劇場公開日 2020年10月17日

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「カントのこれからの生き方が見えるね。」アイヌモシリ Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 カントのこれからの生き方が見えるね。

2025年10月27日
PCから投稿

 自分の文化を疎んじたくなり、自信が持てない主人公、カント(下倉幹人)。こんなステージを人は経験する。アイヌの生活ので生きていることは『普通じゃない』と言い切るカント。この普通じゃないと言う意味は、自分の環境も家の親の仕事もアイヌを売り物にして、観光客を集めていると言うのが普通じゃなという意味かもしれない。それに、自分のアイデンティティーがアイヌとして生まれたことにより、また、文化の一部を継承することにより、自分の自由を奪われているような気がしているのかもしれない。それに、周りを気にして生きているからかもしれない。

父の死後、カントはそれをより感じたのに違いない。阿寒のアイヌ村では1975年以来、阿寒でまりも祭りにイヨマンテの行事をしたことがないという。中心になっていて、カントの面倒も見てくれているデポはこれをおこないたがっている。でも、村人の意見はそれぞれ違う。熊を殺すことで、村人以外の人々がどう思うかも気になる人もいる。また、今、行う意味はを問う人もいる。

カントはデポに与えられて自分が可愛がっていた子熊がイヨマンテで使われて、殺されることに抵抗を示すが、デポの言葉、『亡くなったお父さんもやりたがってたんだよ』を聞いて、父親のビデオコレクションの中から、イヨマンテの儀式を探して見る。

カントとデポのつながりが、カントをアイヌの世界に導いてくれているような気がする。父親の一周忌の席で、デポは「光の森」について話す。そこの洞穴を抜けると死んだ人のいる村があると。それは伝説だと思っているカントは父親に会いたいから自分がそこに入っていけるかきく。デポは洞穴の向こうからはこちらに来られると答える。のちに「光の森」を二人は訪れるが、カントにとって、魚つりや微笑の仕方などキャンプではアイヌ文化とこだわらない文化を堪能しているように思える。子熊だって、儀式に使うと知る前は、カントにとってみれば、アイヌの文化じゃないわけだし。

あと、楽器を演奏している父親の友達の一人と山に出かけた時、カントの行動に変化が見られる。父親の友達は入山する時、山神に祈らないが、ケントはデポに教わったようにして祈る。この父親の友達も『山も森もアイヌのものだったが、今は違う、悲しい』と。そして、今の気持ちのままでいいと教えてくれる。これって、大きいよね、背伸びしなくて、悲しければ、泣けばいいいし、やりたければ、やればいい。自分を偽る必要がないから。この言葉が好きだ。

カントは長的存在のデポや楽器を演奏している父親の友達、それに、イオマンテと言う神聖な儀式の復活を通して、ふらついていた自分自身が確立してきたようだ。デポの言う言葉で、イオマンテの意味を実体験したようだ。それは、「可愛がっている子熊を神の国に送ることで、小熊が、人間の国は美しいいところだと神に伝える。それによって、贈り物として神がフクロウやクマなど、動物になって地上に降りてくる。」。カントはイオマンテの後、木のてっぺんにフクロウが停まって、地上を眺めている事実を体験した。自然界の全てに神が宿ることをカントは体験した。

(書き殴ったので、編集し直す必要がなるが、していない)

Socialjustice
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