劇場公開日 2020年6月19日

「愚かな人間同士で喜劇を繰り広げる」エージェント・スミス 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5愚かな人間同士で喜劇を繰り広げる

2020年6月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 クリント・イーストウッドが若い頃に監督主演した「Play Misty for me」(邦題「恐怖のメロディ」)やマイケル・ダグラス主演の「Fatal Attraction」(邦題「危険な情事」)の系譜にある作品だと思う。どちらの映画も簡単に言えば、男が欲望に負けて後腐れの塊みたいな女とヤッてしまってその後酷い目に遭う話である。
 その手の女なのかどうかは男にはわからない。外見でも区別がつかないし、職業にも無関係だ。教育があるかないかも関係がない。兎に角、ある日豹変して無理難題を言うようになる。下世話な話で恐縮だが、今日は安全日だから大丈夫などと言われるがままにしていると、後日になって「どんなに頼んでもゴムを使ってくれなかった」などと平気で言ったりする訳である。
 言葉遣いの荒っぽい女性は荒っぽく、おとなしい女性はおとなしい言葉遣いのまま、理不尽なことを並べ立てる。勿論男にもそういう人間がいる。客観的な考え方、論理的な話し方ができない人間だ。男女ともに、そういう異性(または同性)に引っかかってしまったら、それはもう大変である。どうすれば防げるのだろうか。

 本作品は邦題こそ「エージェント・スミス」だが、原題は「Above Suspicion」であり、一般的には「疑いの余地がない」と訳される。本作品では男が女を信じるのか女が男を信じるのか不明だが、信じる者が必ずしも救われるとは限らない。
 人を疑い続けるところに平安はないし、承認欲求も満たされない。人はもともと愚かな生き物であり、愚かな人間同士で喜劇を繰り広げる。そうしたくなければ人とは深く関わらないようにするしかない。性交も情交も、身体の触れ合いすらしない。異常な他人との関わりを防ぐためにはそれしかない。しかしそれだと子供が生まれないことになると思うのは早計である。もし人類がいまよりずっとしたたかになる日がくれば、人と人とが触れ合わなくても子孫を残す方法を考えるだろう。そして他人との触れ合いによる喜びよりに勝る喜びを発明するだろう。愚かなままの人類は早晩滅びるか、または愚かな喜劇を繰り広げ続けるだろう。そういう作品だった。

耶馬英彦