「【若き"司祭"が、ある田舎町で行った事。聖と悪、憎しみと赦しの対比を冷徹な視点で描いた作品。淡い緑の色調をベースにした作品の世界観が、蠱惑的な作品でもある。】」聖なる犯罪者 NOBUさんの映画レビュー(感想・評価)
【若き"司祭"が、ある田舎町で行った事。聖と悪、憎しみと赦しの対比を冷徹な視点で描いた作品。淡い緑の色調をベースにした作品の世界観が、蠱惑的な作品でもある。】
■印象的なシーン
・ダニエルが、少年院を仮出所した際に立ちよった町で、偶然が重なり、憧れの司祭として、徐々に町の人達の信頼を得て行くシーン。ダニエルの”人から認められ、受け入れられて行く自己”に対し、喜びを隠し切れない表情。
ー 彼は、少年院でミサを司るトマシュ司祭の片腕であった。その司祭の服を戯れに着たダニエルが、その端正でソリッドな顔つき、知性を感じさせる”眼”により、若き聡明な司祭に見えてしまう・・。-
・町の道の脇に供えられた祭壇。若者6人の顔写真。興味を持ったダニエルが、司祭の娘マルタから聞いた、悲惨な自動車事故。若者達の親が、祈る姿。だが、祭壇には事故を起こした男の写真が、ない。
- ミステリアスに物語は進む。マルタがダニエルだけに密かに見せた、亡くなった兄からの事故の2時間前のラリった6人の若者達の姿。-
・事故を起こした男の妻は、村八分状態で、男は墓地への埋葬も、息子を失った司祭から、許されていない。
- キリスト教でなくても、埋葬を許されないというのは・・・・
町の人達の激しい怒りが分かる。-
・ダニエルは、マルタと男の妻の家を訪ね、町の人達からの激しい怒りを記した紙切れの束を預かる。ダニエルは"男を埋葬する"と町の人達に一方的に告げる。
- 始めは、現況から逃避するため、憧れの司祭になるためだったダニエルの善性が、発露するシーンである。
町の人達も戸惑いを隠せないが、ダニエルの
”立派な司祭としての数々の説教”
を聞いて来た過程で、彼を尊崇する念を抱いているので、反発できない。
そして、男の埋葬の日、祭壇の前に立っていた6人の若者の母親の一人が、参列にフラフラと参加する・・。
ダニエルの行為が、町の人の憎しみの心を少しだけ、解きほぐした瞬間である。-
・ダニエルのかつての少年院仲間が、”告解”に来て、彼に告げた事。
そして、ダニエルが教会のミサに集まった町の人達の前で、イエスの像を仰ぎ見、司祭の服を脱ぎ、入れ墨が掘られた上半身 ー【真実の姿】ー を曝すシーン。
そして、教会を後にする彼に対し、病に倒れた本来の司祭の妻が、掛けた言葉。
- 既に立派な司祭になっていた彼にとって、過去の自らが行った事を考えると、司祭である事は、”自分自身にとって”許されざることなのであろう、とあの行為を私は解釈した。ー
・少年院に戻されたダニエルが、且つて殺してしまった弟の兄ボーヌスとの、血みどろの決闘のシーン。
血だらけの顔を上げ、ぎらついた目で周囲を見るダニエルの顔付は、もはや町で尊崇の念を抱かれていた司祭の顔ではなかった・・。
<彼にとって、偽司祭として、町の人々の憎しみを解きほぐす道を歩んだ方が良かったのか、それとも、きちんと罪を償うため、少年院に戻った方が良かったのか・・。
観る人にとって、解釈は別れるであろう・・。
ダニエルを演じた、バルトシュ・ビィエレニアは初めて見たが、彼の”眼”による存在感とこの映画全体に漂う、独特の淡い緑の色調と見事な作品構成は、暫く忘れられそうもない。>
おはようございます。
確かにダニエルは良からぬ人物です。
その背景にあるのは「孤独」かなと思いました。
しかし嘘から始まった神父劇場は、人々からの信頼を受け、それを裏切れないという思いにさせます。
無視していいことさえも、声を掛けます。
同時に7人が犠牲になった事故によって、人々の心が歪んでいるのを感じます。
彼は調和を求め、わずかではありますが町人が参加します。
その変化こそ、神父の大きな功績です。
罪人は永遠に罪人扱いする社会。赦しがないのなら、神もないのでは?という問いかけを、この作品から感じました。
おはようございます。
偽りの神父でも人々の心に響く、でもダニエルが製材所で働き、普通の人として同じ事を話しても村人達は聞き入れなかったのではないか?
立派な聖職者でも児童に対しての性的虐待の事件があった。
表面に惑わされず、大事な事を精査出来るようになりたいものです。
彼が、司祭の服を、脱ぎ、教会を、後に出て行くシーン。本来の司祭の妻の横を、通って出る時、司祭の妻の涙が、全て私は、わかってるのよ、って言ってるみたいで、私は、印象的でした。