マルモイ ことばあつめのレビュー・感想・評価
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アイデンティティ
言語と名前は自分のアイデンティティであるそして、自分まで連綿と繋がってきた祖先からの大切な預かり物である。また次の世代へと繋いでゆく大切な預かり物である。
1930年代の日本統治時代に朝鮮語の使用禁止や創氏改名を主とする朝鮮民族固有の文化への弾圧がはじまった京城。総督府の監視も厳しく、朝鮮語を守ろうとする学者たちは息を潜めて辞書編纂のために「マルモイ ことばあつめ」をしている。
総督府や警察からの弾圧や同じ朝鮮民族でも生き延びるために親日派となったであろう者たちからの妨害で難航する作業。
命がけで作業を進める「学会」のメンバーたち。そして非識字者であったが「学会」と出会い識字できることで世界が広がっていくうるさくて家族思いだがうだつの上がらないパンス。中盤のたるみをチャラにしてしまうエネルギーが後半に炸裂する。
言葉は魂であり、民族やその文化圏を繋ぐもやいでもある。その言葉をもって親が子に授ける名前は言霊の最たるものだ。
当たり前に日本語を話し、親からもらった名前と自らの意思で選んだ名前で生きていることに感謝と誇りを持とうと感じた。
118-47
文化を守る、その意義を伝えてくれた
言語とは文化の土台であり、最も基本的なものだ。存在するのが当たり前すぎて、忘れがちになるが、言葉もまた誰かが守らないとなくなってしまうようなものなのだ。この映画で描かれたように占領統治の政策で危機に陥ることもあれば、地方の方言のように徐々に標準語に侵食されていくことでなくなる場合、民族自体が少数となり使える人間がほとんどいなくなってしまうなど、様々な理由がある。
どの民族にも固有の表現があり、物語がある。土台である言語がなくなれば、それらはほとんど全て消えてしまう。この映画が描いた言語を守るという行為は、その民族の全ての文化を守ることだ。
映画館の使われ方がとても印象的だ。映画というのは、戦前・戦中・戦後も色々な国でプロパガンダとして使われたメディアだ。日本も例外ではない。その映画館で密かに辞書編集の大会議を開き、言語を守る戦いをしていたというのはなかなか皮肉が効いている。国や人種、民族の違いを超えて、文化を大事にする人々との連帯を大切にしたいと思った。
「辞書」の持つ重み
「博士と狂人」や「舟を編む」などの作品同様、本作も「辞書」の編纂がストーリーの柱だったが、言葉を集めて意味を定義するという、「辞書」の持つ意味と重みを考えさせられた。
言葉は、文化そのもの。文字の読み書きができないパンスであっても、暴力に関わる微妙な言葉づかいの違いには敏感だったり、方言集めにユニークな発想を持ち込んだりと、彼がこれまで生きてきた道のりが、辞書の内容の豊かさや正確さに繋がっていく。そのパンスが少しずつ文字を獲得し、自分の世界を広げていく様は、「言語の確立=文化の成熟」を観客に追体験させる仕掛けになっていたように感じた。
また、この映画は、その国の言葉の使用を意図的に制限するというのは、正に「蹂躙」そのもので、相手の尊厳を踏みにじる目的以外の何物でもないことをきっちりと描き出す。
劇中に登場する「日本語しか話せない少年たち」を見て、きっと誇らしく思う日本人はいないだろう。その居心地の悪さは、これからも大事にしていきたいと思う。
韓国映画の総合力
韓国映画はやはり強い。
まずテーマが圧倒的に正しい。
そして個人やローカルなどのミクロを描きながら最終的にテーマを普遍的なものに昇華させている。
更には作品独自のエンターテイメント性もしっかりと備えている。
そのエンターテイメント性も、サスペンスやアクションのシンプルなものから、逆境からの知恵や工夫による逆転、作劇の基本かつ必殺技である円環構造などによる重層的な見せ方によって、どのレベルの鑑賞者でも楽しめる作りになっている。
