「『聖なる犯罪者』とは余りに安易な邦題。かと言って原題である「boze cialo (聖体)」を上手く日本人に解るように訳すのも確かに難しい。無宗教な日本人には最も理解しにくい内容かも知れない。」聖なる犯罪者 もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
『聖なる犯罪者』とは余りに安易な邦題。かと言って原題である「boze cialo (聖体)」を上手く日本人に解るように訳すのも確かに難しい。無宗教な日本人には最も理解しにくい内容かも知れない。
①「神はあらゆるところにいる」「どんなに理不尽なことでも全ては神の意思である」等々の台詞があちこちに出てくるが、結局全て神に押し付けて表面だけ繕っているのではないかという気がする。事実、事故の遺族たちは表面は敬虔に祈っているが、心の中では喪失感や哀しみを加害者(かどうかは最後までわからない)とその妻への憎しみに転化していたではなかったか。②ダニエルは映画の中で二度「お前はここにはいなかったんだ。」と言われる。一度目は少年院の神父に司祭と偽っていることがバレたとき。教会としては偽の司祭がいたことが公になるのはヤバかったのだろう。二度目は少年院に戻ったダニエルが決闘の末に相手を殺したとき。少年院で決闘やその上の殺人が行ったことはマズイのだろう。結局最後ダニエルは聖(教会)にも俗?悪?(少年院)にも属せないことになってしまう。③でも、聖と俗との境ってどう線を引くのだろう。この映画は二重構造を取ってその曖昧さに迫っていっているように思う。主旋律は少年院を仮出所した元犯罪者でありながら司祭を騙ることになったダニエルの物語。いつバレるかと冷や冷やさせながらも次第に司祭らしくなっていくダニエル。実はこんなプロットの映画はハリウッド映画に限らずいくらでもある。犯罪者或いはアウトローが人違いされて身分を偽りバレないようにあたふたしながらも段々本物以上に本物らしくなり回りの人に愛され好かれ最後バレても許されてコミュニティの一員となる。この映画でもダニエルが最初に告解に臨んだのは子供の喫煙に腹を立てる度に子供を折檻する母親の懺悔と相談。どうしたら子供の喫煙癖を直せるか、という母親の問いに元(今も?)不良少年のダニエルは的確な答えを与える。ここで「この路線でいくのかな?」と思ったが結局そうはならなかった。④副旋律は村の若者たちを主とした7人の事故死のエピソード。ダニエルは初めは被害者家族の心の癒しに必死になる。しかし、やがてこの事故(被害者家族は殺人と思っている)がどうも見た目とは違うことがわかってくる。無垢な被害者にされている6人の若者たちが決して無垢ではないことがわかってくる。しかし、その証拠を握っているリディアは、ダニエルに証拠の提出を促された時に拒絶し証拠のことなど否定する。傷ついている人達をこれ以上傷付けたくなかったのであろう。⑤一方的に加害者(殺人者)と決めつけられた男妻は村八分になる。しかも村の墓地には葬ってもらえないという(どの宗派は分からないが信者にとっては屈辱的なことなのでしょうね)。ダニエルはここでも立ち向かおうとする。権力者である村長他は折衷案を提示して穏便にことを運ぼうとするからだ。しかし、ここで妻は一方的な村人の糾弾に口をつぐんでいた秘密をついにダニエルに打ち明ける“大喧嘩したあと自殺すると言い置いて出ていった”と。結局事ダニエルの活躍にかかわらず事件の真相はどちらの過失か引き継ぎ闇のなか。それでも遺族感情の中に変化は起きる。加害者と見なされる男の子埋葬式に被害者の一人が参加している。教会を訪れだ運転手の妻にリディアの母(年老いてからのイングリッド・バークマンにどこか似ている)が参列を許す。