「シナリオ通りの裁判」粛清裁判 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
シナリオ通りの裁判
最後の最後に驚かされる。そして思う。この裁判は何だったのか。
作品としてもそう思わせるのが狙いのひとつであっただろうと思うが、これがフィクションではなくドキュメンタリーであるところが凄い。ソ連は恐ろしい国だ。そしてスターリンの独裁ぶりは空前絶後である。
裁判は舞台だ。被告人たちと裁判官、検察官が登場人物である。本当の裁判は舞台裏で秘密裏に行なわれている。そこでは、存在しなかった産業党なる秘密結社が反政府活動を繰り広げたという台本が配られ、逮捕され収監された人々はそれぞれ何らかの役割を持ってそれに加担したことにされる。被告人を演じさせられるのだ。
確かに彼らが反政府的な言論を繰り広げていたのは事実だ。しかしそれだけでいきなり逮捕され、クーデターを計画していたことにされ、そして裁判で反省と命乞いの発言をするように命じられるのは理不尽極まりない。にもかかわらず、逮捕された誰もがこの理不尽に無条件に従って、架空の被告人を演じている。
裏でどのような恫喝や脅迫や拷問や取引があったのかは明らかにされない。しかし大学の教授など教養のある識者たちが従わざるを得ないような状況であったことは間違いない。ソ連という国に、権力に対する恐怖感が充満していたということだ。
裁判では五カ年計画、ボルシェビキ、プロレタリア、大衆、ブルジョアといった言葉が飛び交う。ロシア革命で使われた概念である。これらの言葉は民衆を操るためにも使われる。
権力者が権力を維持するためには、国家の敵を想定する必要がある。ソ連では帝国主義者たちであり、破壊分子である。いなければでっち上げればいい。そこで独裁者スターリンは産業党なる秘密結社を想定し、加担した人物を想定する。裁判にするためには実在の人物でなければならない。日頃から反政府的な言動を繰り返す人々はこれにうってつけだ。かくしてシナリオ通りの裁判が幕を上げる。
無知な民衆はまんまと独裁者の芝居を現実と思い込み、プロレタリアの敵、帝国主義の破壊分子たちに死の報いを要求して、デモ行進をする。この様子を見てスターリンはさぞかし満足したに違いない。検察官は民衆に迎合するかのように革命の大義名分を勇ましく並べ立て、被告人たちを糾弾し、全員に銃殺刑を求刑する。聴衆は拍手喝采だ。
そして判決。裁判長は検察官に負けず劣らず勢い込んで判決文を読み上げる。気負いすぎて咳き込むほどだ。銃殺刑を含む重い判決文の読み上げが終了した途端、それに歓喜する聴衆たち。スターリンの奸計に嵌められた彼らにとって、いままさに正義が行なわれたのだと感激していたに違いない。他人の死刑を歓喜するという精神性は、観客の立場から見ると狂っているとしか思えないが、それがソ連という国なのだ。
求刑の際に喝采を浴びた検察官の末路が銃殺刑だったことが最後に紹介されていて、それにまた驚く。裁判長の横でずっとタバコを吸っていた男の正体は何だったのだろう。傍聴席でもタバコを吸う人がいて、裁判の間ずっと誰かの咳が聞こえていた。そういう時代だったのだ。
いまは裁判中にタバコを吸う裁判官はいないと思うが、権力者が架空の敵を想定して国民を操る事例は未だにある。代表的なのはブッシュ大統領(息子)によるイラク攻撃だ。ありもしないWMD(大量破壊兵器)をあると言い張って、イラクの民間人を何十万人も殺した。権力者による殺人だ。
本作品で紹介された権力者による陰謀はひとつの典型で、世界各地で同じようなことが起きていると考えるのが自然である。決して特殊な事例ではないのだ。