FUNAN フナンのレビュー・感想・評価
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美しい背景が人の残酷さを際立たせる
カンボジアのクメール・ルージュの大量粛清の時代を生き抜く親子の物語をアニメーションで描いた力作だ。物語は1975年4月から始まる。首都プノンペンの陥落を知らせるラジオが流れ、まもなく田舎の村の住民も強制労働のために農地に送られることになる。小さな息子と離れ離れになってしまった両親は必死で息子を探そうとするが、過酷な労働に追いやられてしまう。
美しい田園風景と非人道的な強制労働の強烈な対比が印象的だ。人間の行いは醜い、しかしそれとは無関係に自然は美しい。塚本晋也監督の『野火』も人間は餓死寸前なのに自然が美しかったことを思い出した。
カンボジアは、かつて東南アジアの映画大国だったそうだ。クメール・ルージュの粛清によってカンボジア国民の4分の1が失われ、映画人などの文化人も数多く殺され、歴史が失われてしまった。フランス資本のカンボジア映画というとリティ・パン監督が有名だが、こうして新たな世代が自身のルーツに目を向ける作品が生まれていることは頼もしい。
カンボジアの武装組織に翻弄される人々。 当時3歳の息子と生き別れ、...
カンボジアの武装組織に翻弄される人々。
当時3歳の息子と生き別れ、強制労働させられながら探し回る両親の姿には胸が熱くなった。
100%のハッピーエンドとはならなかったのも、物語に深みを持たせていると思う。
ただ、同世代の男女はほとんど同じような顔ばかりだったので、区別が難しかったことが難点。
アニメの戦争映画
「トゥルーノース」「ブラットウィナー」に続き、アニメによる戦争映画。これもまた辛い。クメール・ルージュ??よくわからず、調べるとポルポト派のことなんですね。ならばわかります。同じ国民同士、なぜあそこまで残酷になれるものか。
3歳の息子とはぐれても探すことも許されず、やっと3年後会えたけれど、逃走が失敗したら永遠にあえなかったかも。おばあちゃんはどうしてしまったのか。
できることなら親子3人で逃げ切って欲しかったなあ。
今作も小学校で上映してほしいですね。
こういう作品を観て、今の子供たちがどう感じるのか、知りたいなあ。
「民集のため」という名のもとで暴力は繰り返される
たった40数年前のカンボジアで起きた大惨劇の歴史。「正義」の名の革命が大きな悲劇をまねく。その暴力革命で権力の座につく多くが、60年代に西側の学生たちが希望を抱いていた共産主義勢力だった。
抑圧された集団生活の中で、人は疑心暗鬼に陥り、倫理観や人間としての尊厳も失っていく。
自分がチョウやクンの立場ならどうするか。
処刑覚悟で脱走するか。
生き残るために家族を守るために辛抱し続けるか。
歴史は忘れた頃にやってくる。
いまは、「悪き」資本主義を克服するという目的のもとに。
カンボジアの緑の大地が残酷なほど美しい。
凡庸とは言いたくないけれど…
僕はカンボジアを2度訪れました。
また、ポルポト時代の同国の様子を少し勉強していたということもあり、興味を持って映画館に足を運びました。
でも期待したほどではなかった。
アヌシーで受賞したということですが、とくに感動はしなかった。
凡庸と言いたくはないが、特筆すべきことのない作品でした。
ポルポト時代の4年間で犠牲になった人は、100万とも200万ともいわれています。
カンボジア全土で虐殺が行われ、遺体の多くは土に埋められました。
多数の遺体が埋められた土地(キリング・フィールド)では、土壌の表面まで脂が滲み出していたといいます。
もちろん、本作でも悲惨な出来事は数々描かれているのですが、「親子愛」がテーマのアニメーション作品ということもあってか、そういった陰惨さ、生々しさは抑えて表現されていました。
それゆえに、極限状態に置かれた人間たちを描いているわりには、どこか緊迫感に欠けるような気がした。
ストーリーも想定内のものでした。
