「正しく世界を謀り、図れるものはあるのか」スパイの妻 劇場版 ありきたりな女さんの映画レビュー(感想・評価)
正しく世界を謀り、図れるものはあるのか
もう劇中の聡子よろしく「お見事!」…としか言えなかった。凄まじい本気の本気の映画だった。
あんなにどのシーンを切り取っても、画面の中の建築物・内装・衣装・髪型・照明等全て美しく洗練されている本当に素晴らしい芸術作品なのに、全セクションの本気さが終始スクリーンからほとばしっている。
静かで整った画面から秘められた熱いうねりを感じる傑作です。
★映像面について
☆光と影の美しさ
個人的に建築物や衣装のレトロさや色調が好きだったので、ポスタービジュアルの時点で優勝!と思っていたけれど、とにかくまずは照明が圧巻だった。
それだけでどういうシーンなのかがわかるようになっている。
例えば、聡子に満州の一件がバレる長回し(当たり前ですが芝居が圧巻です)のシーン。
倉庫内は基本的に暗いので全体的に暗めになりつつ、部屋の奥の方は隙間から光が差し込むので、そこに立つともれなく線状に光と影が体に映される。
特に優作はそこで満州での真実を話すので、その凄惨さや不穏さがより引き立っていたように思った。
家のシーンでは、聡子の背景によくステンドグラスが映り込むのが美しく、特にまだ何も知らない序盤では、ただ華やかさをプラスしたり、夫を想う妻の気持ちが滲み出たりしているイメージ。
私が一番印象に残ったのは、路面電車の中で2人が並んで座っていたシーン。
戦局によってアメリカに通常ルートでは行けなくなり最早”亡命”という手段しかない、と聞いた瞬間、聡子の顔のクロースアップに右の窓から光が閃光のようにぶわっと差し込み、一瞬画面を光が支配していた。
危ないと解っていながら、それはこの人の正義を貫くために共に闘える手段であるということを悟ったのだろう。おそらく不安や恐怖よりも、共に進むべき道筋が見つかったという覚悟とある種の喜びみたいなものすら、聡子から感じられた。
正解かどうかは分からないけれど、映画表現って凄いな、と呆然とスクリーンを眺めざるを得なかった一瞬。
☆スクリーン越しの視線の往来
もう一つ気になったのは、劇中映画の存在。
優作が聡子や文雄に演じてもらい撮っている、趣味の映画。
(一瞬パテ社のフィルムケースごとフィルム映ったり、映写機持ってたりするけど、あの時代に”趣味”で一式持ってるっておいくら万円?)
やがてその”映画を撮る”という行為が物語=虚構の記録ではなく、隠された真実の記録として機能していくアイテムとなる。
かつ、カメラを通して撮影する/されるという優作と聡子の関係性や視線の一方通行さを最初に提示しておいて、撮り終えた映画を上映することで、劇中のスクリーンから劇中の人々へ、更には本物のスクリーン越しに私達にも、芝居をしている聡子という体で視線が反対方向へと返されていく。
しかも、この後聡子は真実が隠されたフィルムの存在を知って、自分で映写機を回している。
つまり、撮られるだけの存在だった彼女が能動的に映像を観ようと行動を取るという変化が見て取れるし、そのフィルムの内容によって、 自ら真実を知ろうとして本当にそれを知ることになるし、
或いは映画の中の自らと視線がぶつかり、ラストにはその予想外の”視線の交錯”(=優作がフィルムをすり替えた結果)によって、死を免れることになる。
この多層的なスクリーンの構造・視線の営みに私はうっとりするタイプ(大学で専門だった)なので堪らなかった。
☆世界はフレームの中だけではない
出典は忘れたけど、一生さんのインタビューで「黒沢監督はフレームにとらわれずに撮ってくださる」みたいなことを仰っていた気がする。
私もそれを意識して観てみたら、例えば話している人間がメインにならずフレームアウトしていたり、頭や体の一部が切れていたり、本当にフレームに収めずに空間を使って芝居の動線をつけて、撮っているのだろうなと素人ながら感じた。
勿論、フレームに入る世界を徹底的に1940年の神戸として作り込んでいるリアリティとか美しさだけで惚れ惚れするようなシーンがいっぱいあるのだけれど、本来カメラによって視点を定めるはずの映像作品で、それを狭めないでこちらに委ねさせるような映像で、フレームの外にも世界の広がりを感じさせる点は、ある意味舞台的かもと思った。
★人物について
☆なぜ『スパイの”妻”』なのか
本作のタイトルが『スパイの妻』なのがすごく良いなって。
”スパイ”じゃなくて”スパイの妻”の映画であるということ。
キャスティングの理由が最後まで観てめちゃくちゃ腑に落ちた。
主演の二人と言えば、直前に『ロマンスドール』を経ているのでそのイメージも強く残っていたけれど、『ロマンスドール』だと一生さんが先にクレジットされていて、本作では蒼井優さんが先にクレジットされている。
それも両作観ればわかるけれど、今回は本当に蒼井さんが演じる聡子が全部話を動かしていくし、
特に終盤、すり替えられたフィルムですべてを察し、スクリーンの前で笑う姿が本当に凄まじい。
それから、台詞回しが本当に昔の日本映画の女優さんって感じで、第一声から衝撃的だった。
(ヒロイン像については、『キネマ旬報』の轟さんの寄稿がすごく面白かったのでぜひ。「クルッと回る」女が物語を本当に動かしていた。)
☆イセクラ的高橋一生の底力
そして、今回一生さんが夫役な理由もすごくわかる。
まず確信したのが、満州から帰ってきたシーンで抱き着いてきた聡子を受け止めるシーン。
優しく抱きしめつつ、視線の先には草壁弘子が居てそもそも聡子を見てないし、その目が全く笑ってなくて、しかも顎で「早く行け」みたいに指図しているわけで。
もうそのまなざしだけですごい高橋一生、と思った。
本当の意味では誰も見ていない、どこか感情の宿らないうつろなまなざし。
既に”この人は全部自分でやってのけるって腹括ってたんだな”っていうのが後でわかると、なおここが活きてくる。
また、彼は全部のシーンの言葉遣いが淀みなくて、スマートな所作でスーツも似合っていて、仕事もバリバリしている。本当に様になる人なのに、どこか常に不穏さと不確かさを漂わせる。
この人は目の前に居るようで、本当は居ないのではないか?
