聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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理不尽への静かな反抗。
◯作品全体
主人公・ダニエルには次々に理不尽が現れる。少年院でのいじめ、閉ざされた神職への道、そして村で起きた事件。どれも「仕方のないこと」で片付けられるし、ダニエルもはじめは反抗しなかった。
しかし、物語が進むにつれてダニエルがそれぞれへの反抗を徐々にむき出しにしていく。神父へのなりすましをキッカケとして熱を帯びていくその反抗に、目を奪われた。
序盤、少年院でのいじめや神職を諦めさせられたときには静かにそれを呑み込んで、仮出所後に酒と女でハメをハズすダニエルは若者として普通の反抗であったけれど、静かに教会へ潜り込むダニエルは神職への憧れとともに一線を超える反抗を犯す。少年院で居場所がなかったダニエルがゆっくりと村のコミュニティへ侵食していく様子は、今までの環境からの反抗のようにも見えた。
村で起こった事件の真相を知ると、村のコミュニティをも壊して暴走にも近い解決を目指すダニエル。今まではコミュニティでの関係性を考えながら穏やかに行動していたダニエルだったが、理不尽に結論付けようとする村の雰囲気や町長からの圧力によってその反抗心をむき出しにしていた。隠していた心が神の前で顕在化したようなストーリーラインと、それを意識させるように点描されるイエスやマリア像。内向的な人間が「神の力」によって理不尽に立ち向かう心をむき出しにしていく様を、彩度の低い画面で粛々と見せつけていたのが強く印象に残った。
なりすましがバレてしまいボーヌスと対峙するダニエル。むき出しにした反抗心にはもう「静かな」という言葉は当てはまらない。少年院から立ち去るダニエルは無言ではあるが、血に塗れて目を見開いた表情が言葉にならないダニエルの感情を強烈に吐き出していて、凄まじいラストカットだった。
◯カメラワークとか
・何と言ってもラストカット。静謐を感じる彩度の低い画面が終始続いた最後に真っ赤な血と青く輝く瞳の色。強烈だった。
許しとは。
身分確認せずに思い込むのはね。神父ってなるの大変だから成りたい気持ちだけでは無理だし。身バレ後の対応が思ったより穏やかで良し。彼の行いは人の絆を繋いだけれど。彼のその後を知りたくなる。人は善にも、悪にもなれるよね。良い映画だった。
赦されない?
犯罪者は神父になれない。この決まり、結局、彼がどんなに信頼されている神父だろうと赦されない。赦す=愛するならば、彼は愛されない。死亡事故を起こした当事者の妻でさえも赦されない。何だか救いがない終わりた方。
聖職者たる資格
前科を隠し、偽聖職者になるダニエル。そんな彼が、刑務所仲間に見つかり、脅される羽目になる。もちろんその脅迫に乗らなければ、また刑務所に逆戻りだ。
果たしてどうするのか、嫌な予感がした。聖職者という仮面を脱いで、その脅迫者を排除してしまうのだろうか。善悪に揺れる振り子のように、緊張感いっぱいの展開だ。
しかし、彼は意外にも、聖職者たる自分の意思を貫いた。その脅しに乗らず、周辺の反対を押し切って埋葬を強行する。聖職者とは資格の問題ではなく、信条だと思う。その瞬間、ダニエルは、資格はないが、十分聖職者だった。
聖なる善悪者
映画の世界では時に、偽物や替え玉や成り済ましが活躍したり、本物以上に周囲を魅了する事がある。『サボテン・ブラザーズ』『バグズ・ライフ』『ギャクシー・クエスト』『影武者』『ディア・ドクター』『王になった男』…。
本作は衝撃。
ポーランドの実話が基。
少年院に服役中の青年、ダニエル。そこで人生を変える出来事が。
訪れる神父トマシュの影響で、熱心なキリスト教信者に。自身も聖職者になりたいと願うが、前科者は聖職に就けないという壁にぶち当たる。それでも諦める事が出来ず。
仮釈放。ダニエルは少年院から遠く離れた小さな村の製材所で働く事に。
村には教会があり、立ち寄る。そこで一人の少女マルタに「司祭だ」と身分を偽った事から…。
すぐバレるに決まってる。
聖職者を偽るなんて…。
しかも、前科者が…。
ところが…
何の怪訝もなく受け入れられる。当の本人がビビって、逃げ出そうとしたくなるほど。
村には元々皆から尊敬される神父がいるが、急な病で倒れる。
そしたらこれまた急に、神父の代理を頼まれる。
俺に出来る訳ねーだろ!
