「国連平和維持軍の通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。 1...」アイダよ、何処へ? りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
国連平和維持軍の通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。 1...
国連平和維持軍の通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。
1995年夏、ボスニア内紛は混乱を極め、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの町スレブレニツァにセルビア軍が占拠してくる。
国連軍は最後通牒を突き付けたものの、最終的な空爆による武力行使を行われなかった結果のよる。
スレブレニツァの2万5千もの住人たちは保護を求めて国連基地に集まってくるが、基地内の収容人員がオーバーしたとの判断から、多くの住人は基地の外に取り残されてしまう。
アイダの夫と二人の息子のうち一人は基地の外に取り残されてしまい、アイダは家族の生命を守るべく奔走するが、そのうち、セルビア軍は基地に押し寄せ、男性と女性・子供を分けて移送をし始める・・・
といった物語で、中盤あたりでセルビア軍による市民の銃殺が起きる(その前、侵攻にあたっても市民を虐殺していくのであるが)。
3年近くに渡った内紛によりセルビア人たちも多くの犠牲者を出しており(つまり、殺されたということだ)、その憎しみは緩め薄めることはできず、目の当たりにしてしまえば、彼ら成年男子はすべて敵にみえてしまう。
したがって、セルビア人たちが報復するのもわからなくもない(許されるという意味ではない)。
つまり、やられたらやりかえす、殺られたら殺りかえす、それが戦争というわけであるのは言うまでもない。
で、映画はその戦争(特に報復の名のもとでの虐殺)の様子を描いていくのだけれど、映画の物語的に、家族を救おうとするアイダに焦点が絞られ、広がりがない。
観ていてつらいのは当然なのだけれど、ドキュメンタリータッチで描かれるアイダの物語だけでは、どうにもこうにも息が詰まる。
タイトルになっている「QUO VADIS, AIDA?(クォ・ヴァディス、アイダ?)」の「QUO VADIS?」は、新約聖書『ヨハネによる福音書』13章36節にある語で、死に赴く前のキリストに対する聖ペテロの質問の語と同じである。
訳せば、「(主よ)いずこへ行き給うぞ」となるわけだが、アイダがどこへ行くかが問われているのではなく、「われわれはどこへ行こうとしているのか」と問われていると心得るべきだろう。
そういう意味では、映画としての再現性は高く、意味深いのだけれど、映画的に優れているかどうかとは、どうも違うような感じがしました。