友達やめた。のレビュー・感想・評価
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マイノリティ/マジョリティの二分法的思考を超える
耳の聞こえない映画監督、今村彩子がアスペルガー症候群の友人とのギクシャクした日々を捉えたドキュメンタリーで、人間関係の本質を突いた素晴らしい作品だった。耳が聞こえないという点でマイノリティである監督は、アスペルガー症候群で人付き合いが上手くできない友人と接するうちに、耳の障害以外の部分ではマジョリティであると気がつく。反対に、その友人は身体の障害はないから、その点ではマジョリティだが、心のあり方についてはマイノリティかもしれない。切り取り方によって人はいくらでもマイノリティになったり、マジョリティになったりする。近年、マイノリティ/マジョリティという言葉はよく耳にするけど、それってそもそも絶対的な分け方なんてないんじゃないかと思えてくる。 様々な人々の包摂性が叫ばれる時代だが、マイノリティ/マジョリティを分ける切り口はいくらでも存在する。だとすれば、誰もが切り取り方によってマイノリティになりうる。ならば、人はみなマイノリティであり、同時にマジョリティでもある。これからの時代を生きる上で重要なヒントが詰まった作品だった。
友達やめてからが始まりの予感
アスペルガー症候群とか耳の不自由なろう者達の
ドキュメンタリーと思っていたけどそんな枠を超えて
私たちみんなの共通のテーマで二人の感情の爆発の場面では胸が熱くなってしまった。
お互い気を使ったり我慢してもそれは心にモヤモヤと
自責や他責の念が溜まって決して消える事なく
とうとう涙声の叫びとなって溢れ出る。
「わかる!わかるよ」と観ているこちらまで
目がうるうると頷いてしまう。
綺麗事では済まされない人間関係
ココカラが本当の始まりの気がして
気持ちが昇華された。
友達が要らないのではない
アスペルガー症候群のまあちゃんと耳の聞こえない映画監督のあやちゃんが一緒に旅行に行ったり、喧嘩したりするなかで共通の普通を探していく話。 題の「友達やめた。」のインパクトが強く、何だろうと興味が湧いた。いくら一緒に動画作ったり旅行に行ったりする友達でも合わない事はある。 あやちゃんは自分の思う「常識」とか「普通」とかと違うことをまあちゃんがしても「アスペ」だからって我慢してきたが、我慢することばかりが良いことじゃ無い。少し離れてみる事も必要だと気づく。そして、2人の間での常識や普通を擦り合わせていくことが大切なんだと気づく。 これって、アスペじゃなくても、耳が聞こえてても、言えることで、なるほどって納得した。 たまたま、今村彩子監督が尾道に来られてて、舞台挨拶の有る回の上映を観れた。 今村監督の聡明で誠実な人柄が生で感じられたのも良かった。
関係を諦めない
ネット記事でこの映画を知って、 これ絶対に私が好きなやつと思って、 幸いオンライン配信をしていたので、 即行で観ました。 まさに私が観たかった映画。 とっても面白かった! お互いに共通点があって、 しかもそれが自分の弱点だと、 仲間をえた気分になって、 仲良くなる。 すごく分かる。 はじめは気が合うと思ってたのに、 だんだん違いが見えてきて、 お互いの短所が目についてくる。 すごく分かる。 そこで私なら離れます。 関係をやめます。 まさに友達やめる。 でも監督は違う。 そんなに簡単には諦めない。 どうしたらいい関係になれるか。 悩んで考えて話し合う。 お互いの常識が何で、どう違うのか。 どうすればその違いを埋められるのか。 きちんと相手に向き合うのだ。 すごいなー 友達やめたというより、 いい人やめたという感じ。 もしくは関係が壊れることを恐れない。 我慢しないで本音をぶつける。 私はそんな風に人間関係を築けないし、 友達作らない作戦で人生を乗り切ろうとしています。 どっちでも自分に合ったやり方でやれば いいんでしょうけど、 監督の諦めない姿勢は素晴らしいと思いました。
友達は戦争の源なのだ
東進ハイスクールの林修さんも言っていたが、友達なんてそもそもいらないと思う。友達がいることの是非を考えてみればすぐに分かることだ。どういう関係性を友達と呼ぶかについても議論が分かれそうだが、一般的に親交のある人を友達と呼ぶとすれば、次に親交があるとはどういうことかとなる。親交とは気を許して付き合うことである。人はどうして他人と関わるのかといえば、ひとつは孤独を紛らすためで、ひとつは承認欲求を満たすためである。場合によっては優越感を満たすためである。 さらに言えば、複数の人間でいることは独りでいるよりも安心感がある。自分の知らないことを友達が知っていることで助かる場面もあるだろう。暴漢みたいな人間が出現してもこちらが複数なら撃退できるかもしれない。