強制労働下における人々の生活について何か新たな知識を得ることができるかなと思っていたのですが、それもほとんどなかった。
そして、いちばん大事な、映画のクライマックスであるはずの、親子が再会する場面もわりとあっさりとしている。
もっとも、このシーンは、長きにわたる過酷な生活によって、親子双方の、とくに子どもの人間的な感情が鈍麻したということを表しているのはわかるのですが、それにしてもちょっと拍子抜けでした。
あと、これは僕がじっさいにカンボジアを訪れているから思うのですが、舞台となった現地の雰囲気があまり伝わってこなかった。
その要因のひとつは、セリフが全編フランス語ということ。どうしても「違うんだなぁ」と思ってしまいます。
それから、映像からも東南アジアの温度や湿度をあまり感じなかった。
ちなみに、カンボジアの土はもっともっと紅い。
ポルポト時代に虐殺され埋められた人々の血が滲み出しているのかと思うほど紅い。
僕がカンボジアを旅して印象的だったのは、その大地の紅さと、人々が身につけている「クロマー」の鮮やかさです。
まあそこまでローカルカラーを打ち出す必要も、リアリティーを追求する必要もないのだろうけれど。
あと、タイトルの意味するところも、ちょっとわかりにくいかも。
【首筋に優しく夫から息を吹き掛けられながら、極限状態の狂気に覆われた祖国で、息子を探す・・。】
■物語は1975年4月、首都プノンペンがクメール・ルージュにより、制圧されクンとチョウ夫婦と3歳のソヴァン等、多数の住民が強制労働のため、農村に送られる所から、始まる。そして、途中でソヴァンははぐれてしまう。ポル・ポト等により、結成され知識人を中心に170~200万人が殺害され、国外へ逃亡した者は50万人にも及ぶと、テロップで流れるが、何故同じカンボジア人同士で、かくも、凄惨な殺し合いが起きたのか?については、未だ解明されていない・・。
■印象
・暗い色調の中、頻繁に描かれるカンボジアの長閑な風景
・同じカンボジア人だが、クメール・ルージュの思想に染まったオンカー(革命組織)の姿。生きる為に彼らに媚びる悲しき女のセリフ。
・諦めずに、我が子を探すクンとチョウ夫婦の姿。そして、命懸けで、妻と息子をタイに逃がそうとするクン。
・クメール・ルージュの勢いが衰えて行く中での、共産党幹部の姿。お前も仲間ではなかったか!と言う虐げられていた人々の疑心暗鬼の姿。
<かつては、扶南として栄えていた土地で起こった凄惨な史実を淡々としたトーンで描く作品。彼の出来事を風化させない!と言う意味でも、意義ある作品である。>
<2021年2月21日 刈谷日劇にて、観賞>
空気感が違う気がするんだよな
クメールルージュに支配された時代のカンボジア。制圧されたプノンペンに住んでいた一家が、時代に翻弄されながらも生きていく様子を描いたアニメーション。
監督はフランス生まれで全編フランス語。その所為なのか、湿度みたいな空気感が感じられない気がした。
アニメであることの意義は?
エンタメや“感動モノ”を狙うことなく、真面目な意図で描かれた映画の意義について、疑問をはさむつもりはない。
ただ、アニメとしての表現力には、疑問符を付けざるを得ない。
アニメでは、実写における細かい演技や、リアリティを犠牲にすることになる。
その代わり、アニメの利点として、実写では不可能なタイプの生き生きとしたキャラクターが作れるだけでなく、実写ならではの様々な制約を脱することができるはず。
状況をビジュアルで分かりやすく伝えたり、抽象化あるいは理想化して本質的な表現を追求したり、背景を美しくあるいは残酷に描けることなどが挙げられると思う。
しかしこの作品では、アニメーションの力不足で、キャラクターにある種の“生気”がないだけでなく、怖さも切迫感も飢餓すらも伝わってこなかった。
事実に立脚した淡々とした内容であるにせよ、演出はもう少し工夫しても良かったのではないか。
アニメにしかできないことが、何かあっただろうか?