正しさだけでは見る気にならないし、普遍性だけでは伝わらない。
映画の難しさと面白さが詰まってる作品だと思う。
そして何と言ってもユ・ヘジン力が炸裂しててめっちゃ楽しい。
学はない彼が果たす役割の痛快さと、知識によって世界が広がる普遍的な喜びはユ・ヘジンが演じてこそだと思う。
オ・ダルスが健在(?)なら彼が演じていたかもしれないけど。正反対のキャラクターとのバディ感も最&高。
ただ、調べてみた限りだと作品中の統治に関する描写は諸説ありっぽい感じだったので、そこは判断保留として作品内の情報のみで評価したいと思う。
判断保留の部分があっても★★★★★の映画だと思います。
言葉は民族の精神を盛った器
言葉は民族の精神を盛った器
僕が敬愛する東京の牧師さん、・・もう亡くなられたが。
あの方はハングルと朝鮮語の会話を長く勉強しておられた。
「○○くん、語学を習得するということはねー、これは本当に大変なことなんですよ、ホッホッホ」。
小柄で、垂れ目で、ベレー帽が似合う。柔和な笑顔の先生だった。
1970年代、韓国でパク・チョンヒ(朴正煕)大統領が、韓国国内の民主化活動家を徹底して弾圧していた頃に、穏やかなお顔に似合わず、その民主化活動や亡命者たちの受け入れを、ここ日本の地から密かに支えていた先生だ。
「日本はね、朝鮮の人々から言葉を奪ったのです」。
先生は(日本語はペラペラに話せる世代の)韓国からの年配のお客さんと面会する時にも、先生は敢えて頑張って朝鮮語で会話をするように努めておられた・・
あれはまさしく、
《かつて言葉を奪ったことへの償い》と、
《異国の言語を学ばされた かの地の人々の 語学習得の難儀をば我が身に負うて追体験する》ためであったのだと、僕はあの笑顔の底にある強い意志というものを、はっきり理解していました。
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台詞の発音の問題 ―
本作は、映画の配役と人選について問題ありでした。
日本人の僕として観ている立場からするとかなりの混乱が起こります、
リュ代表を締め上げる「眼光鋭い制服の男」の喋り方が、これが
「総督府の役人で内地から派遣されてきた『日本人』官憲の人間」なのか、それとも
「朝鮮の人間なのだが率先して日本の手先になった=創氏改名を済ませた『地元民』」の哀しい姿なのか、
・・恐らくそこまでの深読みはなしで、脚本上前者なのだと思いますが、あの日本語の発音を韓国人キャストの口を通して我々が聞くとき、どちらの立場の人間なのかがちょっと判明しなくなるのです
あのへんは日本人俳優を一人立てて使うべきだったのではないかと、日本と韓国の両鑑賞者のためにも、これは残念だった点です。
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邦画で
「辞書編纂」がテーマになった映画といえば、加藤剛、松田龍平、宮﨑あおいの「舟を編む」が名作でした。
膨大な数の言葉カードを収集し、生きている日本語を丹念に辞書に分類し 残していく、あの地道な作業。
あれに心動かされた人ならば、本作「マルモイ」( =朝鮮語で辞書作成のための「ことばあつめ」)もご覧になったら良いと感じました。
劇中、何度も京城(キョンソン)駅が登場します。
主人公リュ代表にぶつかってきた駅前広場の男の子の、咄嗟に出た言葉
・男児「すみません」
・リュ「朝鮮民族なら朝鮮語を話しなさい」
・男児「朝鮮語は話せません」。
言葉を失うリュ。
日本政府の出先機関=朝鮮総督府の命により、学童の世代から粛々と確実に、教育の力で、母語と民族へのプライドを失わせていく“植民地における同一化政策”。
親世代と子世代・孫世代が家庭内で会話しづらくなる。そうやって民族の魂と結束を壊していく。
