「権威社会の顛末」聖なる犯罪者 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
権威社会の顛末
事実に基づく物語だけに、結末が作為的でないところがこの作品の余韻として響き渡ってくる。
ダニエルが最終的に逮捕されたことで彼のした事実が公表され、この作品ができたと思うが、そこにあるのは「彼のしたことは間違いだったのか?」という問いかけだ。
事実に基づく作品ならではのこの問いかけは、神よりも「罪とは一体何か?」を問いかけているような気がしてならない。
警察がダニエルに神父の免許の確認や、少年院の神父の訪問、神父が恐れる司祭とかローマ法王庁とか、いわゆる「権威」が述べられているが、それと神と一体何の関係があるのだろう?
勝手気ままなことをしてるのは誰だろう?
ダニエルは神学校へ行くことを希望したが、「神学校は少年院に入ったことのある人物はいけない」と神父が答える。そもそも聖職者なるものがそんな規定を設けることなど考えられないと思うのは日本人だけだろうか? ここに一般社会における罪という概念の大きな落とし穴があるように思える。彼らにとって「罪を犯しそれを償った」としても、その罪人は未来永劫許されることはなく、罪人というレッテルを貼られるし、貼っている張本人たちが作った社会だ。
さて、
物語では、ダニエルは病気入院した司祭の代わりに期限付きで代役を任された。
ダニエルは少年院で感じたことを町民に伝えるが、そこには普遍的な生きた言葉があり、人々はそれを受け入れていく。
特に、少し前に交通事故で7人が死亡したことがこの街の大きな出来事となっていた。
しかし人々は事故の原因を運転していた人物一人の所為にして、献花台に彼の写真を飾ることを拒否し、また教会の墓地に埋葬することも許さなかった(通常よそ者と罪人はそのようにする習慣がある)。
運転手の妻宛てに、町民それぞれが彼らを罵るような言葉を書いた手紙を出し、自宅には落書き、彼女は外にも出られず鬱状態で生きている。
どこにでもありそうで一般的なことかもしれない。
そしてそのようにしたのは住民の意向であり、それを入院した司祭も受け入れている。
これが制作者が訴えている「キリスト教社会」の是非だろう。
ダニエルは行事の時に寄付を集めた。そしてこのお金で運転手の葬儀を行い遺骨を埋葬することを皆の前で宣言する。町長が「権威」を使いダニエルを脅迫する。言葉通りに放火するが、彼は意思を曲げない。
事故は運転手だけの所為ではない。動画には7人が大麻を吸って酒を飲むシーンが映っていた。
ダニエルはその映像を他者に見せるのを拒む女性の心境を鑑み、それ抜きで町民が運転手の妻に対してした所業を問う。
葬儀には苦情と黙殺、しかし当日それを決行する。
葬儀の参列にほんの数人の町民が参加したことは、彼の大きな功績だと思う。
ダニエルは神父という立場になったことで本当の調和がどこにあるのか探し出し、それを行うという本当の神父の仕事をしたのだ。
町長の持つ製材所が増資された。そこにいたのはかつて少年院の仲間。彼はダニエルを脅し、お金が取れないとわかると少年院に連絡してダニエルが偽神父になっていることを密告する。
あの神父が街にやってきてダニエルに暴行する。そしてこれを法王庁に上げれば私も罪に問われると言ってダニエルに口裏合わせの工作を強要する。
再び少年院へ戻ったダニエルは、彼を憎む男と決闘させられ、彼を半殺しにする。同時に仲間たちに外に放り出され、脱獄犯となるところでエンドロールになる。
神の名のもとにある狂った社会、世界。
神が問うていたのは、キリスト教社会がダニエルをどのように扱うのかだろう。彼を罪人とみなすなら、それにかかわったすべての人間は神の名のもとに許されることはない。
そのような製作者側の声が聞こえてくるようだ。
の作品から学ぶべき点はとても多く、凝り固まった人々の思考が一番怖いと思った。
コメントありがとうございます😊
そうですね。ダニエルは強い孤独感からキリスト教信者にハマって行ったのではと思ってしまう。
ラストに神父がやって来て、彼は誰も傷つけていない、町の住人の心を少しでも開き葬儀を開いた事を神父が話を聞き認めてあげたら、ラストは少しでも変わっていたのか?なんて思ってしまいます。