「この映画の説明不足の分かりにくい表現と、別の”正義感”に飛びついていないか、問題」由宇子の天秤 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の説明不足の分かりにくい表現と、別の”正義感”に飛びついていないか、問題
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
この映画はかなり説明不足の映画だな、とは個人的には思われました。
例えば、ラストシーンで主人公の木下由宇子(瀧内公美さん)は、小畑萌(河合優実さん)の父親の小畑哲也(梅田誠弘さん)に、小畑萌のお腹の子が自分の父親である木下政志(光石研さん)の子であると確信的に告白します。
しかし、ダイチ(河野宏紀さん)の証言から小畑萌は周りに身体を売っていたことが分かっています。
ではなぜ首を絞められるラストシーンで由宇子は、小畑萌のお腹の中の子の父親が自分の父親の小畑哲也の子であると確信的に小畑萌の父親に言うことが出来たのでしょうか?
その理由の説明が映画では全くされていません。
であるので、以下こちらで勝手な解釈をしてみました。
主人公の由宇子は、映画の終盤で、ダイチから小畑萌が周りに身体を売っていることを聞いたので、車の中で小畑萌にお腹の子の本当の父親は誰なのか?と問い正します。
すると、小畑萌は「なんだ、先生もかよ」と言って車から飛び出し、小畑萌はその直後に交通事故に遭ってしまいます。
このことから、小畑萌の本人は<由宇子の父の木下政志が自分のお腹の子の父親だ!>と確信していることが分かります。
なぜなら、小畑萌が思う自身の真実性を、由宇子も最後は信じてくれなかったとの小畑萌の思いが「なんだ、先生もかよ」の言葉に現れていたと考えると自然だからです。
しかし、これは本当はおかしな話です。
小畑萌が同時期にダイチなどに身体を売っていたことが事実であれば、木下政志が小畑萌のお腹の子の父親だとは本当は限らないはずだからです。
ではなぜ小畑萌は<由宇子の父の木下政志が自分のお腹の子の父親だ!>と確信していたのでしょうか?
その理由は、塾講師である由宇子の父の木下政志が、小畑萌にとってお腹の子の父親だと確信させる他とは違う存在だったからだ、と思われました。
ところで、この映画は由宇子の父と小畑萌にまつわる話と同時進行で、由宇子のドキュメンタリーの話が進行します。
由宇子のドキュメンタリーでは、女子高生の長谷部広美と教師の矢野の2人の自殺の事件が追われています。
そして女子高生の長谷部広美の自殺の原因がいじめと学校の対応とマスコミの教師との交際に関する過熱報道よるものだったことが、長谷部広美の父親の長谷部仁(松浦祐也さん)の証言などから分かります。
教師の矢野の自殺の原因も、長谷部広美との交際を学校側が捏造したからだと、教師の矢野の母親の矢野登志子(丘みつ子さん)らの証言から明らかにされて行きます。
ところが、映画の最終盤で教師の矢野の姉の志帆(和田光沙さん)によって、(観客にとってはスマホの音声のみで分かりにくいのですが)教師の矢野が無理やり長谷部広美に性的な暴行を加えていたことが分かります。
つまり、由宇子がドキュメンタリーで追っていた事件は、教師が自身の生徒であるいじめにあっていた女子高生を無理やり性的に暴行し、その結果、その女子高生が自殺し、教師の方も贖罪で自殺した、という話だったと最後に分かるのです。
ところでこの映画は、由宇子がドキュメンタリーで追っていた教師と女子高生の自殺の事件と、由宇子の父親の塾講師の木下政志と小畑萌との性的関係の話が、類似の話として並行して進んで行きます。
となると、作品の意図的に、由宇子のドキュメンタリーの方の教師の矢野が女子高生の長谷部広美を裏切って性的な暴行を行っていたのであれば、由宇子の父親の塾講師の木下政志の方も少なくとも小畑萌を裏切っている必要があると思われました。