これも嘘付いた罰なのか。もう、やるしかねぇ…。
一発でトチる、すぐ化けの皮が剥がれる…かと思いきや、たどたどしくはあったが、何とか大役を果たした。
いや寧ろ、ダニエルの“神父ぶり”は非常に好評。
元の神父が入院する事となり、本当に“代理”どころじゃなくなる。
告解にも連日村人が訪れる。無論ダニエルは、神学校など行った事ない。関連本やスマホを見ながら。
教会での説教。時に突飛で独特。が、それが固定観念に縛られず、村人の心に響いていく。
聖衣を脱げば、ジャージ姿。煙草を吸い、村の若者たちと酒を飲み交わす。ラフでフレンドリー。
気が付いたら彼は、村には欠かせない存在になっていた。
改めて言うが、彼は村人は本性は知らぬが、“突然現れた前科者”だ。
何故そうも簡単に偽れた?
ここが田舎で、村人が単純だから…?
ダニエルが悪質で、巧妙な手口だから…?
いや、そうではあるまい。
ダニエルは本当に熱心な信仰心を持っていた。
心から村人たちの助けになりたかった。
村人たちも苦しみ、悲しみ、罪の告白…助けを欲していた。
その2つが因果的に結び付いたのだ。
それを象徴するような事件が一年前、この村であった。
一年前、ある男が運転する車が事故を起こし、本人は勿論、乗っていた若い男女6人も亡くなるという悲しく痛ましいもの。
その中には、マルタの兄も。
この事故は今も村の後遺症として重くのし掛かっている。
村はとても静かで穏やか。が、何処か悲しい雰囲気漂う。
その原因が、この事故。
しかしその悲しみの中に、怒りや憎しみも孕む。
無論その矛先は、事故を起こした男。
村には亡くなった若者たちの写真が祭壇に飾られているが、男のだけ飾られていない。
男には妻がいるが、村人たちから完全疎外、孤立。それ故妻も村人たちに反抗的。
村を蝕む問題、闇、病…。
ダニエルはマルタと共に解決しようとする。村人たちや男の妻と真っ正面から向き合い、詳しい話や告解や赦しも…。
が、この事が村中に波紋を投げ掛ける…。
触れてはならない部分、一線越えてはならない部分、タブー、足を踏み入れてはならない領域に土足で踏み込んでしまった。
それまで村人たちから信頼や尊敬を集めていたダニエルだが、厄介者扱いされていく。
傲慢な町長とも対立。
ダニエルは男の写真も祭壇に飾り、男の遺骨を墓地に埋葬し、葬式も上げる。この村で、村人の一人として。
村人のほとんどが反対。
それでもダニエルは諦めない。自分は間違っていない。信念を持って。
その数日前、町長が運営する製材所オープン式にて…
工員の中に、見知った顔が。
その男と出会った場所は、少年院…。
案の定、あっちにもすぐバレていた。
定番の脅迫。金の要求。
もし、村人たちに自分の素性がバレたら…。
しかも、今このタイミングで…。
精神を追い詰め、すり減らすほどの2つの問題。
これもやはり、身分を偽った罰なのか…?
しかし、主よ。信じて下さい。心は決して偽っていません…。
まだ40歳。静かではあるが、一貫して緊迫感途切れぬヤン・コマサ監督の演出に引き込まれる。
弱冠29歳。実話を基に、信仰、罪、赦し、事故や部落内での差別、人の本質を問う。マテウシュ・パツェビチュの卓越した脚本。
弱冠29歳。慈悲に満ちた表情、穏やかな佇まい…“神父”の時の顔と、目を見開き、狂気すら滲ませる“犯罪者”の時の顔の演じ分け。バルトシュ・ビィエレニアが圧倒的な存在感と演技力。
凄まじい才能の3人!
村人たちの反対を押し切り、遺骨を埋葬。村人たちの冷ややかな目。
その後、葬儀ミサを行う予定だったが…、思いもよらぬ人物が現れる。
“ダニエル神父”もここで終わり…が、逃げ出してまで、教会へ。
最後の説教。突然の行動に出る。
これまで多くの人たちの罪の告白を聞いてきた。
が、告解していないのは、唯一自分。
全てをさらけ出す。
ラストはある場所にて。
衝撃の事件を起こす。その時の狂気に満ちた表情…!
やはり彼は、悪人なのか…?
悪人である。
善人である。
善の顔と悪の顔。
どちらが本当なのか…?
どちらも本当なのだ。
ダニエルに限った事じゃない。村人たちも。
それは罪なのか…?
否!
