「15年ぶりの2作目」ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
15年ぶりの2作目
わが国最高のLGBT映画として名高い「彼らが本気で編むときは、」のように、日本映画がLGBTを描くばあい「わたしはかわいそうなLGBTでございます」と世間から虐げられていることを言挙げし同情や涙を稼ぐのが常套手段である。
わたしはAlice Wu監督のSaving Face(2004)のレビューにこう書いた。
『LGBTがうさんくさいのは、ほとんどの人間にとってのパートナーが、女が好きか、男が好きか以前に、(相手が)いるか、いないかの問題だからだ。
ゲイがさべつはんたいとシュプレヒコールしながらパレードしていても、独り身の人間にとってみれば、おまえの権利なんぞ知るもんか。──なわけ、である。
必然的にそのことに気づかない同性愛者はばかだと個人的には思っている。
とりわけ日本では少子高齢と個人主義、格差社会と価値観の分散によって、望むと望まざるにかかわらず、独り身でいる人間が多い。そして色恋から遠ざかり長く独居している彼/彼女は他者との邂逅に恐怖心を持っている。
ようするにLGBTの活動とは、そんな環境に気づかず「わたしの恋路を阻む者はゆるさん」と言っているに等しい。畢竟──おまえの恋路なんぞ、知るもんか──ということになる。わたし/あなたが男が好きでも、女が好きでも、あるいはほかのいかなる性が好きでも、勝手にすればいい話──である。
したがって映画にLGBTの謳いがあるならば、警戒する。こっちはLGBT様に反対も、賛成も、その他いかなる感慨もない。誰が誰を好きだとして、なんの関係があるだろう。
LGBTコンテンツの概要は、同性を好きなことで差別に遭い、その顛末を描いて差別はやめよう──と啓発するものだが、同性愛者がその疎外感を訴えることができるならば、パートナーを欲していながら、孤独を受け容れなければならないストレートの寂しさも訴えることができる──のではなかろうか。
なぜLGBTだけが成就しない恋愛を嘆くことができるのですか。何十億人というストレートが一人寂しく過ごしているこの惑星で。──そうは思いませんか?』
LGBTがやる恋愛も、ストレートがやる恋愛も、ただの恋愛に過ぎない。それゆえ「わたしはかわいそうなLGBTでございます」と弱者スタンスをもってくるLGBTコンテンツには(個人的に)凄まじい欺瞞をおぼえる。
世の名作、アデルやブロークバックやゴッズオウンカントリーやムーンライトやラヴサイモンや君の名前や・・・どれでもいいが海外LGBT名編が「わたしはかわいそうなLGBTでございます」と言っていますか?そんな物乞いをしているLGBT映画は一つもありません。
われわれにんげんは、だれもが、恋愛にたいして不屈の闘志を持っている。LGBTだけが相手を希求しているわけじゃない。にもかかわらず、同性愛者の愛の探求のほうが、ストレートのそれよりも高尚であるかのような扱いをうけるのが、(個人的には)気にくわない。
もしわたしが同性愛者で「生産性なし」と言われてしまったら「まったくそのとおりですよね、ごめんなさい」と謝るだろう。同性どうしで子供ができないのは哺乳類の定理だが、わたしとパートナーが同性どうしなのは、そのこととまったく関係がない。おまえら子供できないだろと言われりゃ「まったくそのとおりですよね、ごめんなさい」としか言いようがない。どこに差別があるのだろう?
(何も知らない人間の浅慮にすぎません。)
Alice Wu監督、15年ぶりの2作目。Saving Face(2004)同様、中国(系アメリカ)人のお話だが、若年層にアピールする風合いがある。レズビアンを扱っているが、普遍性のある青春映画で、エイスグレイドやレディバードやスウィート17モンスターなど、学園ものに通じる印象もあった。
わたしが感じたことはエリーチューが力強く生きていること。ラヴレターの代筆という、ネットフリックスっぽい恋愛ネタを使って、(同性愛者のトクベツな恋愛でなく)たんなる恋愛映画になっていること。徐州市からアメリカにやってきた移民であること。コミュニティに溶け込むのに苦慮していること。──映画は、それらLGBTやマイノリティや疎外感を、同情や涙を稼ぐ手段に使っていない。エリーチューは弁解せず力強く生きている。だからむしろ彼女のつらい気分と晴れ晴れした未来が伝わってきた。のだった。
ところで、設定の問題なのかもしれないがネットフリックスていうのは、どうして見たくもない映画が前面に押し出されていて、見るべき名編が後ろや奥の方にひっそり隠れているのだろうか?