劇場公開日 2020年11月20日

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「いい作品だと思う」滑走路 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5いい作品だと思う

2020年11月27日
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鑑賞方法:映画館

 世の中にはいじめっ子の精神性が蔓延している。昔からそうだし、これからもそうだ。麻生太郎の悪人面を思い浮かべてみるといい、あれこそがいじめっ子の典型的な顔だ。発言もそうだ。「暴飲暴食で糖尿病になって国から医療費をもらってそれをおれたちが払っている」と言っていた。糖尿病にかかるのは長時間労働にも関わらず収入が低く、糖質主体の安い外食を食生活の中心としている人々が多い。子供の頃の食生活は本人にはどうにもできない。麻生のように金持ちで添加物のない高級食材の美食を習慣としている人たちは糖尿病にも癌にもなりにくい。
 自分の狭い価値観で世の中の弱い人々を断罪する。それがいじめっ子の精神性である。自分が優れていて相手が劣っていると考えるから、いじめることで自分の優位性を確認するのだ。そして満足する。翌日も同じように相手が劣っていることを確認したくなる。かくしていじめは相手が死ぬかいなくなるまで続くのである。セクハラ、パワハラも同じ構図だ。すべてのいじめは理不尽であり、被害者には重い精神的被害を齎す。人間はどうしていじめに遭うのか。
 何かを守ろうとする人間は、何も守らない人間に負ける。いじめられる子はいじめられていること自体を恥ずかしいと思い、誰にも言えない。いじめる人間が優位でいじめられる人間が劣位だと感じているからだ。これは子供だけの話ではなく、声が大きくて怒鳴り散らすしか能がない上司が優位になってしまうのは大人も同じだ。「おれが怒鳴ったらおとなしくなったよ」と自慢する馬鹿がいるが、ほぼ原始人である。友達や同級生、会社の同僚たちとの友好な関係性を守ろうとすれば、差別やいじめを我慢するしかない。自尊心を守ろうとすればいじめを誰にも話せない。社会のルールを守ろうとすればいじめっ子の家に火をつけることもできない。
 いじめが被害者の個人的な問題に帰せられているうちは、いじめは解決できない。少なくとも共同体が共同体としての健全なありようを目指すのであれば、いじめは重大犯罪とされて刑法で重い刑罰を科すのが最低条件だと思う。

 本作品はいじめを題材としているから、重く沈鬱な映画になってしまうのは自然だ。画面のこちら側にいる観客には、もっとああすればよかったのにと勝手な想像をするが、当事者にとっては出口も行き場もない袋小路の状況だ。親も教師も警察も天網ではないから疎にして漏らす。本作品のような酷いいじめはほぼ犯罪だから取り締まることも可能なはずだが、警察はいじめには踏み込んでこない。
 暴力や強奪をともなわない比較的軽いいじめの場合は、いじめる方にいじめている自覚がないことが多い。ただ遊んでいただけだと主張するのだ。その遊びが自分の優越感を満足させるために相手の人格を貶めることであれば、それはいじめに他ならないのだが、人間は自分に都合よく解釈するようにできている。
 人類の歴史はいじめの歴史である。人間が他人よりも優れていることに自分の存在理由を見出す精神構造を捨て去ることがない限り、いじめはなくならない。戦争もなくならない。子供を生むのは不幸を生むことだ。しかし人間は子供を生み続ける。それは不幸を生み続けることに等しいのだが、人間はそもそも不幸が好きなのである。
 本作品はいじめの構造を現実は踏まえて上手に表現している。こういう現実は世界中の至る処で起きているだろう。洋画でも邦画でも、いじめのシーンは数多く上映されているが、本作品のいじめの陰険さはトップクラスだ。被害者が逃げ出せないことを知っていじめるところが狡猾で酷薄だ。そしていじめるのが普通の子供であるところにリアリティがあった。
 いじめた人間はいじめたことを忘れるが、いじめられた側は一生忘れられず、深夜にうなされることもある。観るのに苦しい映画で光も見えてこないが、あとに残るものはあった。いい作品だと思う。

耶馬英彦