誰しも善=強き心、悪=弱き心を持っている。
だから、罪を犯してしまう。
だから、赦しを乞う。
だから、赦す事が出来る。
だから、愛する事が出来る。
人が人である所以。
犯罪者になるのも、聖人になるのも、立場次第。
ポーランド映画祭2020の出展作品。ポーランド映画祭の成果なんでしょうね。ここ数年、結構ポーランド映画を観てますが、これは結構好き。クールさを通り越した暴力的なラストが印象的でした。
ひょんなことから田舎町の小教区の教会の司祭代理に収まってしまったダニエルは、少年院を訪れていた神父である「トマシュ」の名を名乗り、「トマシュ」を模倣して神父になり切ろうとしますが。彼がミサで行う「お説教」は、まるで新興宗教のそれ。逆に人々の心に刺さります。
新鮮なミサのふるまいと言葉や告解の対応で、一定の人気を得るダニエル。彼自身が抱いてきた、信仰とイエスキリストの言葉への疑問は、信者への言葉と態度に現われます。が、最後は「祈る」と言うダニエルの姿勢は、人間らしさが匂いたち、更に人々の心を惹きつけて行く。
村で起きた交通事故の加害者とされる男、被害者とされる若者たち。そして、各々の遺族の対立と村八分。真相らしきものを知っているのは、被害者の妹。ちょっとだけ推理小説もどきの展開に入ります。
少年院仲間に見つかってしまった事がきっかけで、身バレしてしまったダニエルは少年院に逆戻り。決闘相手を殺してしまい、火を放たれた少年院の建屋から逃げ出そうとするシーンで物語はお終い。
どれだけ祈ろうが、神は人々に何ももたらさない。と言う「沈黙」と同じ構図の悲劇。なんだけど。心の傷をいやしてくれるのも祈り。大上段から高説垂れる映画じゃありませんでしたが、宗教の効果に関する一面性(村の人々の傷をいやしてくれた)や、その限界(村を離れて行くマルタ/ダニエル自身の暴力性)を身の丈の視線で描いた小品。
犯罪者であり聖人でもあったダニエルは、まぎれもない「一つの人格」であり。立場次第で、誰もが、そのどちらにでもなり得ると言うところが興味深かったし、そういうことを際立たせたかった映画なんだろうなぁ、って思いました。
良かった。結構。
罪はどうすれば許されるのか?
若い罪人である主人公は少年院に入っている
地方の製材所で働く約束で外に行くがちょっとした嘘がきっかけに
聖職者として嘘をつき続ける羽目に陥っていくが...
罪はどうしたら許されるのだろうか?
そして自らが罪人だからこそ理解できる罪に対する考察
それを有効に使い、聖職者から逸脱した人間として
村人と交流しその意識も変えてゆく
しかし過去は許してくれない
同じ少年院の仲間が来ることによって状況が変わってゆく
また少年院仲間と普通に飲酒したり
女性と普通に交わっている事で
聖職者としての道を歩むわけでないのが示唆されている
この主人公はそう考えると宗教を自分の都合の良い様に利用してるだけであり
そう考えると普通の聖職者ではあり得ないのがわかる
なりたくてもなり得ないんだろうと思う
結局正体がバレ、少年院に連れ戻され因縁の相手と決闘する羽目になる
勝利し走り出す男、いったいそのさきに何が待っていると言うのか?
終わりなき暴力の連鎖、因縁、許されない罪人のイメージ
どこに救いを求めたら良かったのだろうか?
深く考えさせられる物語だった
何が人を導くのか
普遍的なものを描いた物語だと思った。
日本は恥の文化で、西洋(キリスト教)は罪の文化だと聞いたことがあるが、まさにキリスト教の信仰とは何か、ということの本質が描かれているように思った。
誰もが罪深い存在であり、それに苦しんでいる。そして、そこに赦しや救いを与えてくれるのが信仰だ、ということか。
主人公が犯罪者でありながら、みかけが神父であることは、ストーリーが展開するにつれ、実は村人たち全員が似たようなものだということがわかってくる。
表面上は良い子や、善良な人間のようにふるまっていても、誰もが罪を犯している。そして自分の罪に苦しんでいる。
しかしそれだけではなく、それを悔い改める、という聖なる面も持っている。
主人公が悪人である面と、善人である面の二面性を持っていることは、まさにその象徴である。
主人公が神父としてふるまうことができたのは何故か、また、なぜ彼が人の心をうつ説教をすることができたのか。
そこを考えさせることがこの映画の目的なのではないか、と思った。
犯罪者が犯罪者として扱われるだけであれば、彼はそのようにふるまうだけだろう。
しかし、聖者として扱われれば、それは彼にとって変わるきっかけになる。
この、「きっかけ」とは、社会においては信仰がその役割を果たすのではないだろうか。無条件に赦す、無条件に信じる、無条件に愛する、ということは、不合理だし、納得できないこともあるだろう。しかし、一般の理を超えているからこそ信仰と呼べる。
多くの人は、運命論に支配されて生きてしまっている。世の中はこういうものだ、人間はこういうものだ、自分はこういうものだ、という諦めの中に、腐敗や怠惰を受け入れてしまっている。
しかし、「きっかけ」さえあれば、自分を改め良い方向に歩き出すことができることもある。
主人公が人の心を打つ説教ができたのは、彼は自分が犯罪者であるという強い自覚から、体験的に「きっかけ」がどのようなものか理解していたからだろう。自分自身が心を打たれたことをそのまま話していたからだろう。
人には悪人と善人の二面性があり、きっかけが何かによって、悪の面も善の面も現れる。