植民地政策の悪魔性です。
これが逆の立場だったらどうだったかを、僕らは想像してみるべきではないか・・
石川啄木の金字塔
「ふるさとの訛り懐かし停車場に
人混みの中に そを聞きにいく」
・・この句が誕生しなかったかもしれないのだから。
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◆「第二次世界大戦後、独立を回復した国の中で唯一自国の言語を取り戻した国家となった」
このラストのナレーションはあまりにもあまりにも重たい。
◆DVDを2枚購入した、
1枚は北海道で機関誌「アヌタリ・アイヌ」(われら人間)を主宰している友人に、
1枚は沖縄で琉球語の伝承と琉球独立学会に携わっている友人へプレゼントだ。
タンポポの綿毛は、ふわふわと頼りないが、命を秘めて風に乗り、人の心に言の葉を芽生えさせる。
歴史は人々の思いでできている
1910年に韓国が併合され、
1919年に三・一独立運動が起こった。
1939年には創氏改名が実施され、韓国の8割の人が日本式の苗字を届け出た。
(ちなみに、この映画は1939年が舞台だと思われます。創氏改名が登場しますから)
と、教科書で、こんな事実を習ったはずですが、
歴史には、詳細な事実(人々が日常で体験したこと)は、記述されません。
ましてや、そこに生きていた人々の気持ちは、なかったかのごとくです。
「ひとりの百歩より、百人の一歩が大切」
代表と呼ばれていたリュ・ジョンファンが、子供のころ、心に刻んだ父親の言葉です。
時は過ぎ、その父親は中学校の校長として、皇民化の教育に加担している。
父親を責める息子に、父親は言います。「昔は独立できると思っていた」
「昔」とはもしかしたら、三・一独立運動のころのことでしょうか。
しかし、20年の月日は父親を変えた。
同じ日本人になる、という巧みな、
しかし、現実には差別的な扱いのもと、
牙を抜かれていく同朋たちの中での20年。
片や、外国留学から帰ってきて、20年前の思いそのままの息子。
父親が現実と折り合ったからこそ、得られた収入があり
その資金が支えた外国留学が、現実と抗う息子を育てたという皮肉です。
元スリのキム・パンスには、息子との間に逆パターンの分断があります。
生まれた時から併合下にあり
あたりまえのように日本人に殴られる環境下で育った息子。
アウトローの父親とは、気持ちが通じるはずもありません。
共通のアイデンティティーを失うということは
親子の間にさえも分断を生み出すということです。
だからこそ、アイデンティティーの源泉のひとつである言葉に
命をかけた人々が存在した、ということなのです。
『皇民化政策』『創氏改名』という単語に、
命を吹き込んでくれたこの映画に感謝です。
「もしもOOだったら…」というフィクションとして楽しむにはよいですが、史実と考えると大きく間違えてしまいます。
前提の世界観がずいぶんとおかしいという指摘を見かけて、早速鑑賞してみました。
確かに問題が多いですね。
朝鮮語研究は日本による支配の最終盤まで盛んにおこなわれていたことを忘れないようにしたいところです。
「植民地支配を強化するために研究していた」という反論が出そうですが、とりあえず、「禁止されていた!」というのを撤回してから話をした方がよさそうですよ。
「もしも坂本龍馬が女だったら!」という類のフィクションとして楽しむのは良いですが、史実かの世ように語っては罪が深いと思います。
当時の研究書がデジタルで閲覧できます。
「朝鮮語方言の研究」小倉進平著 で検索してみてください。
楽しく感動しました
コロナ禍の中、韓国ドラマや映画にハマり、目下韓国語と歴史を勉強中です。
韓国語講師のお勧めで見てみましたが本当に良い作品だなと思いました。
