「何が人を導くのか」聖なる犯罪者 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
何が人を導くのか
普遍的なものを描いた物語だと思った。
日本は恥の文化で、西洋(キリスト教)は罪の文化だと聞いたことがあるが、まさにキリスト教の信仰とは何か、ということの本質が描かれているように思った。
誰もが罪深い存在であり、それに苦しんでいる。そして、そこに赦しや救いを与えてくれるのが信仰だ、ということか。
主人公が犯罪者でありながら、みかけが神父であることは、ストーリーが展開するにつれ、実は村人たち全員が似たようなものだということがわかってくる。
表面上は良い子や、善良な人間のようにふるまっていても、誰もが罪を犯している。そして自分の罪に苦しんでいる。
しかしそれだけではなく、それを悔い改める、という聖なる面も持っている。
主人公が悪人である面と、善人である面の二面性を持っていることは、まさにその象徴である。
主人公が神父としてふるまうことができたのは何故か、また、なぜ彼が人の心をうつ説教をすることができたのか。
そこを考えさせることがこの映画の目的なのではないか、と思った。
犯罪者が犯罪者として扱われるだけであれば、彼はそのようにふるまうだけだろう。
しかし、聖者として扱われれば、それは彼にとって変わるきっかけになる。
この、「きっかけ」とは、社会においては信仰がその役割を果たすのではないだろうか。無条件に赦す、無条件に信じる、無条件に愛する、ということは、不合理だし、納得できないこともあるだろう。しかし、一般の理を超えているからこそ信仰と呼べる。
多くの人は、運命論に支配されて生きてしまっている。世の中はこういうものだ、人間はこういうものだ、自分はこういうものだ、という諦めの中に、腐敗や怠惰を受け入れてしまっている。
しかし、「きっかけ」さえあれば、自分を改め良い方向に歩き出すことができることもある。
主人公が人の心を打つ説教ができたのは、彼は自分が犯罪者であるという強い自覚から、体験的に「きっかけ」がどのようなものか理解していたからだろう。自分自身が心を打たれたことをそのまま話していたからだろう。
人には悪人と善人の二面性があり、きっかけが何かによって、悪の面も善の面も現れる。
主人公は神に、「評価するのではなく、理解してください」
と訴える。これは主人公の大人や社会に対する訴えでもあるだろう。
人を変えるきっかけとは、評価や批判や罰や強制などではなく、単なる理解、単に真摯に話を聞こうとするだけでいいのかもしれない。