主人公は神に、「評価するのではなく、理解してください」
と訴える。これは主人公の大人や社会に対する訴えでもあるだろう。
人を変えるきっかけとは、評価や批判や罰や強制などではなく、単なる理解、単に真摯に話を聞こうとするだけでいいのかもしれない。
『聖なる犯罪者』とは余りに安易な邦題。かと言って原題である「boze cialo (聖体)」を上手く日本人に解るように訳すのも確かに難しい。無宗教な日本人には最も理解しにくい内容かも知れない。
①「神はあらゆるところにいる」「どんなに理不尽なことでも全ては神の意思である」等々の台詞があちこちに出てくるが、結局全て神に押し付けて表面だけ繕っているのではないかという気がする。事実、事故の遺族たちは表面は敬虔に祈っているが、心の中では喪失感や哀しみを加害者(かどうかは最後までわからない)とその妻への憎しみに転化していたではなかったか。②ダニエルは映画の中で二度「お前はここにはいなかったんだ。」と言われる。一度目は少年院の神父に司祭と偽っていることがバレたとき。教会としては偽の司祭がいたことが公になるのはヤバかったのだろう。二度目は少年院に戻ったダニエルが決闘の末に相手を殺したとき。少年院で決闘やその上の殺人が行ったことはマズイのだろう。結局最後ダニエルは聖(教会)にも俗?悪?(少年院)にも属せないことになってしまう。③でも、聖と俗との境ってどう線を引くのだろう。この映画は二重構造を取ってその曖昧さに迫っていっているように思う。主旋律は少年院を仮出所した元犯罪者でありながら司祭を騙ることになったダニエルの物語。いつバレるかと冷や冷やさせながらも次第に司祭らしくなっていくダニエル。実はこんなプロットの映画はハリウッド映画に限らずいくらでもある。犯罪者或いはアウトローが人違いされて身分を偽りバレないようにあたふたしながらも段々本物以上に本物らしくなり回りの人に愛され好かれ最後バレても許されてコミュニティの一員となる。この映画でもダニエルが最初に告解に臨んだのは子供の喫煙に腹を立てる度に子供を折檻する母親の懺悔と相談。どうしたら子供の喫煙癖を直せるか、という母親の問いに元(今も?)不良少年のダニエルは的確な答えを与える。ここで「この路線でいくのかな?」と思ったが結局そうはならなかった。④副旋律は村の若者たちを主とした7人の事故死のエピソード。ダニエルは初めは被害者家族の心の癒しに必死になる。しかし、やがてこの事故(被害者家族は殺人と思っている)がどうも見た目とは違うことがわかってくる。無垢な被害者にされている6人の若者たちが決して無垢ではないことがわかってくる。しかし、その証拠を握っているリディアは、ダニエルに証拠の提出を促された時に拒絶し証拠のことなど否定する。傷ついている人達をこれ以上傷付けたくなかったのであろう。⑤一方的に加害者(殺人者)と決めつけられた男妻は村八分になる。しかも村の墓地には葬ってもらえないという(どの宗派は分からないが信者にとっては屈辱的なことなのでしょうね)。ダニエルはここでも立ち向かおうとする。権力者である村長他は折衷案を提示して穏便にことを運ぼうとするからだ。しかし、ここで妻は一方的な村人の糾弾に口をつぐんでいた秘密をついにダニエルに打ち明ける“大喧嘩したあと自殺すると言い置いて出ていった”と。結局事ダニエルの活躍にかかわらず事件の真相はどちらの過失か引き継ぎ闇のなか。それでも遺族感情の中に変化は起きる。加害者と見なされる男の子埋葬式に被害者の一人が参加している。教会を訪れだ運転手の妻にリディアの母(年老いてからのイングリッド・バークマンにどこか似ている)が参列を許す。
あとからどんどん考えさせられる
見終わったときはなんだかな~と思っていたのに、どんどん考えさせられる事柄が出てきて、レビューや評価・監督インタビューなどみて、さらにモヤモヤするモヤモヤ映画
ラストがインパクト強かった。
ラストについてネタバレと疑問
主人は再入所ごの食事の時に祈りをしなかったのは、もう信仰心をすてたのだと思うのですが、ラストの血塗れでのアップがその印象を引き立てていたと思います。
家を追い出された女の子を家に泊まらせたと共に彼女を受け入れたのは自分の欲求よりもあの時は女の子が求めていたのを施したように思えました。
いろんなことに神父として真剣に取り組んでいたのに信仰がなくなってしまったのはなぜなのかすごく疑問でした。
(゚ω゚)偽物は
少年院に服役し仮釈放間近の青年ダニエル。少年院の礼拝に携わり聖職に興味があるが社会では犯罪者はそれにつくことはできないことがわかり意気消沈する日々。仮出所しひょんな事から片田舎の牧師をまかされる。騙し騙しであるが住人の様々な悩みを解決して、村の分断の象徴である村民同士の事故も荒療治であるが解決して信任を得ていくのだがお決まりのごとく彼が偽物の牧師であることがバレる。
偽物はどこまでも偽物なのだが、その偽物に住人は徐々に救われていた。
本当の神じゃなくても人の心は救われるものでキリスト、マホメッド、ダビデがあまり好きではない小生にとっては気持ちがいい映画です。
本物の牧師が彼を見つけて見逃してくれるのかと期待しましたが、さにあらず彼は少年院へ逆戻り。ここがチョット中途半端か?それとラストシーン少年院での決闘シーン勝って血だらけになってその場を立ち去るがアレの意味がよくわからなかったか?