強国に尊厳を否定される事は何国人であっても嫌なことだと思うので、私も一個人として感情移入できました。韓国の人が大日本帝国を否定するのは当然のことなので、反日だのどうのと騒ぐこともないと思います。
韓国人の先生曰く「この内容の作品を禁止しない日本は素晴らしい国です!」
そういう日本を大切に守って行くことが大切なのだと改めて感じました。
韓国作品の常ではありますが、日本人が日本人と感じられない発音なので−★です。
日本人にとってだけでしょうが、そのたびリアリティがぐっと下がり、ああドラマなんだなと興ざめするからです。
戦時下に文化を守ろうと抗った人々の物語
戦時占領下の逆境下で自らの言葉、名前などの文化を奪われていく市井の人々の闘いを描いた作品。残念なのはその略奪者が日本であったこと。当時の国際情勢下で植民地に自国の言語や文化を強制することは日本に限らず列強が行っていたとはいえその苦しみと抗いを知ることができる。フィクションや脚色を差し引いても出演者の演技や物語は魅力的でした。
言葉には精神が宿る
言葉を奪う。一見地味に見えて結構残酷。
言葉には精神が宿り人が集まる。
それを守ろうとする大義は、
映画を観るまでは言葉なんて別に、と思ってたけど
分かる気がする。
現に辞書を作るために何人もの人が命懸けで集まってるのを
見て胸が熱くなりました。
韓国、北朝鮮。対する日本。
知らない事が多過ぎて、こんな事をしようとしてたのか!
と勉強になった。
嫌韓の人もいるし、日本が嫌いな韓国人もいるのは
分かる気がしたけど、
何も知らない僕には嫌いになれる理由もなく、
歴史を知っても仲良くありたいと思う。
あの、こっそり郵便物を届けてくれた人のように
いたいと思う。
2本立て2本目。戦争の悲劇。 言葉は民族の命。奪えるものではない。...
2本立て2本目。戦争の悲劇。
言葉は民族の命。奪えるものではない。必死に母国語を守る姿に心うたれる。
ただ、これを見て日本人って何て悪いことしたんだ、朝鮮民族に謝らなければ…と、ようやく脱却できつつある自虐史観に戻らないようにしてほしい。これはあくまでも時代の悲劇なのです。
日本は反省し、謝罪もし、お金も出しました。もうそろそろ互いに前を向くべきなのです。ところが行き過ぎた反日教育が邪魔をしています。教育って怖い。今、この悲劇に気づいた両国民が増えつつあるのが救いです。
それさえ気をつければ映画は凄く面白いです。韓国映画、素晴らしいです。完全に邦画は遅れをとっていると思う。競い合うならこんな部分でやって欲しい。
韓国の女優さんは超絶美しいのに、なぜ男優さんは野暮ったい人が多いのですか?…すいません、完全なる負け惜しみです(笑)
戦争がもたらす悲劇
日本の植民地化された朝鮮半島の、母国語「ハングル」の辞書を作るために必死に戦う同志の物語。
なんか切ないよねこの物語、戦争のために母国語も奪ってしまう醜さが、皮肉にも良く描かれている
韓国と日本人のことを、改めて考えるいい機会です
「言葉」の概念、役割、あり方、色々考えさせられます。
まずこの映画を見ていて最も痛感するのは、日本人が潜在的に持っている(かのように感じる)"比較視、差別思考、優劣付等"の民族気質を、再実感させられ、恥じました。
映画の作り手(監督、脚本)は、"パンス"を設定させて、構成させることで、単なる社会、文化の歴史映画の枠を取り外すことに、成功しています。
逆説的に分析すれば、虎さんみたいなパンスを主役にストーリーを進めることで、日本人にも、毛嫌いされずに、見てもらえる、との確信も感じます(巧すぎます)。
過去の特定な日本人の過ち、と気楽に見てはいけないです。たった7、80年前の日本の話でもあります。
1人の10歩より10人の1歩