つまり、小畑萌が<由宇子の父の木下政志が自分のお腹の子の父親だ!>と確信していた理由は、(他の身体を売っていた存在と違い)由宇子の父の木下政志が、教師としての信頼を裏切る行為を小畑萌にした、という強い負の印象が小畑萌に刻まれていたからだ、と考えれば、映画の構図の意図としても筋が通ると思われます。
そしてさらに、由宇子のドキュメンタリーと由宇子の父親の木下政志と小畑萌との性的関係の話の平行性の考えを進めると、最後に、では由宇子のドキュメンタリーの方の自殺した女子高生の長谷部広美は、本当に純粋無垢にただただいじめに遭って教師に裏切られた完全な被害者だったのか?‥との疑念がわいてきます。
小畑萌は初め、父親にネグレクトされ塾の支払いも出来ない完全な可哀そうな被害者として描かれます。
しかし実際の小畑萌は、自分の身体を売っていたという別の面も持っていることが最後に分かります。
となると、由宇子のドキュメンタリーと、由宇子の父親の木下政志と小畑萌との性的関係の話の平行性を考えると、由宇子のドキュメンタリーの方の自殺した女子高生の長谷部広美も、小畑萌と同じように純粋な被害者だけではない別の面を持っていたのではないかと、思われて来るのです。
これらのことを考えると、なんと当初の大手マスコミが報道していた女子高生の長谷部広美の内容がそこまで間違いではなかった、可能性も出てくるのです。
そうなるとこの映画で描かれている問題は、大手マスコミの間違った報道による報道被害というより、報道内容の根幹は正しいが過熱報道による(その他ネット周辺の真偽不明の中傷含めての)是非の方が問われてくるということになります。
ところで報道で社会に起こっている問題を詳細に明らかにして行くことは必要ないのでしょうか?
例えば学校でかなりひどいいじめの問題があり被害者の生徒が自殺をした事件があったとします。
その時に、物事はグレーだから踏み込んでの取材はせず、”いじめられた側にも潜在的な問題があった”との学校や生徒や保護者やその関係者の空気を温存したまま、自殺した生徒はそれはそれとしてと済まされて良い話でしょうか。
それは当然、言うまでもなく間違っています。
ひどいいじめの問題があったのであれば、事実関係が明らかにされ、学校や加害者に対して相応の批判はなされ、教育委員会等による事実の隠ぺいがあるのであれば厳しい批判は必要なのです。
そして事実関係の解明の後に、被害者への補償と、加害者による深い内省と贖罪、再発防止のための改善策を構築することは、社会にとっても必要なことだと強く思われます。
この”正義感”を否定してしまっては、一方では現状の悪の温存に力を貸してしまうことになります。
つまり正義感は一方で否定してはいけないのだと、そして事実を解明する報道は社会の改善のためにも否定してはいけないのだと、思われるのです。
ただしかし大切なのは本質的なブレーキを常に一方で踏む必要があるのです。
そしてその本質的なブレーキを踏むためには、あらゆる角度からの事実の検証が必要になると思われます。
この映画は事実の描き方としては曖昧で、私が上で示した解釈は”間違っている”という逃げを打つことが出来ます。
また、過度の報道への批判という逆の新たな”正義感”に乗った絶賛を食い止めることが出来ていないようにも思われます。
(人間はグレーの存在だと言いながら、TV局側のステレオタイプに描かれた人物に対して何ら疑問持たずに憤ったりしていなかったでしょうか?‥)
人間はグレーなグラデーションある存在であるのは言うを待たないと思われます。
しかしそれを分かった上での、さらにその先への踏み込み、しっかりとした事実の描写が、この映画には必要とされていたのではないかとは思われました。
映画自体は、長時間の割に長さを感じず、俳優陣の皆さんの演技も素晴らしく、ある水準を超えた見る必要ある映画だとは一方では思われました。