僕には説明の足りない映画でした
この作品をどう評価したら良いのか、正直よく分かりません。
ポーランドという国や社会のことも分からないですし、キリスト教のこともよく知りません。キリスト教の司祭になるということがどういうことなのかピンとこないです。
日本人で無宗教の僕からしたら、司祭になりたいと思う若者がいるものか、と思ってしまうんですよね。なので何で司祭になりたいと思うようになったのか、そこを描いてくれないと何も言えません。説明不足と評価せざるを得ないです。
この映画を観て、前科があっても司祭になれるようにすべきだとか、人は見た目や過去のおこないで判断してはならないといった感想を持つ人は多いと思います。でも僕はその感想には何となく乗れません。何だかふに落ちないんですよね。色々欠落している気がします。
例えばポーランドの片田舎の住民たちの信仰心とか規律の重さとかって無視してはいけないと思うんです。もしかするとこれまでの経歴を隠して司祭になりすますことって、信者にとっては殺人より罪深いことかもしれないじゃないですか。
それにダニエルが司祭になりたいと思った動機って実は不純かもしれないんですよね。尊敬されたいとか、人の上に立ちたいとか、お金を稼ぎたいとか。で、ダニエルって『自分なんかが司祭をやっても良いのか』っていう葛藤がないんですよ。そんなことに悩んでる司祭なんてほとんどいないよと反論されるかもしれませんが、ダニエルにはその葛藤があって然るべきなんですよね。だって普通の司祭なら当然持っているはずの資格を彼は持ってないんだもの。ダニエルが敬虔なキリスト教徒で、純粋で、正義に篤い人間ならば、そうであればあるほど、なければならない葛藤だと思います。
そういった葛藤と闘った上でなお「それでもダニエルのような人間に聖職者になる道を作るべきだ」ならまだ評価ができるのですが、残念ながらその葛藤は描かれていません。
やっぱり説明不足というか、必要な情報が提示されていない。説明不足に思えて仕方ないです。
とはいえポーランドやキリスト教圏の人にはそんな説明要らないんだろうなとも思えます。日本人の僕には刺さりませんでした。
罪を犯した者の存在の浄化、猜疑心の深さを示す作品です。
刺激的な感じで興味があって観賞しました。
コロナ禍で映画館もレイトショーは中止。なかなか厳しい状況ですが観賞した「ヒューマントラストシネマ有楽町」は結構な客入りです。
で感想はと言うと、まあまあw
R18+で刺激的なタイトル。ポスタービジュアルも何処かミステリアスで内容もゾクゾクする感じのバイオレンス&ミステリアスな感じで考えてましたが、思ったほどバイオレンスでは無かったかな。
主人公のダニエルは司祭になる事を夢見ているが前科持ちは聖職に就けない為、少年院仮釈放後は製材所で働くがどうにも司祭への夢が諦めきれない。
ふと立ち寄った教会で自身を司祭と偽った事から、代理司祭を頼まれ、村で過去に起こった事件を掘り返す事で様々な事が動き始める…と言うのが大まかな流れ。
簡単には言うと成り済ましですが、そこにいろんな事件と苦悩が描かれてます。
前科持ちであっても聖職を希望すると言うのは別に悪い事でもないし、あってもおかしくないがなんかその違和感と言うか、ギャップが面白い。
「二代目はクリスチャン」「親分はイエス様」と言う暴力と宗教の組み合わせの作品もありますし、織田信長時代の比叡山延暦寺の僧侶はかなりの悪行をやっていたと聞きますが、どちらにしても宗教に暴力の組み合わせはなにかが起こりそうな異質感がありますよね。
ダニエルは改心したと言うよりは本心は変わらずとも、神に支えたいと言う気持ちで聖職者を希望し、また偽って司祭を名乗るが気持ちの偽りは無い。
ただ、司祭として振舞う村が色々とある感じ。
でもドス黒いかと言えば、そこまででは無い。割と田舎にありがちの臭い物に蓋をしたがる事件なので普遍的と言えば普遍的な村。
良い点は必要以上に脚色をしていない所ではあるけど、作品として難点があるとすると割と普通と言えば普通な村で普通な人達。何処か排他的なのは多分村社会では結構普通w
ダニエルも犯罪を犯しているが、少しハミ出し気味と言うぐらい。
その辺りがエンタメ色が薄い感じがしなくも無いかな。
また、この作品のラストが少し難しい。
少年院の同僚でダニエルの過去を知る男の出現により、司祭の夢を諦めたダニエルが少年院に再収監され、決闘し、勝利した所でエンド。
人は神に支えても変わらないとも取れるし、罪は輪廻するとも取れるだけに割とバッドエンドな感じ。