韓国に初めて行ったのは90年代でしたが、道を尋ねるため同僚の一人が韓国人のおじさんに英語を駆使して説明してもらおうとしてました。英語がさっぱり通じないらしく、慌てて日本語に切り替えて質問すると、日本語で丁寧に道を教えてくれました。あ、日本語通じるじゃん!と、当時は何も知らず、韓国=日本語OKと単純に理解してしまいました。それでも“弁当”にあたる朝鮮語“トシラク”が無くなりつつあるとかのエピソードもビックリです。そーいや、家族、約束、記憶、無料とか似たような韓国語がありますもんね。
1910年の日本による韓国併合以来、朝鮮語を話せない者が増えていき、1940年代には民族精神消滅政策がとられていた。全国の学校では朝鮮語が使用禁止となり、“国語”の時間には日本語が教えられていた時代の物語。朝鮮語を守ろうとするリュ・ジョンファンが朝鮮語学会にて辞書(マルモイ)編纂を目指して早10年が経ち、総督府の官僚からはずっと監視されている状態だった。
学校でそれまでの母国語が禁止される。戦争や植民地化された国にはよくおこる悲劇だ。創氏改名に関しては映画でも強制的ではなかったように描かれているけど、戦争が激化する中、単なる親日派としてではなく、皇国臣民として中学生を徴兵するために日本式の名前に変更させられた事実も描かれていた。
物語は史実をもとにしたフィクションであり、朝鮮語学会の地下活動として辞典を作ろうとしていたリュとスリのキム・パンスの物語。パンスの刑務所仲間の存在や、学会のメンバーも身内が刑務所内にいたりする設定が上手く生かされ、手入れや拷問、密告などスパイ的な内容にも驚かされました。さらにパンスが非識字者であり、徐々に文字を覚えていく様子も見事。最も効果的な伏線はたんぽぽ、枕、映画館や“信用”でした。
1人の10歩より10人の1歩。朝鮮人として日本からの独立を果たすための同志を集め、辞書を作ることで母国語を保存しようとする非暴力革命の様相を見せていた。そんな彼らの熱い闘いには思わず涙してしまう。
残念なのは日本人役を韓国人が演ずることでの日本語の違和感だけ。それでもちゃんと日本語字幕がついているのでストレスも感じない。日本人俳優がこうした韓国映画に出演できるのはいつのことになるのやら・・・
荒んだ自分にはいい話過ぎたのかも知れない
1910年から35年にわたる朝鮮の日本統治時代。日本人が行った悪業の数々は周知の事実となったが、今作はそれらを分厚いオブラートに包み、言語に焦点を絞った一大エンターテイメントであった。
時は1930年代から40年代へと。日本語を話すことを強要されながらも自分たちの言葉を守ろうとする人たちがいた。多数存在する方言をかき集めて全国統一の辞書を編纂するという高い志があった。
優れた脚本とユ・ヘジンの名演で感動的なドラマが生まれた。館内のあちらこちらから嗚咽が聞こえてきたのも久しぶりだった。しかし荒んだ自分には少しいい話過ぎたのかも知れない。
反日映画?否、精神・文化を守る意味を問う映画です。
私にとってのこの映画は、非常に有意義な2時間をくれる作品でした。
一見、反日的に受け止められがちな物語設定ですが、個人的には、反日的意図は感じられませんでした。
一方、本作品は、文化から育まれる人々の精神をどう守り、育てるかを問うものだと認識しました。
現在(2020年8月時点)、香港で繰り広げられている言論弾圧のように、人々の自由意思や意思決定権をを制限することに、『NO』と訴えるような作品です。
一部に、『史実と異なる』との批判があるようですが、『史実』は捉え難いものですので、私は史実に忠実かどうかで評価はしないようにしています。
史実かどうかは少し横に置き、この作品の伝えたいメッセージを少しでも多くの方が考察・共感してくれると良いと思います。
追伸
コロナ禍で新作映画の公開が見送られつつあるなか、本作品(2019年公開)のような隠れた名作を公開する映画館が増えることを祈ります。
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