「【レオナルド・ダ・ヴィンチに見る揺らぎと、余白と】」ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ没後500年展 ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【レオナルド・ダ・ヴィンチに見る揺らぎと、余白と】
日本のテレビなどで紹介されるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は、どれも天才的だとか、科学者としての側面もあるからか、構図や遠近法の取り方、フスマートなど技術的な側面が強調されることが多いことに加えて、ミステリー作品の「ダ・ヴィンチ・コード」のせいで、謎の人生だとか、フリーメーソンを謎の秘密結社として、それとの関わりとか空想的な話題も多い。
実際の、レオナルド・ダ・ヴィンチは、遅筆だったことや、絵の具にもこだわりがあったため、結構貧乏だったことは、あまり話題にはなっていない。
だが、海外のドキュメンタリーには、数少ないレオナルド・ダ・ヴィンチの作品かもしれない数作品の文献や分析プロセスを紹介したり、もう一枚あるはずと言われていた「ラ・ジョコンド(モナ・リザ)」に科学的な焦点を当てたものもあって、本当に興味深いものも多い。
この作品は、ルーブル美術館で行われた「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」のエッセンスを紹介したもので、センセーショナルな演出を排除しながらも、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した揺らぎや、未完の部分…、もしかしたら、余白と呼んでもいいのかもしれないアプローチも紹介する興味深い内容になっている。
キリスト教絵画で主要な題材となっている「受胎告知」のレオナルド・ダ・ヴィンチのものは、日本では、遠近法の中心はどこかとか、天使の羽を宗教的な表現を排除して、鳥の羽を模しているとか、ドレープが精緻だとか、実際に展示する位置を考えて、人物の腕の長さを調整しているとか、そういう話題が中心になりがちだが、数少ない完成品として見て、実は、このレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知には物足りなさが残る。
この映画では、生気が不足していると言うが、僕は、レオナルド・ダ・ヴィンチの他の作品と比べて揺らぎが少ないと感じる。
フラ・アンジェリーコの受胎告知には、ヴァージンで、そしてフィアンセのいるマリアが、天使に「あなた神の子供を宿しましたよ」と告げられ、明らかに戸惑っている様、つまり、揺らぎがあるのだ。
だが、映画でも学芸員が述べているように、これをきっかけに、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は大きく進化を遂げる。
人物描写や、表情についてだ。
最後の晩餐の人物の動き。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作かは未だ判断に至っていないが、フィレンツェのヴェッキオ宮の壁画となる予定だった「アンギアーリの戦い」の元絵は、物凄い動きが表現されている。
そして、神の物語を表した宗教画の人物や、肖像画には、背景にあるストーリーをもクローズアップさせる揺らぎか特徴になっていると、僕は強く感じる。
カラヴァッヂョであれば、天才的な感性で表現するのだろうが、レオナルド・ダ・ヴィンチは、科学的なアプローチを徹底していく。
超極細のペンで色を無数にキャンバスに載せていくフスマートはこの過程で確立されたものだ。
そして、虚ろとも、曖昧とも、心の中に別の感情があるのではとも思わせる表情はどうやって作られるのか。
小学生の時、読んだ詩に、モナ・リザの目というのがあって、自宅のモナリザのポスターの目は、自分がどこにいても、こちらを見ていて怖いというものがあったのを思い出す。
前は、モナ・リザの鼻を中心に縦横の線を引き、対角線のディメンションを隠すと、残った部分が、一つは笑っていて、残りはくもった表情だとか、斜め左上、斜め右上、正面から見たものを合わせたも合成の絵を描いて揺らぎを表現したのだという仮説もあったように覚えている。
しかし、これは、近年の研究では、両目、右目だけ、左目だけで対象物を見た時に、それぞれ異なるように見えることに着目して、器具なども開発したうえで、確立した表現方法ではないかとも言われていて、これは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないかと言われている作品の鑑定のプロセスでも確証を得るために部分的に採用されている。
でも、考えてみたら、モナ・リザの目が、自分を常に見ているように感じることは、この方法で描かれたとすると合点が行くように感じるのは僕だけではないように思う。
そして、多くの作品に残る未完の部分。
これにより、鑑賞する僕達に解釈の余地…というより、感性の刺激される余地が残るとしたら、レオナルド・ダ・ヴィンチは、心理学にも精通していたということになるのではないのか。
日本では、長谷川等伯が余白を大切にしたことで知られるが、ルネサンス時代に、敢えて未完成と称して余白を残し、後世の解釈に委ね、今、僕達が、息を飲むようにレオナルド・ダ・ヴィンチを鑑賞している。
これこそ、安っぽい小説とはまったく異なるミステリーで、500年という長い時を超えたレオナルド・ダ・ヴィンチの仕掛けであり、ロマンじゃないのだろうか。
僕は、最後の晩餐を、3回見ている。
修復前(正確には修復開始後だが、調査中の時)、
修復中、
修復後の3回だ。
そして、映画の中で紹介される模写も見ている。
この模写は、紹介された作者とは異なると議論にもなっていて、本当にレオナルド・ダ・ヴィンチの周りには不思議なことが多くある。
ワンコさんのように知識も鑑賞歴もあると、同じモノを観てるのに味わい方が深くなることがよく分かります。
遅まきながら、2019年3月に出版された評伝でレオナルドについて勉強中です。
まだ上巻ですが、〝天才〟の割に、ラテン語が苦手でちゃんと身に付かなかったり、幾何に比べて代数が苦手(遺稿には掛け算の繰上げを忘れた計算ミスも残ってるそうです)とかのエピソードも載っていて親密感が湧いてます(←な、なんと畏れ多いことを!)。