また、勝利した後にダニエルが出た扉の先が外の様な感じなので、現実か想像なのかが曖昧でこの辺りが個人的には分かり難くて、作品の感想が難しいんですよね。
全てを明らかにしなければいけない訳ではないんですが、犯罪者が聖職につくと言う時点で割と現実感が薄くて、何処か霧が掛かった様に曖昧な雰囲気が無きにしも非ずなイメージなので、実は全てダニエルの思い描いた幻想でした。みたいであってもなんか納得する様にも感じられる。
いろんな解釈をしても良いにしても、ちょっとこの辺りで評価が分かれる感じですかね。
ダニエルの苦悩も感じ取れるが、ダニエルが少年院に収監される容疑と言うか、どんな罪を犯したのかが分かるともう少し共感出来たかなと思います。
個人的に面白かったのは「トップガン」の挿入歌の「愛は吐息のように (Take My Breath Away)」が劇中に流れた所。
別に流れてもおかしくないんですが、ポーランド・フランスの作品でアメリカの80年代の映画の挿入歌が流れているのがなんかニヤッと来ます。
罪を犯した者を赦す事が神に支える者ではあるが、罪を犯した者を支える事は赦せない。
近くに置く事は寛容出来ない建前と本音に人の条理と不条理。猜疑心の緩やかに濃く描いています。
第92回アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた実力派の作品で骨太な感じではありますが、面白かったと言うよりかは、ズッシリとした作品を観たって感じです。
正月明けの上映作品では本命に近い作品なので、ご興味があれば如何でしょうか。
ひとを殺した罪で少年院で服役中の二十歳の青年ダニエル(バルトシュ・...
ひとを殺した罪で少年院で服役中の二十歳の青年ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)。
院内では看守の目を盗んでの暴力・暴行沙汰が横行している。
そんな彼がひとつだけ心安らぐ場は院内教会での祈りの場。
トマシュ神父(ルカース・シムラット)の影響で熱心なキリスト教徒となるが、前科者は聖職者になれないという決まりがあった。
釈放後にダニエルが訪れた更生施設兼製材所は少年院と同じような雰囲気があり、馴染めそうもない。
そんな彼が足を向けたのは村の小さな教会。
その教会は、老神父に持病があり、老神父を補佐する若い神父の到着が待たれていたが、ダニエルは身分を問われて「トマシュという名の神父だ」と答えてしまう・・・
といったところから始まる物語で、個人的には好きな「なりすまし」ジャンルの映画。
この手のなりすまし映画だと、なりすました側の行動・言動により、周囲のひとびとが影響を受けていくのが定石で、この映画でもそのように展開します。
パンク青年然とした風貌と自由な言動から宗教者としては型破りだが、老神父の代わりを務めた説教をきっかけに少しずつ村人のこころをつかんでいくようになる。
そして、一年前、村では6人の青年が犠牲になった自動車事故があったことを知り、残された家族たちは、事故相手の中年男を加害者として酷く恨んでいることを知る。
しかし、加害者と誹られている男も事故で死んでおり、残された彼の妻は、夫もまた事故の被害者だと信じている・・・
この村人たちとの関係の中で重要なポジションを占めるのが、犠牲者6人のうちのひとりの遺族で、母親と妹マルタ(エリーザ・リチェムブル)。
母親は老神父の秘書のような仕事をしており、マルタは教会でダニエルにはじめて逢った人物で、彼女はダニエルに自分と同じような匂いを感じている。
すなわち、どことなく漂う「悪」というか「背徳」というか「後ろめたさ」とでもいうべきもの。
彼女がいることで、この映画に深みが出てき、それは終盤明らかになる自動車事故の真相と、ダニエルとマルタのより深い関係に、ある種の共犯関係のようなものが滲み出てくる。
最終的には、教会に本物のトマシュ神父が現れ、ダニエルの本当の姿も村人の前に示されることになるのだけれど、このシーンはかなり強烈。
ジャンルは違うが、『狩人の夜』のロバート・ミッチャムや『ケープ・フィアー』のロバート・デニーロを思い出すかもしれません。
ひとによっては、セルゲイ・ポルーニンかも。
ふたたび少年院に収監されることになったダニエルの顛末、そこでのワンエピソードは人間の業のようなものを感じさせるもので、単純な正邪・善悪では割り切れないものを感じました。
シェイクスピアの『マクベス』冒頭の魔女の台詞、「きれいは、きたない。きたないは、きれい」を鑑賞後数日たって思い出しました。
更生してない( ̄▽ ̄;)
罪を犯した若者が全く更生してないことに闇を感じる。日本でも同じなのかなぁ?
