる衝撃
あまりにもショッキングで根の深い問題、実際にあったことに衝撃が大きすぎる。 性暴力の被害に遭ってもそこにしか居場所がないから… それほど聾唖者への偏見、差別が強く、支援の体制がうまく行ってないのか…辛くなる。 辛い目にあった時、逃げてもよいと安易に言ってしまいがちだが、必ずしも正しいとは限らない。思い知らされた。 問題は生徒より、向き合う大人たち、健聴の人にある。善い人ぶって結局面倒を避けているだけ、そのしわ寄せが子供たちに… 後半明らかになる事実にどうすれば良いんだよと絶句した。 唯一、真摯に向き合ってくれたワン先生が今作の良心。彼がいなければ、観ているこっちもかなりのトラウマになっただろう。 希望のあるラストかと思いきや、問題は終わっていない… かなり辛い気持ちになる映画だったが、目を背けてはいけない。
【無言の場所で長年行われていた事が惹き起こして行く哀しくも恐ろしき行為。隠蔽体質が負の連鎖を引き起こす事実を描いた陰鬱な作品。】
ー 冒頭、テロップで”今作は事実を元にしているが、出演者の名前などは架空のモノである。”と言う趣旨のテロップが流れる。 そして、映画を観ながら、その言葉に納得する。> ◆感想 <Caution! 内容に触れています。> ・台湾の聾学校で長年行われていた、美術教師による小学生だった生徒への忌まわしき行為は、その生徒の心を傷つけつつも、彼も又成長する中で、周囲にとってはモンスターの様な存在になっていく。 正に負の連鎖である。 ・普通学校からその聾学校に転入してきたチャンは、バスの車中でベイベイと言う女の子が、性暴力を受けているのに周囲が無関心な事に驚く。 そして、徐々に何故に周囲の少年少女たちが無関心である理由が明かされていく。 この過程が、実に恐ろしい。 被害者が、加害者になって行く負の連鎖。 ・全ての行為のきっかけになっていたユングアンは前半は、完全なる悪として描かれているが、中盤彼の行為の理由が分かるシーンは悲しい。 - 彼が、自らの身体を傷つけ、入院していた時に唯一正義感により事実究明するワン先生に言った言葉。 ”入院している時に、美術の先生が来たんです。僕は、憎まなければいけないのに、アイツに抱き着いてしまったんです。僕は、変態なんです・・。”- ・生徒より、学校運営を重視する手話のできない女性校長が、長年隠蔽してきた事。 チャンが唯一頼るワン先生は愚かしき校長を詰問するが・・。 <無言の世界で行われていた恐ろしき行為を、皆が通常だと思うようになってしまう恐ろしさ。その事実を隠蔽する校長始め、学校側の人間。 実に嫌な気分で、観賞した作品であった。 見て見ぬ振りは駄目だ。隠蔽も駄目だ。 誰かが勇気を持って声を上げなければ、ならないのである。 それにしても、ユングアン少年の言葉は、人間の性に対する複雑さを感じてしまった。> <2022年3月5日 刈谷日劇にて鑑賞>
性暴力事件を題材に深刻な社会問題を提起した衝撃作!
台湾の聾唖学校で実際に起きた性暴力事件を題材にはしているものの、実際には多くの社会問題ー性暴力、いじめ、性的マイノリティ、障害者問題etc・・・・・・・を内含した現代社会の闇を抉る様なあまりにも痛々しい問題作! こういった作品を観ていると、どうしたら種々の問題が改善されるのか? 常に考えてしまうが、実はその闇はスパイラルの如く深く、中々解決に至らぬ後味の悪さに気が滅入ってしまう! この作品もご多聞に洩れずで、救いのあるラストと思いきや、最後にやはり!?と思わせる演出が待っているので、それは観てのお楽しみに・・・・・・・・ 人間の性のどうしようもない無力感を実感してしまう本当に衝撃作!!
閉鎖された世界
人は誰でも、周りより上に居たい欲求がある。映画の様に閉ざされた、幼い世界ではなおさらだろう。 そして、「福祉は正しいもの」という世間の目とそれを取り繕い、利用する大人を見せられた映画だった。
【あなたは声を持っていますか?】
しゃべることが出来るはずの僕たちでも、どんな理由があるにしろ、見ないふりをしたり、見過ごしたりして、声を上げなければ、声が無いのと同じではないのか。 そんな示唆も含んだ佳作だと思う。 そして、声を上げることが出来ないようにするために、最も効果的なのは、”罪を共有”させることなのだと改めて感じる。 この作品は、台湾の聾唖学校で実際に起こった事件をベースに制作されたものだが、この事件がおぞましいというだけにとどまらず、これは僕たちの社会の縮図とも言えるのではないかと強く感じる。 先般報じられた埼玉県川口市の学校ぐるみのイジメの隠ぺいも思い出すし、過去にニュースで取り上げられた生徒が自死を選択してしまったイジメを認めようとしない学校や関係者も似たようなもんだと思う。 そして、こんな○○ぐるみの話は、子供のケースだけではないだろう。 某大手広告代理店のイジメとも思える過剰労働を苦にした女性社員の自死や、近畿財務局の亡くなられた赤木さんのケース、政府ぐるみで隠ぺいしようとした公文書破棄、桜を見る会のトカゲのしっぽ切りだって○○ぐるみという点では同じだ。 この作品のエンディングの示すところは暗澹たる未来なのかもしれない。 ずっと受け継がれて、罪を共有して、繰り返される悲劇や犯罪。 最後の場面、終わってなんかいないと言いたいのだ。 だから声を上げよと言っているのだ。 世界のあちこちにある悲劇。 映画で取り上げた事件だけにフォーカスしてあれこれ考えるだけで済ませるようなものではないと思う。 あなたは声を持ってますか? ※ 台湾の若手俳優の熱演がすばらしいです‼️
社会に巣食う病魔が病魔を呼び、それは完治することはない。そして時と...