アニメであることの意義が、今ひとつ感じられなかった。
単に実写映像を画に起こしただけのようにも見え、実写とアニメの“悪いとこ取り”のような、奇妙な感じがする。
まだ公開されていないが、東京国際映画祭2020で観たアニメ映画「トゥルーノース」(北朝鮮の強制収容所を扱った作品)の方が、はるかに優れている。
監督のルーツ確認の物語。そして私たちもカンボジアのことを知る物語
1975年のカンボジア、首都プノンペン。
ソヴァンは、父のクン(声・ルイ・ガレル)、母のチョウ(声・ベレニス・ベジョ)らと暮らす幸せな一家の子どもだった。
しかし、ポル・ポト率いる共産武装組織クメール・ルージュがプノンペンを制圧。
カンボジアを支配下に置き、国土開墾を目的とした強制労働のために、都市の人々を農村へ強制移動させた。
クン一家も例外でなかった。
そして移動の途中、混乱の中でソヴァンは家族と離れてしまったまま、クンもチョウも過酷な労働を強いられることになる・・・
といったところから始まる物語で、監督のドゥニ・ドーはカンボジアにルーツの一部を持つひとで、母親の実体験が多分に反映されている。
映画雑誌のインタビュー記事によると、監督は「自分のルーツを自身で確認・コミットするために作った」と述べており、その意味では、クメール・ルージュの告発映画(つまり政治的な映画)というわけではない。
なので、当時起こったことを丹念かつ丁寧に描いていくことにし、殊更な残酷描写は避けるようにしている。
(とはいえ、直截的描写は避けているものの、描かれる内容は過酷でショッキングです)
作り方からは、高畑勲監督の『火垂るの墓』に近いように感じるし、監督自身も同作品への思い入れも先に挙げたインタビュー記事で語っています。
ドラマチックな感動の押し売り・押しつけはせず、地道な描写に徹していることに共感を呼ぶ作品になっている。
感心したのは登場人物の描写で、過酷労働を通じて、ほんとうにやせ細り、衰えていくさまが簡潔な線で描かれており、この簡潔さが素晴らしい。
ただし、一家と離ればなれになってしまったソヴァンと祖母が、どこにいるのかがわかりづらく(たぶん意図的な演出なのだろうが)、距離感が描かれていればもっとよかったかもしれない。
(子どもたちだけを集めての赤色英才教育のようなことがなされていたことは、この映画ではじめて知った次第だが)
古い映画ファンは、ローランド・ジョフィ製作の『キリング・フィールド』を思い出すかもしれないし、未見の若い映画ファンでこの作品に興味を持ったならば、併せて観てほしいとも思う。
なお、タイトルの「FUNAM」とは、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域の現在のカンボジア、ベトナム南部に存在していた扶南国を指す語。
タイトルにも、監督のルーツ探し・ルーツ確認の意味が込められていたようですね。
タイトルなし
年末に見逃し、三が日明けの仕事帰りに観てきました「FUNAN フナン」
正月明けに観るには内容が重たいかなと思いましたが、うん・・重たかった((T_T))
でも、1年の初めに観ておいてよかったなと素直に思える作品でした
1975年4月カンボジアの首都プノンペン。
クメール・ルージュにより政権は倒され、人々は家を追いやられ強制労働のために農村に送られてしまう。その道中でチョウと夫のクンは息子ソヴァンと離れ離れとなってしまう・・・
クメール・ルージュ(武装組織)によって粛清された人々は120万人とも170万人ともいわれている。
都市文明を否定し、都市文明に思想が汚染されていると考え、人々を弾圧するクメール・ルージュ達。その行為の果てまでは、はっきりとは描かないけれど観ている側に行く末を想像させる描写
与えられる食料は乏しいのに毎日の重労働ですっかり痩せ細っていく姿。家族や自分が生きて行くために近いしい人にさえ犠牲になれと言わざるおえないほど思考が変わってしまう悲しさ
立場が逆転したとき、人は復讐心に支配され同じ仕打ちを行ってしまうのは仕方が無い気がする。けれど、その中で人の心にある本当の強さと人間としての尊厳を忘れてはいけない。それをチョウは教えてくれた。
優しい吐息は
やがて大きな風となり
彼の見ることの叶わない未来を
二人にはみせてくれるのだろう
幕外の地獄
ポル・ポト派の圧政の中、生き別れた母子をきっかけに離散、死別していく家族の悲劇を描いたアニメーション。
ショッキングなシーンの直接的描写は避けており、感情に訴える演出もしていない。
だからこそ腹の奥底に重く残るものもあることを教えてくれる映画だった。
アニメだからこそ描ける世界
これ実写だとロケ地や特撮など経費がかかるのでむしろアニメだから描きやすい 吹替にしなかったこともリアリティーを保つ為にも良かったと今後歴史物や社会問題等ジャンルでのテーマもアニメで描いて欲しい!