事故の真相がなかなか明かされなかったのが、視聴者を引き付けてよかったと思う。
主演のバルトシュ・ビィエレニアの顔つき、細さが良くて、いかにもヤバい奴になってた。あと、濡れ場もあった(笑)
結局事故原因はよく分からなかったし、登場人物が見分けられずストーリーを理解しづらかった。
ダニエルは少年院に戻るけど、マルタはどこに行ったのかな?タクシーを使ってないから知り合いの車のようだけど。
スワヴェクの妻が教会に行くと、遺族から受け入れられたのは良かったのかなと思うけど、それを見せてどういう意味があるかは分からなかった。つまりこの映画の主張が分からない。そもそもこの映画に主張が無いのかもしれないけど、俺なりに解釈すると、環境を変えることは難しいって事なのかな。ダニエルは更生してないし、悪い人は寄ってる。再び少年院に戻ると決闘したり等。でも、スワヴェクの妻は孤立から解放されそうだったし、希望はあるってことかな。キリスト教の考え方やしきたり、聖書の内容に詳しければ違う見え方が出来る映画だと思う。日本人では難しい。
主人公ダニエルは過去に殺人を犯したことがあり少年院に入っていた。少年院ではノコギリで木材を切ってるので、ここに入所した者は退所後は製材所で働くように訓練するようだ。
ダニエルは少年院を退所する。教官から酒と薬に手を出すなと忠告されているにも関わらず、真っ先に手を出した。そして女を買ってセックスに夢中だ。
製材所は田舎にあるが、ダニエルはその町に着くと製材所に行かず教会に行った。教会にいた女性マルタに身分を偽ったことをきっかけに、田舎町で神父として過ごすことになる。
田舎町では1年前に事故死した6人の若者が献花されている。その事故で亡くなったのは7人で何故か1人少ない。何が起きたかは、シナリオが進むに辺り、徐々に解明されていく。
事故内容は6人が乗車した車と男性スワヴェクが運転する車の衝突事故だ。原因はスワヴェクは飲酒運転と判断され遺族である妻は町から孤立していた。スワヴェクの遺体は火葬されたものの町から拒否されているので、町の墓地に埋葬されず妻の家に保管されている。
妻の話では、スワヴェクは禁酒生活をしていたので事故後の解剖で飲酒は認められなかった。では、何故悪者にされたのか?そこは分からなかった。
マルタの兄は事故死した6人の1人だ。事故直前に兄から送られた動画では、若者たちは薬と酒を飲んでいた。このことから事故原因は若者側にあるように見える。乗車人数が6人と言うのも多過ぎる。
ダニエルとマルタはスワヴェクの妻の家を訪れると、妻宛て(またはスワヴェク宛)に書かれた手紙を見せられた。罵詈雑言の手紙の中にはマルタの母のものもあった。
ダニエルとマルタはその手紙を毎日のように献花台で祈る遺族に見せつけた。マルタはその夜ダニエルの家を訪れ二人はセックスをする。
ダニエルは神父業を上手くこなした。ある時はスマホを片手にカンニングしながら。
ある時、製材所の社長が新しい工場を作ったから上棟式(みたいなもの)を依頼された。そこに行くと少年院にいた若者が働いていた。
ダニエルはマズいと思ったが、案の定その若者にバレてしまう。ダニエルは若者からお金を請求された。後にこの若者は少年院の教官にダニエルの事をチクる。
皆の前でダニエルはスワヴェクの葬儀を行うと言う。葬儀直前に教官がやって来て、今すぐ町を出るように促される。ダニエルは教官の目を盗んで葬儀を開くと、参列者の前で上着を脱ぎ自分をさらけ出して教会を出た。
再び少年院に戻ると、ボーヌス(少年院にいた頃から何故か憎まれてる)と決闘を行い勝利した。どちらか負けた方が死ぬのが前提なのだろう。ボーヌスごと、建物に火をつけた。
過剰、、、
善きか悪しきか、、、
この主人公はどっちも過剰にあったのでしょうか。
登場人物も良いようで悪いような人ばかり。悪いだけしか描かれてない人もいたけど。。。
おそらく見様見真似ではできないであろう神父業をこなしていたんだから、よっぽど神父になりたかったんだろうなぁ。
でもそれもちょっと過剰。
良いことをするつもりでも過剰。
ヤクでバキバキにイッちゃってる時の目が恐ろしくて忘れられない!!
一瞬たりとも気の休まることの無い、良い映画でした。
人にはいろんな側面がある
少年院を出所した後、身分を偽って神父として働き始めた青年を描く。
酒とドラッグは辞めろと言われたのに出所してすぐさまクラブに行って酒飲んでドラッグやって女の子とセックスしてる姿に笑ってしまった。神父になりすますきっかけも、製材所の仕事を見て嫌になったからだし。聖職者としてはふさわしくない。
でも実際に神父として仕事を行ううちにそれらしい所作や表情になるから不思議。結局バレてしまいその町を出ることになるのだが、いろんな人の救いになっていたという終わり方は嫌いじゃない。
犯罪者でも聖職者として人を救うことができるし、普通の住人に見えた人たちが根拠のない言葉の暴力を投げかけていたということか。なかなか考えさせる内容だった。
ただし、終わり方が今一つだった。少年院であんな感じで火をつけて逃げ出すことができるのだろうか。わかりづらくてモヤモヤした。
赦すことは愛、という言葉が身に染みる。
ダニエルは神父に憧れるあたり、根っからの悪人ではないみたい。
ひょんなことから村人の告解を聞けば、彼なりのアドバイスも出来ちゃうし…見どころがあるようで、でもどこまで信用できる?と半信半疑でスクリーンを見守る。
半ば過ぎはダニエルには神父が向いている!と感嘆の思いで眺めている。説教と行動が情熱的!