社会に巣食う病魔が病魔を呼び、それは完治することはない。そして時としてその病魔は、「マイノリティ」と呼ばれているものなのかもしれない。
閉鎖的なコミュニティの負の連鎖。
台湾で実際にあった話だそうだが、どこの国でもあっておかしくない事件。普通の学校でさえ事件が外に出づらいのに社会的にハンデを負う聾唖学校、生徒も先生も内向きになるだろう。 自分自身の心の傷を他者を傷つける事でしか癒す事が出来ない、、、、代償行為って言うんだっけかな、、それがまた果てしなく連鎖して行く恐ろしさ、日常化して行く恐ろしさをこの映画は伝えている。 女性の監督で全体的に丁寧に描いているが、 映像的に、人間をもうひと堀り出来た様な気がした。 最後のシーンも闇が深い。
ことなかれ主義が子どもの心を殺す
性暴力・性虐待を扱った物語にハッピーエンドなんて待っていない。明るい未来を示唆していても、辛さと切なさは残ってしまう。 しかも本作はろう学校で実際に起きた事件を題材にした映画。聴覚障害者への性虐待という複雑な構図を持った物語だ。 実際の事件でもバスの中での暴行があったのかわからない。そんなことありえるのか?と思いながら観ていたが、聴覚障害者という点を考えるとたしかにありえるかもと思えてきた。無邪気に笑いながらバスで行われる非道な暴力。とても怖いシーンだった。 なんでこんなことが起きたのかを解明する過程で、この学校しか行く場がないと考える少年少女たちの苦しみがちゃんと伝わる作りになっているのがいい。ことなかれ主義の大人が子どもたちの心を殺すということか。しかもちゃんと虐待の連鎖も描いていることも驚いた。中国映画と違い、こうした虐待をなくすために党はこんな対応をとりました!みたいな宣伝はないし、複雑な気持ちにさせる終わり方もいい。ただ、観る側にパワーが必要。これから観るなら落ち込んでいないときにした方がいい。
バチカンにも通ずる小児性愛問題。
耳の聴こえない子供たちは、人を呼ぶとき、目の前で上下に手を振る。 すべての日常は、耳の聴こえる者とは違うものとなる。 閉鎖された密室では、不正が温存される。この映画は、近親相姦や教会での小児性愛のような犯罪の加害者と被害者の心理をよく描写している。 大人たちは保身にはしり、事実を隠蔽する。 子供たちは助けを求めるが、大人たちは都合よく聞き流し、やがて、子供たちは助けを求めることさえもあきらめ、絶望の中で自らを檻の中に閉じ込めていく。 絶望は恨みへと変わるが、その矛先は、自分と同じように抵抗できないものへと向けられていく。 「なぜ、いやがらない」「なぜ抵抗しない」…、力のない者へ、大人からの容赦のない追求がなされる。 自分の身の安全は捨てがたい。自分を捨て、人の安全を守るのは、英雄であり偉人だ。 この世には、凡人があふれ、自分の安泰のみを願い、昆虫のように群れをなして生きている。 ベイベイは転校しろと祖父に言われても、転校しないと抵抗した。性的に犯されながらも、その学校へ通うという。 外の世界の孤独さよりも、密室の中で自分が我慢して生きた方がいいという、この複雑な心理こそが、この映画の主題と言えるだろう。 映像ははかなくも、美しく撮られている。そして、声はない…。 ぜひ、劇場で声なき声を見届けてほしい。
第三の見方(個人的な見解です)?/内容が少し残念…
今年15本目(合計288本目/今月15本目)。 この映画はミニシアター中心で、この映画は前から注目していたこともあり、シネマート心斎橋さんにいってきました。 ここの紹介にあるとおり、台湾で実際におきたろう学校を舞台にした事件に構想を得たという映画です(固有名詞などはすべて変えられている、と出ます)。 --------------------------------- ※ 私は以前は聴覚障害をお持ちの方と仕事をしたことがあるので、手話は「ある程度」わかるくらいで、映画内でされたら1割程度理解できるくらいです。一方で、韓国・台湾(便宜上、国扱い)は日本の政策占領の関係で、日本手話の文化の影響を受けたため、かなりの部分で語彙・文法の一致があります(1割も理解はできないが、1割のうち9割は推測が付く)。 --------------------------------- この映画はまず第一義的には「ろう学校(日本では、現:特別支援学校)でそんな、色々な大人がまきこむような内容は良くないよね」ということは言えます。それはまず最初に言える感想です。そして、2つめに、映画内でも触れられている通り、「ろう者は一般の学校(ここでは、聴者を対象とした学校を指す)にいってもついていけないんだから、何が起きようがここにいるしかない」という前提で、その学校の中で謎のカースト制度ができてしまい、いじめが常習化・固定化されやすい(弱者の再生産)という問題が隠れています。