「作品の背景に関する考察」ホテルローヤル SIDさんの映画レビュー(感想・評価)
作品の背景に関する考察
荒涼とした釧路湿原に面した
高台にあるラブホテル。
経営者の一人娘として育った少女の
鬱屈した日常と
ラブホに非日常や逃げ場を
求めて訪れる客や
両親、従業員らが織りなす人間模様が
繰り広げられる。
作品では波瑠演じる主人公中心に
生々しい裸の人間の姿が
オムニバスに描かれるが、
登場人物たちが暮らす地域の歴史や
社会背景にはほとんど
触れられていない。
しかし、実はここを知ると
物語は深みを増し、
蜜柑の意味も鮮明に見えてくる。
ラブホが作られたと思われる
昭和の後期、
釧路は北洋漁業の基地として
日本一の水揚げを誇った。
良質の石炭が採れる海底炭鉱。
力強く白煙を吹き上げる製紙工場。
霧と湿原で有名な釧路だが、
もともとは
漁業・石炭・製紙の三大産業の
隆盛により栄えた都市である。
昭和の経済成長期から
平成のバブル期にかけて
釧路の繁華街は泡銭を手にした
漁師や炭鉱夫、
工場労働者で大いに賑わった。
女たちは街一番の高級百貨店、
丸三鶴屋で
流行りのブラウスや高価な果物を買い
子どもたちは最上階の大食堂で
お子様ランチをほうばる…
それが市民の幸せの証だった。
エンディングで若き日の主人公の父親が、
母親に食べさせたいと箱入りの蜜柑を
買う秘話が明かされるが、
この蜜柑を買ったのが
市民自慢の丸三鶴屋だった。
百貨店での買い物は
忙しい毎日の中のささやかな贅沢であり、
買ったものを誰かに贈るのは
最大級の愛情表現でもあった。
蜜柑は夢を抱いて
ラブホ経営に乗り出した
両親の愛と夢の象徴であるとともに、
街が最も輝いていた
時代の象徴でもあるのだ。
作者は釧路出身で実家がラブホ。
丸三鶴屋と蜜柑には作者の
深い郷愁の念が込められているのではないか。
当時、釧路には
ディスカバージャパンのブーム以降、
本州や道内各地から人々が押し寄せ、
観光も重要な産業になっていった。
観光客が目指すは神秘の摩周湖や
タンチョウ舞う釧路湿原。
人口も増加して交通量が増えたため
幹線道路が急ピッチで整備されて
人や車が激しく行き交い
街は活気に満ちていた。
映画「幸福の黄色いハンカチ」で
武田鉄矢演じるキンちゃんが
フェリーで降り立ったのが
ちょうどあの頃だった。
一発当てようと目論む輩は
土地がただ同然の安価な
郊外のロードサイドで素人商売を始めた。
ラーメンと豚丼しかない
急ごしらえのドライブイン。
怪しいアイヌの民芸品や
マリモのキーホルダーを売る土産物屋。
悪趣味な装飾のラブホやモーテルも
次々作られた。
舞台となったラブホは、
そんな時代に産声を上げた。
時は流れ、平成、令和へ。
二百海里規制で北洋漁業は壊滅。
エネルギー政策の転換で炭鉱は閉山。
経済の大黒柱を絶たれた街は
光を失っていった。
昭和59年の最盛期22万だった人口は
今や16万台に。
景気の悪化と少子高齢化で中心街は
空き地だらけになった。
主人公の父親が蜜柑を買った丸三鶴屋も
平成8年廃業に追い込まれた。
多くの市民が職を失い、
生活保護世帯が増加。
若者はみな札幌や東京へ
出て行ってしまった。
残された者たちは
仕事はないが時間はあるので酒や色事、
パチンコにのめり込む者が後をたたず。
作者は残酷なまでに落ちぶれて行く
街の姿を間近に見てきたはずだ。
作品の中では、
両親の不倫や従業員家族の犯罪、
行き場を失った教師と教え子の心中等
ド底辺のエピソードが描かれるが、
釧路では実際に十分起こりうる出来事だ。
なのでこの作品の世界感は
釧路で生まれ育った作者の記憶や実体験、
地域社会への不安と
深く結びついているのではないか。
物語のエンディングで
主人公は若かりし両親が築いたラブホを廃業。
閉店した丸三鶴屋に別れを告げ
新たな人生をスタートさせる。
現実にも昭和の時代に作られた
家や会社、工場、学校、食堂、飲み屋が
廃墟と化し
釧路の街は開拓前の原野に戻りつつある。
そんな中、
最後の頼みだった製紙工場も
デジタル化とコロナの猛威により
操業停止に追い込まれた。
まもなく街にはトドメが刺される。
美しい風景とは裏腹に
人々は貧しくとも道徳的でなかろうとも
あの希望に満ち溢れていた時代の
記憶を胸に
必死に土地にしがみついて生きている。
エンディングで夜空に光り輝く
ホテルローヤルの看板。
それは栄枯盛衰を経た釧路の街で
ラブホの娘として育った作者の
青春そのものだと思えてならない。