辛い!ムズい!面白くない!そして涙
歴史的な背景をリアルに描いていて、はっきり言ってしまえばNHKなどでたまに目にする再現アニメのように見えて、結構難しい上に内容もつらいので、面白さなんてものは全く感じない。
シンプルで彩度の鈍いキャラたちの背景画は、まるで楽園のように美しく描かれていて、それがいっそう悲惨な内容を助長する。内容から逃れるための捨てカットなどというものから程遠く、美しく煌びやかなカンボジアの大自然が見事なまでに昇華されているのだけれど、それが更に内容を濃いものにしていく・・・
見ていて心がすさむ。それが歴史的事実だと、アニメーションという形でありながら、リアルに痛感したような気がする。
決して感動などではない涙が浮き出て、終幕していった─
カンボジア系フランス人の監督が描く、クメール・ルージュ政権下のとある家族の物語
この映画の存在を知って、まず疑問に思ったことがある。
カンボジア近代史でもかなりセンシティブな問題であろうクメール・ルージュが、なぜフランス語のアニメーションで描かれたのかという点だ。
歴史に少し詳しい人であれば、カンボジアはかつてフランス領インドシナとして植民地支配を受けていたことをご存知だろう。こうした過去の経緯や私と同様の疑問を持った方の視聴レビューを見ていたので、観賞前はちょっと身構えた。
けれどもいざ観てみると、まるで『火垂るの墓』や『この世界の片隅に』のように、アニメーションでしか表現できない「人間のリアル」が見事に描かれた佳作だった。
まず、冒頭で触れた「なぜフランス語アニメーションでクメール・ルージュを描くのか?」という点については、監督のルーツが理由になる。
監督のドゥニ・ドーはカンボジア系フランス人で、映画は彼の母や兄の実際の体験を基づいているそうだ。今回の作品が「家族への敬意を示すと同時に、歴史の証言にもなっている」と日本向けのインタビューで語っている。
例としては微妙だが、ニュアンスで言えば、ユダヤ系のスピルバーグ監督が英語で『シンドラーのリスト』をつくるのと同じような感覚なのだろう。
そして、作劇の間や演出から時折感じる日本のリミデッドアニメーションっぽさについては、監督自身が「日本のアニメを見て育った」と語っている点から納得がいった。
歴史上の人物ではなく、家族や市井の人をクローズアップして戦争を描く手法についても、どこか日本映画やアニメの影響があるように感じた。
クメール・ルージュが支配した激動の4年間を、1つの家族にフォーカスして描いた本作は、公開時期こそクリスマス時期でマーケティング的に謎だなと感じるところはあるものの、それを補って余りある良い作品だと思う。
「人間の尊厳とは何か?」を問いかける重い作品なので万人には進めづらいが、直接的な残酷描写がないので、PG指定もないため子供でも視聴が可能だ。
公開期間が短く、人も選びそうな作品だけど、是非とも多くの人に映画館で観て欲しい...