日本は各種支援学校といっても学校の一部である以上はちゃんとした指導はされますから(なお、私立のろう学校は数えるほどしかない)、あまりに支離滅裂やっていると警察がきたり行政処分を食らったりする案件です(なお、どちらも最後に「悪役」はちゃんと罰を受けるようになってます)。 しかし、この映画には「隠れた第三の問題提起」があるのではないか、と思いました。上記に書いたように、ろうの方は少なからずの方がろう学校で小中から高校部(実質、高校扱い)まで行くという、ある意味「閉鎖的な文化」になっています。このことはおなじ身体障がいの中でも、内部障害(腎臓障害など)、「特段の配慮を必要がないなら一般学級でも良い」というのとは違う事情です。 そのため、横(ろう者)どうしの繋がりが非常に強いという事情があり、高校を卒業してからも、いわゆる「ろう者だけの詐欺集団」というのが日本でもできたり(もちろん摘発されるし逮捕もされる)、2番目における「弱者の再生産」は学校を離れて起きているのが現状で(かつ、現在、2021~2022ではこのご時世で「会わない」ことが前提になっている現状、iPadやビデオチャット等が「ある意味」当たり前になった)、そういった部分も「第三の問題」として挙がってきます。 ※ なお、事実としてはそのような事件が起きているので書いているのであり、「ろうの方が全員、高校部(高校)を出た後も危険人物だ」というように取るのはおかしい、ということは強く書いておきます。 換言すれば、学校は「卒業させたらそれで終わりでもない」し、行政も、身体障害者の中でも特に保護すべきそうした障がいをお持ちの方に、そうした犯罪行為に走ることなく「適切な対応を必要をするべき方には合理的に適切な対応をする」ということが望まれるのであり、この点は明確に描かれないので(さすがに時間オーバーになってしまう)、ちょっと残念というところです。 ただ、この映画の「第3の見方」としてはこのような「彼らが学校を卒業した後、どうなるのか?」というところ、そこも論点に入るのは明らかです。 採点に関しては下記が気になったところです。 -------------------------------------------------- (減点0.2) この映画は「バリアフリー上映」ではありません。もっとも、聴者の私がきいても「事実上」バリアフリー映画であることは言えます(セリフがない部分は、音楽が流れていたり、雷の音だったりする)。ただ、それは「聴者が聴けばそう言える」のであり、当事者の方には確かめる方法がありません。 現状(2021~2022)で、「すべての映画をバリアフリー上映にする」ことは確かに望まれた対応であるとはいえ、実際は無理ではないかとは言えます。ただ、内容の趣旨的にバリアフリー上映にすることが適している映画であり、かつ、その「バリアフリー化」を達成するにはただ単に「音楽が流れているシーンに (♪~~)をつける」「雷がなっているシーンに(雷がなっている音)とつける」といったレベルの話で、バリアフリーなのかバリアフリーでないのかもよくわからない状況です(まぁ、バリアフリー上映とみなして聴覚障害をお持ちの方が見に行っても、混乱はしない)。「内容趣旨的にバリアフリー字幕にすることが自然かつ合理的である」のにそうでないのは残念でした。 (減点0.1) 映画がはじまってすぐ、駅でひったくっただのひったくってないだのという話で、本人(ろう者役)が「やっていない」と手話で表現している(字幕モデル)のに、手話通訳者(この映画の物語の舞台となる、ろう学校の先生)が警察に呼ばれて「通訳をお願いするよ」となると「やっていない」といっているのに「彼は反省しています」というまるで違う返し方をしているところです。 日本では「蛇の目寿司事件」という有名な事件があり(まだ、手話が余り知られていなかった時、戦後の混乱期でろう者が寿司屋で喧嘩をして逮捕されたとき、手話通訳者が極端に短く翻訳したりしたことが当事者から批判を受け、最終最後は「本人に不利でも有利でも全部翻訳する」という扱いで裁判は進んだが、手話通訳がまだ認知度として未熟だった当時、単純な殴り合い事件で「相場を超えた量刑が言い渡された事件」は実際にあります(詳細は「蛇の目寿司事件」などで調べるとわかります)。 このことはある程度、手話に興味を持っている方なら意識しているところであり、この映画内では「警察での取り調べ」という、上記でいう「裁判での通訳」とは違うところではありますが、「ろう者の述べたいことを有利でも不利でも必ず伝える」という考え方は、映画の当時(1990年っぽい)では常識論になっていたのであり、ちょっとバランスを欠くかな…と思いました。 --------------------------------------------------
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