「有権者は水俣病患者を見捨てたのだ」水俣曼荼羅 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
有権者は水俣病患者を見捨てたのだ
6時間の長編で、休憩時間を含めると7時間になる。全体として感動する場面は少なかった。反対に嫌な場面はとても多かった。特に、役人が一方的に人格攻撃を受ける場面を観て、当方自身がかつて会社のクレーム処理をしたときのことを思い出し、胸が悪くなった。クレーマーからよってたかって怒鳴りまくられた記憶である。つるし上げはいじめでしかない。とても見苦しかった。
役人たちは大抵が水俣病の発生時には役人になっておらず、よく知らない昔のことで、謝れと怒鳴られ、本気で反省していないと内心の自由まで脅かされる。そもそも役人が本気で反省することなどないことは、誰もが知っている。知事や大臣からは、何も約束しないで、兎に角その場をやり過ごせと命じられているのだ。
嫌な場面が多かったのは、公害のドキュメンタリー映画である以上、当然である。そのことで作品の評価が下がることはないと思う。原監督も、つるし上げのシーンで原告団が観客から嫌われることは解っていたと思う。
ひとつ注文があるとすれば、ドキュメンタリーなのに時系列が分かりにくいから、せめて何年に撮影したシーンかぐらいは字幕に出してほしかった。
敢えて書くが、人類の歴史は殺人の歴史である。愛の歴史ではない。戦争でたくさんの人が死んだのと同じように、水俣病でたくさんの人が死に、いまも苦しみ続けている。戦争と水俣病は違うというかもしれない。しかし当方は同じだと思う。戦争のときは国民がこぞって戦争に浮かれていた。水俣病は国民がこぞって無視している。
知事や大臣は選挙で選ばれている。政治家の仕事は予算をどのように使うかを決めることである。だから衆議院でも参議院でも、予算委員会が最も重要な委員会だ。熊本県知事が熊本県の予算の多くを水俣病対策に使うことが県民の賛成を得られることなのか。環境大臣が国家予算の多くを水俣病対策に割くことが国民の同意を得られることなのか。
本作品には、水俣病患者が要求する補償は県予算や国家予算から支出されることになるという視点が欠如している。予算であるからにはその原資は当然、県民や国民から徴収する税金である。知事や大臣が「反省しました、それでは水俣病の申請者は全員を認定します、一人当たり2億円を差し上げます」という訳にはいかないのだ。
素人考えでは、チッソを解散して、残った有価証券で水俣病被害者全員に補償、有機水銀のヘドロ対策、債権者への支払い、退職金の支給を強制的に行なう以外の最終的な解決策は思い浮かばない。そんなことが手続きとして可能なのかはわからないが、行政がそんなことをしないことだけはわかる。
諫山孝子さんはたしかジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA ミナマタ」にも出ていたと思う。水俣病は死の病だが、死に至らずとも病状は一切回復しない病気なのだと、改めて実感した。父親の諫山さんへのインタビューで、原監督が「娘を殺して自分も死ぬなんて思ってことはありますか」と聞く。もちろん、そんなことはないという回答を期待したのだと思うし、こちらもそう予想した。しかし諫山さんは「何度もあります」と言う。娘を殺すのは犯罪だが、チッソや国が自分たちを殺しても病気にしても、何の罪にも問われない、自分たちのことはせめて自分たちで決めさせてもらってもいいのではないかと、迫力のある論理を展開する。このシーンには最も共感したし、水俣病患者とその家族の苦しみが最も分かりやすく共感できたと思う。
本作品で不思議だったのが、一般の有権者のシーンが殆どなかったことだ。多分撮影ができなかったのだと思う。水俣病患者を救う政治家を選ぶのか、無視する政治家を選ぶのか。救う政治家を選ばなかったから、多くの人々が救われないままだ。有権者は水俣病患者を見捨てたのである。
原告団のひとりがみかん畑で言う「水俣で水俣病の話をすると嫌われるんです」
水俣病患者を苦しめているのは他でもない、向こう三軒両隣の普通の人々なのである。