そんなふうに、帰宅してすぐにレビューを書きたくなってしまうような作品だった。
重すぎて観ると落ち込む名作
これ、カンボジア版『火垂るの墓』ですわ。
名作だけど、観終わったらドシーーーンと気分が落ち込むこと、この上なし。
あまりに残酷すぎて、実写でやったら上映できないよ、というところをアニメーションの力で柔らかく見せる選択をしたのだと、観ていて思いました。
フランス人監督がなぜポル・ポト時代の悪夢を映画に? と一瞬違和感を覚えましたが、監督の母親がカンボジア出身の移民で、母の世代が受けた被害を取材して作ったとWebに載っていたインタビューで知りました。
カンボジアの歴史、特にクメール・ルージュが生まれた前後の情勢を知っていると、より作品を味わうことができると思いました。
武装赤組の支配
1975年4月17日極左政治勢力クメール・ルージュのプノンペン制圧により移住という名の元に農村へ送られて強制労働をさせられる家族の話。
移住に際し3歳の息子とはぐれてしまった夫婦が、民主カンプチア期のカンボジアで抗い生き抜き息子を探すストーリー。
共産主義とは名ばかりの搾取する側とされる側、末端党員と奴隷市民の悲惨さは、文字でしか知識はなかったけれど、やはり映像でみるとキツイ。
作中では描かれていないけれど、末端党員も所詮は搾取される立場だしね…。
フィクションだろうけど、たった45年前に実際にこれと近いことが起こっていたと考えると恐ろしいし、21世紀になった現在でも、ほぼこれに近い国はあるんだよね…と考えさせられる。
アニメという形だからマイルドなので、是非見て知ってもらいたい悲しい歴史と、その中での極僅かな希望を描いた作品だった。
個人的には是非、実写で重〜くリメイクして欲しい。
【伝え続けること、警鐘を鳴らし続けること】
極左にしろ、極右にしろ、宗教の原理主義にしろ、人種や民族主義も、帝国主義も、ナチズムも、ファシズムも、全体主義も、行動パターンに大差はない。
歴史が証人だ。
暴力的で反知性的。
少し異なるところがあるとすれば、極左思想は反知性的と思われることを嫌うためか、映画でも何度か出てきたが、「自己批判」という言葉をよく使う。
クメール・ルージュは、カンボジアで一時支配的になった勢力だが、思想的には極左で、強烈な反植民地・反帝国主義をベースに毛沢東思想を独自に解釈したイデオロギーの集団だ。
また、カンボジアが長らくベトナムに従属的だったことから、反ベトナムの民族主義思想も混ざっており、途中、ベトナムから砲撃を受ける場面があるが、同時期にベトナム・カンボジア戦争を戦っていたことも分かる。
このベトナム・カンボジア戦争の敗走で、クメール・ルージュは最終的に解体されることになる。
そして、この後、敵討ちのように、中国がベトナムに戦争をしかけるが、中国が敗走する様は、映画「芳華」にも描かれていて、このインドシナ半島の戦禍による悲劇は、その後のカンボジア内戦とともになかなか終わることはなかった。
映画は、どちらかというと絵画的なタッチで、素朴な感じが郷愁を誘い、暴力的で凄惨な場面は抑えられているものの、クメール・ルージュ支配のカンボジアの人々の悲劇を十分示唆する内容になっている。
全てのものを取り上げられる。
自由も身につけている小物も。
言いがかりのような暴力。
虫でも殺すかのような殺害。
レイプ。
子供に対する洗脳。
ただ、こうした悲劇は、この時代のカンボジアに限った話ではあるまい。
アフリカのボコハラムなどは代表的だと思うが、先般、記録ビデオが話題になった、セルビア内戦時のイスラム系住民の虐殺、ISも、中国のウイグルやモンゴル、チベット系民族への弾圧、香港問題、台湾への恫喝、ロシアの反体制政治家やジャーナリストの暗殺や未遂だってそうだ。
民主主義を標榜している先進国にだってリスクの種は多い。
アメリカの白人至上主義や、欧州の極右、ポピュリズムは、暴力的で反知性的だ。
日本にも嘘つきの政治リーダーが多くいる。
その上、怒りをあらわにしがちで、恫喝はするが、自分の言葉で語ることも出来ないクソバカだ。
それを見て嬉々としているもっとバカも多い。
僕達には頭を抱えたくなるような不都合な事実が、そこかしこに転がっている。
この作品が、大きな賞を獲得したのは、歴史を記録し伝えるという他に、世界に向けた警鐘の意味もあるように感じる。
見て見ぬ振りをしないで、よく考え続けなくてはならない。
そう言えば、「えんとつ町のプペル」でも、よく考えることが重要なのだと感じたが、反知性主義と戦う最大の武器だ。
そもそも、反知性主義と学者やメディアは言うが、これは主義ではない。
単なるバカということだ。
全22件中、1~20件目を表示