「権威と形式と信仰と・・・」聖なる犯罪者 pipiさんの映画レビュー(感想・評価)
権威と形式と信仰と・・・
4世紀。キリスト教がローマ帝国の国教になった時より教会に政治要素が色濃く入り込む。帝国皇帝すら教会員としたローマ教会は権力を増し、他の教会を屈服させた。
その後、中世には皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たす。
強力な権力を得たカトリック教会は腐敗し、厳し過ぎる戒律は守られず、システムとルールは形骸化していく。
しかし、現代のありとあらゆる「組織」も似たようなものではないか?
「権威」には逆らわず、形骸化したシステムに疑問も持たず、教えられたルーティンワークをこなすだけの者は決して少なくないと思う。
しかし、本当に人の心を動かす事が出来るのは「形式」ではなく「本質を捉える事」だ。
ダニエルの務めた告解やミサは、形骸化した説教よりも人々の心を揺り動かし、救いを与えた。
うがち過ぎた邦題が映画の本質を誤解させる事例が多いと感じるが本作もその一つだ。
原題「Boże Cialo(ボジェ チャウォ)」は日本語では「聖体節」
クリスマスのミサで信徒が聖体(ホスチア、キリストの体を意味する素朴なパン)を頂くシーンを知っている人は無宗教を自認する日本人にも沢山いるだろう。ホスチア拝領自体は日常的に行われるが特に意味を強調する為、1264年に教皇庁が聖体節を制定した。まぁ、イースターやハロウィンのような「宗教的祭日」だと理解すれば良い。ポーランドでは満9歳で聖体拝領が許されるので見事な刺繍の施された民族衣装でパレードに参加する。
そう。ダニエルが安息の未来を捨てて、自ら信仰する正義に従い「運転手を共同墓地に葬る」と宣言する日こそが「聖体節」だ!
町民の信頼を勝ち得たダニエルは「余計な事」さえ言わなければ、そのまま司祭の椅子に収まっていられた。
町の最高権力者である町長・兼・製材所オーナーのバルケビッチがダニエルの正体に気付いた上で、アル中司祭より使える奴だと判断し計算高く見逃しているのだから。
バルケビッチはダニエルに選択を迫る。大人しく権威に従う事を勧める。
ダニエルは反論する。
「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」
しかし、バルケビッチは悠々と嘯く。
「そう。あなたが正しくとも、権力は私にある」
けれどもダニエルは権威・権力に逆らい、自ら信仰する「正義」を貫くことを決めたのだ。
ダニエルの「正義」は、権威に麻痺させられた町民には通じない。けれども、ごく一部の「本質に揺さぶられた人々」の行動は変化する。
その最たるものはダニエルが実現させた「運転手の葬列」に、犠牲者(であるはずの)親族の1人が参加する場面だろう。
私達も「権威が作り上げた正義の虚像」に惑わされてはいないか?
例えば、ダニエルが事故被害者家族にレクチャーしたノウハウは、少年院で習ったれっきとした精神医学のカタルシス療法だと思うが、どうも日本の活字媒体においては「新興宗教的」という文字が目についた。(映画comレビューもしかり)
精神医学なら善で新興宗教は悪か?
タバコ、酒、女は悪で、禁欲は善か?
クラシック曲は善で、ロックは悪か?
バイクやタトゥーは悪なのか?
法律はすべて正義か?
悪法を是正する努力は悪なのか?
そんなバカな話があるか!
ダニエルが善か悪かだと?
「完全に善なる人間」などいるものか!そんな奴が存在するならば、それはすでに「人間」ではないだろうさ。
禁欲は決して更生の指標にはならない。
人生楽しまにゃ生きてる甲斐がないと、亀仙人も言っている。
人間は弱くて強い。
優しさも愚かさも弱さも強さも内包しているのが「人間の真実」ではないのか?
形骸化した「神」を信じる事が信仰なのではない!
自らが本当に正しいと感じる事を大切に出来る心こそが「信仰」だと思う。
大衆心理が作り上げた「ふわっとした善意」を信じる事が善なのではない。
この世の真実の1%すら解き明かしていない脆弱な「科学」によるエビデンスを信じるのは、古代〜中世の人々が神を妄信するに等しい!
それこそが「権威」に惑わされている現代人の姿だと思う。(商品やショップの「ブランド」も一種の権威)
私達は日々どれほど「権威」に影響されているだろう?
あなたが「自分の意見」だと思い込んでいる判断は本当に正しいか?権威に惑わされてはいないか?
権威に影響されたマジョリティのパワーが「本質的な正しさ」を貫こうと足掻いているマイノリティを潰してはいないか?
終盤、ダニエルは権威に潰され、少年院に戻る事になる。
ボーヌスに反撃する彼を誰が責められよう?そうしなければ命を奪われるのは必至だ。これは正当防衛だ。
これをもって、彼の本質が悪であると断罪出来るのか?
それとも「権威」の犠牲者であると赦せるか?
本作のテーマは、善と悪の揺らぎではなく、「権威と権力に抗い、物事の本質を貫くことの難しさとその価値」だと受け止めた。
ステレオタイプの善と悪に惑わされる時代は、そろそろ卒業しても良いのではないかな。
※蛇足
カトリック教会において「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰は、教会に連なってこそ初めて可能なものとされる。
「教会」は「単なるキリスト教信者の集会所」ではなく「天上の教会の地上における反映である、公同のカトリック教会」を具体的に指す。
だから、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリックは認めない。
ダニエルが「神は教会の外にいる」と言うのも、終盤少年院で食事前に祈りを捧げないのも、形骸化した権威に本質は無いと悟ったからであろう。