「現実に対する真実という言葉の軽さ」由宇子の天秤 シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
現実に対する真実という言葉の軽さ
本作も評価が高かったので観ました。
予備知識は全くなしで監督も知りませんでしたが、切り口が興味深く色々と考えさせてくれました。
人間社会には絶対的な力を持っている言葉って幾つかあると思うのだけど、例えば“愛”とか“自由”とか“正義”とか“真実”とか、こういう言葉を水戸黄門の印籠の様にかざされると平伏せざるを得ない様な、キリスト教だと十字架の様なシンボル的な力を持っている様に感じられる。
特に“真実”という言葉が元に成立する仕事や機関も多くあり、本作に登場する教育・報道関連の仕事はこれを無くして成立しないし、国家権力の立法・行政・司法の三権分立も“真実”というバランス関係を保つ為の制度である筈なのですが、現実社会に於いて国家自体が複雑すぎる嘘に固められているのは周知である。
ましてや現実の教育や報道の現場で、何か事が起きた時に“真実”の優先順位などお飾り程度の代物に過ぎないという認識の中での、事が起きた時の人間の右往左往する姿が描かれていて、それが、由宇子の天秤(バランス感覚)であり、真実以上の現実に即応した人間的対応を、観客に考えさせる構造の作品になっていました。
まあ、作中でもテレビ局内の決定権を持つ偉いさんが「誰得?」って台詞を吐くのが現実社会であり、教育現場で誰か1人が死ねば、誰か1人を悪者に仕立て上げて終わらせるというのが国民の共通認識になっていて、“真実”などは本来誰も重要視などしていないにも関わらず、言葉の重みと使い勝手の良さでこの言葉を乱用している気がする。
アメリカの裁判モノ映画でよく見る、証人喚問に呼ばれた場合の宣誓で聖書に向かって「あなたは真実を、すべての真実を、そして真実のみを語ると心から誓いますか」「誓います」ってシーンをよく見かけるが、日本ではどうしているのだろう?(キリスト教でもないのでそんなことしないのかも知れないけど)でも「真実を述べるように」的な似たような事は言われるのでしょうね。
これ以上書くとネタバレになってしまうので物語上の具体的に詳しい出来事は書かないけど、基本的に人間とは間違いを犯す生き物であることを前提にすると、“真実”に本当の希望はあるのか?“真実”よりも大事な何かはありそうな気がした。
と、こんな事を考えさせてくれた作品でした。