夫に対して懐疑心を募らせていく聡子と同じような感情を、スクリーン越しの我々にももたらすところが流石。
そして、終盤。後述するがフィルムをすり替え、実は全部引き受けていた優作が、
船に揺られながら霧の中に消えていくあの数秒間の、「してやられた」という気持ちと、「でも彼はそれをやると思ってた」と丸ごと腑に落ちる不思議な感覚。
聡子の狂った笑いと、レコードから聴こえる『かりそめの恋』の高い声と優雅なメロディと、溶け合って全部消えていく様、間違いなく白眉のシーンだと思った。
絶対に忘れないと思う。
これまでの一生さんの役柄でも何度も感じてきたけれど、この人ほど”不在にこそ際立つ存在”を演じたら右に出る人は居ないのではないか。
考えてみれば、そもそも本作のメインビジュアルが公開された時点で、不穏な雰囲気が感じられるポスターだったなと。
というのも、洋館の設えと上品な洋服と色調のクラシカルな雰囲気の中で、優作の側だけ写真がまさに燃えようとしている。
まるでこの人物だけ存在しなかったかのように、意図的に消そうとしているように見えるなと思っていたので、本当にその通りの結末になっていて怖くなった。
☆優作はいつどう生きられたら良かったのか
そして、優作という人物が本当にブレない人で、自分の真意をほとんど明かさず、誰かが察することも許さず、底なしに自分の”正義”への欲求に基づいてのみ行動する人間である、ある種の狂気・恐怖を感じさせるところも流石。
だって、あの妻すら敵わなかったのだから。
証拠であるノートのみをあえて通報することで行動を起こした聡子も凄いけれど、フィルムをすり替え、おそらくもう二度と会えないのを覚悟で全てを自ら引き受け、”密航者”としての聡子をあえて通報し、あの結末に至らせたのは本当に驚いた。
「あなたもよくご存知の方です」
という台詞、2回出てくるけれどそれがお互いだったなんてこの夫婦怖すぎるだろ…って正直思いつつ、 それでも、思い返すと優作は全部最初からそのつもりだったのだろうなと。
何故なら、彼はコスモポリタンかつ個人主義者であると自ら話しているし、正義という軸から決して外れないから。
個人の権利や幸福を追求するという考え方と、自分の正義や信念を通すためには命すら惜しまないという姿勢、両者とも繋がって一貫してはいるのだけど、とても危うく、そして彼は少し生まれる時代を間違えてしまったとしか思えなかった。
彼が時代の先を行き過ぎたし、時代は彼にとって遅すぎた。
…というか、今だって追い付いていないのかもしれない。
優作のような人間が生きられる時代はどこにあるのだろう?
☆「不正義の上に成り立つ幸福で君は満足か」
この台詞、最初に新宿ピカデリーの入り口の柱一面の広告に記載されていたのを見て、なんて格好良く、真実を衝いた言葉なのだろうか、とため息がでた。
でも観終わった今は、とても複雑な気持ちで帰りにそれを眺めていた。
だって、あんまりにも、あんまりにも哀しいじゃないか。
全ての言動の根拠がただ愛する人と一緒に居たいだけだった聡子と、聡子のことも愛していたけど、愛よりも正義に殉ずるしか選択できなかった優作は、どう考えても平行線でしかない。
決してその運命は交わらないだろうな、と思って本当にその通りだった。
この世界は、そしてそこで生きる人々は、愛でも正義でも、言ってみれば感情でも道理でも、正しく図って理解して、また等しく思い通りに謀ることもできないのではないかとただただ思った。
優作が聡子に「スパイではなくてコスモポリタンなのだから、君もスパイの妻なんかじゃない」と話すシーンがあったかと思う。
それから、最後に精神病院に入れられている聡子は、野崎に自分は全く狂っていないと言いながら、「狂っていないことがこの国では狂ったことにされてしまう」と話していた。
歴史の中では優作は「国家反逆者のスパイ」として”始末”され、聡子は「スパイの妻」として病院に押し込められる、その力のそこはかとない暴力性と残忍さに、私は怒りを覚えた。
そう、観終わった後一番感じたのは怒りだった。
ずっと不条理に満ちた世界に私たちは抗うことはできないのだろうかって、最後の聡子みたいに海辺でたった一人にならなければ、声をあげて泣くこともできないのかって、静かに怒っていた。どうしたらいいのかわからなかった。ただただ悔しい。
★おまけと感想
☆音楽
長岡亮介さん、元々椎名林檎さん経由でいろいろ神出鬼没なところを追ったりしているファンなので、今回本作のような映画に音楽を提供されるのは、ちょっと意外なイメージだった。
実際観ていても、全く普段のギタープレイやサウンド面からは想像できないようなクラシカルで重厚な音楽が紡がれていたので驚いた。
普段、浮雲名義でライブでふざけたりはっちゃけたりされている姿からは、失礼ながら想像できないような雰囲気。
☆結びに
NHK8K版を観たかったと思いつつ、その視聴環境をクリアした人にしか観られないのはあまりに惜しい。
映画化されて本当に良かった。関係者の皆さんありがとうございます。