前科者は神父に就けないと誰が決めたのかな?聖書にあるのかな。
許すことは愛、というならダニエルを許せば彼は自力で更生したろう。
ダニエルは法律的には罪を償ったのに、社会的な制裁は終わらないんだね。天職に思えた神父にはなれない、この世の仕組みが疑問。
なにか救いはないのか…?
でもダニエルが再出所後に清く生きてくれれば、神父にならなくたって
意義のある人生だとは思う。
彼は、権力者ではなく助け手になりたい人だから。
【若き"司祭"が、ある田舎町で行った事。聖と悪、憎しみと赦しの対比を冷徹な視点で描いた作品。淡い緑の色調をベースにした作品の世界観が、蠱惑的な作品でもある。】
■印象的なシーン
・ダニエルが、少年院を仮出所した際に立ちよった町で、偶然が重なり、憧れの司祭として、徐々に町の人達の信頼を得て行くシーン。ダニエルの”人から認められ、受け入れられて行く自己”に対し、喜びを隠し切れない表情。
ー 彼は、少年院でミサを司るトマシュ司祭の片腕であった。その司祭の服を戯れに着たダニエルが、その端正でソリッドな顔つき、知性を感じさせる”眼”により、若き聡明な司祭に見えてしまう・・。-
・町の道の脇に供えられた祭壇。若者6人の顔写真。興味を持ったダニエルが、司祭の娘マルタから聞いた、悲惨な自動車事故。若者達の親が、祈る姿。だが、祭壇には事故を起こした男の写真が、ない。
- ミステリアスに物語は進む。マルタがダニエルだけに密かに見せた、亡くなった兄からの事故の2時間前のラリった6人の若者達の姿。-
・事故を起こした男の妻は、村八分状態で、男は墓地への埋葬も、息子を失った司祭から、許されていない。
- キリスト教でなくても、埋葬を許されないというのは・・・・
町の人達の激しい怒りが分かる。-
・ダニエルは、マルタと男の妻の家を訪ね、町の人達からの激しい怒りを記した紙切れの束を預かる。ダニエルは"男を埋葬する"と町の人達に一方的に告げる。
- 始めは、現況から逃避するため、憧れの司祭になるためだったダニエルの善性が、発露するシーンである。
町の人達も戸惑いを隠せないが、ダニエルの
”立派な司祭としての数々の説教”
を聞いて来た過程で、彼を尊崇する念を抱いているので、反発できない。
そして、男の埋葬の日、祭壇の前に立っていた6人の若者の母親の一人が、参列にフラフラと参加する・・。
ダニエルの行為が、町の人の憎しみの心を少しだけ、解きほぐした瞬間である。-
・ダニエルのかつての少年院仲間が、”告解”に来て、彼に告げた事。
そして、ダニエルが教会のミサに集まった町の人達の前で、イエスの像を仰ぎ見、司祭の服を脱ぎ、入れ墨が掘られた上半身 ー【真実の姿】ー を曝すシーン。
そして、教会を後にする彼に対し、病に倒れた本来の司祭の妻が、掛けた言葉。
- 既に立派な司祭になっていた彼にとって、過去の自らが行った事を考えると、司祭である事は、”自分自身にとって”許されざることなのであろう、とあの行為を私は解釈した。ー
・少年院に戻されたダニエルが、且つて殺してしまった弟の兄ボーヌスとの、血みどろの決闘のシーン。
血だらけの顔を上げ、ぎらついた目で周囲を見るダニエルの顔付は、もはや町で尊崇の念を抱かれていた司祭の顔ではなかった・・。
<彼にとって、偽司祭として、町の人々の憎しみを解きほぐす道を歩んだ方が良かったのか、それとも、きちんと罪を償うため、少年院に戻った方が良かったのか・・。
観る人にとって、解釈は別れるであろう・・。
ダニエルを演じた、バルトシュ・ビィエレニアは初めて見たが、彼の”眼”による存在感とこの映画全体に漂う、独特の淡い緑の色調と見事な作品構成は、暫く忘れられそうもない。>
輪廻
生きることを苦行と定義するならば、生まれ変わって生きることも苦行、まさに輪廻とは苦しみの無限ループである。
本作品の主人公ダニエル君は生きながらにして輪廻を味わう。
そう、殺人をする人間は、また殺人をするに帰する。
結局、人は救われないのか?
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