「原作の欠点・弱点を上手くカバーして問題提起を含む骨太な娯楽作品として仕立て上げた力作。ただここで提起されている問題が解決される日は果たして来るだろうか。」護られなかった者たちへ もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
原作の欠点・弱点を上手くカバーして問題提起を含む骨太な娯楽作品として仕立て上げた力作。ただここで提起されている問題が解決される日は果たして来るだろうか。
(原作既読)①生活保護を受けられなかった事で一々逆恨みされていたら生活保護課や関連部課の担当者はたまらない。(私の場合、病気の弟が生活保護を受けられるように市役所の関連部署の人が大変親切に対応・処理してくれたので悪感情ありません。)そこで、東北大地震という未曾有の災害を絡めた事で、役所側もやむを得ぬ状況であったことを描いて、やや無理目な設定であるプロットの不自然さを薄めようとしている。原作の場合は小説であり叙述のやり方次第で読者の想像に任せられるので如何様にも書けるが、映画の場合は目で見る映像で描く為もっと具体的なリアルさが求められる。従い不自然さが目立つと映画として成功しない。その辺り上手く脚色している。②役所側も根っからの悪人はいないだろうし、業務上やむを得ぬところがあったのは同じ宮仕えとして理解できる。善人とは言い切れないような表情を見せる瑛大の演技は三好というキャラクターに真実味を与えている。③クライマックスに幹子が訴えたように、震災のような自然災害の場合、怒りの向け先がない。海や山に怒っても仕方ないからだ。だが、人間のしたことなら怒りの向け先として相手(その人間)がある。今回はそれが残念ながら殺人にまで発展してしまった。原作はケイさんの死に様を克明に語ることで殺人の方法に餓死させることを選んだことに説得力を持たせたが、映画では視覚的にケイさんの死に様を写さない。その為殺害方法の蓋然性が薄れてしまったが、あとは死を待つだけの被害者の二人の眼のアップを撮すことで(意外と衝撃的だった)観客の気持ちを別の方に向けた。幹子から生前に何故自分達は死なねばならないか聞かされたかどうかわからないが、死ぬ前に彼らは何を思ったのだろう。文章でそれを書くと原作を違う方向に持っていくからその記述はないが、眼のアップの映像だけでそれを観客に想像させるのが映画の力。④自然災害について自然界に怒っても仕方ないのと同様、この映画の中核となる生活保護の問題も本来は怒りの持っていく場がない、going nowhereだ。窓口の担当者を恨んでも何の解決にもならない。福祉制度を変えれば良いと簡単には言えるが、実際は予算の問題とか生活保護申請者の調査から漏れる人や反対に不正を働く者(恥知らずな不正受給者がいるという現実。私の近所にも長屋に住んでいながら高級車を乗り回している輩がいた)、生活保護を受けることに恥ずかしさを感じる人、生活保護を受けている人に対する世間の偏見等、問題は山積しており、何よりも全ての人を救うことは事実上無理である。それでも仕事に使命を感じている役所の人は頑張っている。⑤本作は一応ミステリー(私に言わすとミステリーと呼べる次元の小説ではないが)なので、犯人がわかり事件が解決した事で終わりだが、現実の問題はそうすっきりと解決できるものではない。だから映画としては安易に解決策を語れない(語り方によっては綺麗事に終わってしまう)。従い、問題意識のある観客は宙ぶらりんなまま放り出されざるを得ない。⑥そこで映画としてはそれぞれのキャラクターを深掘りすることで映画としてのリアリティーを確立させるという手をとることになる。先ずは阿部寛の力演、かっての男前と長身だけが売り物だった人が顔の表情だけで内面を表せる俳優になるとは。そして、清原果耶。原作では男性であった犯人を女性に変えたのは、女性であればあのような残酷な犯罪は犯さないだろうという心理的目隠しを狙ってか、この女優の演技力を頼ってか。前者であるとしたら原作にはなかったショックガンを使っての犯行という方法で説得力を持たせているがやはり彼女のように小柄な女性が大の男三人を拉致(というか運搬)するのはやや無理がある。しかし、後者であるとすれば彼女はその期待に十分応えている。いつも通り彼女は幹子という女性の様々を面を見事に描き分ける。津波に母を奪われた過去をもちながら屈託なく育ったような女子高生の顔、しかし多感なこの時期に彼女は第二の悲劇に立ち会わなければならなくなる。長じてある時は社会的弱者や貧困に喘ぐ人に寄り添い、ある時は不正支給を受けている者(千原せいじが、短い出番ながら“いるいるこんなおっさん”を好演して印象的)には毅然と立ち向かう生活保護課員の顔、自分達の出来ることは福祉行政のルールによって制限されているけれども声をあげてほしい・現状を変えたいと願う真面目な生活保護課員の顔、そしてクライマックスの殺人者の顔、津波に母を奪われて行き届かなかった福祉行政に第二の母を奪われてその怒りを殺人という形でしかぶつけられなかった或る意味でこの話の負の部分を1人で背負うことになった人間のラストの暗い表情。全てを演じ分けて並みでない若手演技派として相変わらず印象的。朝ドラでは同じ震災のその後を生きるヒロインを演じていることを思うとこの女優の幅の広さが分かろうというもの。原作では“被害者たちの酷薄な本性が変わっていないことを知った”ことが犯行の動機として語られていたが動機としては少し弱い。映画の方は、ケイさんが死んでしまったことへの抗議に役所に乗り込んだ佐藤健に対して懐柔するようなまた居丈高な対応に終始した瑛大・緒形直人に向けられた殺意を込めた目、ケイさんの焼場に駆けつけてその死の原因に荷担しながら“死んだら最後じゃないか”と一見寄り添うような発言をして善人面をした吉岡秀隆に向けられた非難と殺意とを込めた目、その目の演技だけで動機を語り尽くしている。⑦倍賞美津子は、70~80年代はバイタリティーがあって奔放な大人の女を演じて邦画界の一翼を担っていた女優だが、歳を取っても老醜を晒すことを厭わず多くの作品で老婆役を演じるその女優魂に感心する。