しかしそんな場合は滅多にない訳で、普通に友達と付き合うのはやっぱり淋しいからだろう。 しかし最近は一人カラオケや一人焼肉なども市民権を得ていて、独りは淋しいという感覚はなくなりつつある。独りは淋しいという感情は人間が本来持っている感情ではなく、社会によって作られた感情に違いない。淋しいと思わされているだけで、人間はもともと独りでも淋しくないのだ。 これまで生きてきた中で有意義な啓発を数知れず受けたが、その殆どは書籍からによるものだ。その他は映画や芝居、コンサート、講演会などである。友達から啓発されたことはひとつもない。しかし友達でない人から啓発されたことは何度もある。互いに友達であるという自覚のある関係になると、友達であることそのものが目的になってしまっては関係性は硬直するし、ダイナミズムも失われる。関係を維持するために互いに真実を語らないからである。忖度なしに忌憚のない意見を言うのは友達という関係性では難しい。友達でない人のほうが遠慮なく真実を言ってくれる。 ただつるんでいるだけの友達は何のメリットもなく、寧ろデメリットばかりだ。時間を束縛されるし場合によっては金銭の要求もある。「俺たち友達だろ?」とか「私たち友達よね?」などと言ってくる人間にろくなやつはいない。「友だちになった覚えはない」とキッパリ断ると、時間と金を無駄にしなくて済む。しかしそれが判るのは大人になってからだ。中学生くらいまでは孤独に耐性がないから友達の存在に依存してしまう。LINEで無視されたくらいで自殺するのはその年代か、せいぜい高校生までだ。価値観も依存してしまっているからである。自分なりの世界観、人生観があれば、他人の言葉によって死ぬことはない。 本作品のふたりは互いに相手を助ける面もあり、つるんでいるだけの部分もある。障害者同士の話だから特別かというとそうではないと思う。すべての人間は多かれ少なかれ障害者なのだという考え方もある。弱いところを理解して助けてほしいというのが友達に求める欲求だろう。しかしそれは友達だけに求めるものだろうか。自分の弱いところは友達だけでなく世間のみんなに知ってもらって助けてほしい。代わりに他人の弱いところをできる限り助ける。 人間関係の不満は損得勘定によるところが多い。自分だけが負担した、自分だけが頑張った、これだけやってあげているのに何もしてくれないなど、一方的に自分が損をしているのではないかと思うところに不満がある。友達という関係でなければその不満を相手にぶつけることができる。いっそのことビジネスにしてしまったほうがスッキリする。仕事を助けてもらったら代金を支払うのだ。その代わり、相手が困っているからといっても自主的には手を貸さない。困っているから助けてくれと言われてはじめて助ける。だったら友達である必要がない。川で溺れている人がいたら、友達であるないに関わらず誰でも助けるだろう。相手を理解して助け合う社会には友達はいらないのだ。 中村元訳の「ブッダのことばスッタニパータ」には次の一節がある。 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 (第一、蛇の章 三、犀の角より) 新約聖書には次のように書かれている。 『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 (マタイによる福音書第5章) 友達の関係は言ってみれば小さな全体主義の関係である。個人の人権よりも友達という関係性が優先される。人数が多くなると指導者と従属者が生まれ、指導者がいじめをすれば従属者も必然的にいじめに加担しなければならなくなる。それが不良集団であれば他の不良集団との争いに発展する。ヤクザの抗争や、ひいては国家間の争いと同じ図式である。友達は戦争の源なのだ。 本作品の世界観は結局のところ中途半端で、誰もが孤独に向き合わなければならないというところにまでは達していない。しかし、なあなあで済ますのが友達関係なのだという問題提起はしたと思う。
「普通」って何
「常識」って何?「普通」って何?「健常者」って何?を考えさせられました。基準は皆まちまち。「健常者」と「障害者」はどこで線を引くの?私も電話が嫌い。なのでメールとチャットを多用します。手話も便利ですね。コロナで大声で話す事が嫌われる時代は、手話をもっと広めるといいと思う。
障害とは、友達とは、コミュニケーションとは何か
ハンディキャップを持つ者同士が織りなすコミュニケーションの齟齬。しかしその原因はハンディキャップではなく心の問題。 ハンディキャップとは、友達とは、そしてコミュニケーションとは何かを、ひたすら追究してきた監督の真骨頂。 「心から分かり合える友達」とは実在するのか。衝突の連続も、コミュニケーションの一つの在り方なのだ。
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