「出汁が染み出して料理を覆いつくす。」キネマの神様 who am iさんの映画レビュー(感想・評価)
出汁が染み出して料理を覆いつくす。
裏側にあるものなんですよ。
味わうべきものが。
ただそれが裏側にとどまらずに、にじみ出るように前面に出てきて、ついには映画を覆いつくす。
そんな映画だと思いました。
ちょっと何言ってるかわからないかもしれないですが笑。
演出とか、キャラクターとか、その演じさせ方とか、その辺はコテコテの山田節かと思います。
なんて、そんなにたくさん山田監督の作品見てるわけでない自分が言うのもおこがましいにも程がありますが、、
「肝臓によくないってね」と言いながらお腹をポンポンと叩いてみせるとか、「熊手で草集めて」って言いながら熊手を使う仕草してみせるとか、もうなんか、見てると古臭いなーって。
「昔の映画に出てくる食堂の看板娘」というジャンルの見本のようなヒロインもね~、なんかこう、見てると体がむずがゆくなってくるというか・・・。
ただもう監督は80代後半でいらっしゃるので。
自分の中にあるものを誠実に描こうとすると、こうなってしまうんだと思う。
その誠実さはハンパないと思うし、それを形にするエネルギーもとんでもないと思います。
細部にこだわり抜いた画面から伝わってくる、オーラがある。
でも本当に伝わってくるのは、その向こうにあるもので・・・。
ふと気が付くと、強烈な切なさが画面から発生られている。
あれ?さっきまでやっぱ古いなーとか思いながら見てたはずなのに、、いつのまにか登場人物たちの夢や、愛や、悲しみが、すっかり見ているこちらのまわりを覆っている。
そう、愛とか、夢とか、そんな言葉にすればするほど薄っぺらくなるものの、言葉の本当の意味するところというか、そういう普遍的なものを、なんていうか、もっとストレートに大事に思ってもいいんだって、言ってくれているような。
強く、強く言ってくれているような・・・。
見終わる頃には、そんな気持ちになっていました。
沢田研二の演技もそうでした。
最初は、やっぱり志村けんで見たかった!と普通に思いました。
声が良すぎて不自然だし、笑える感じじゃないし、誰か別のコメディアンにでもやらせた方がよかったんじゃないかという気もしました。
それで、志村けんだったらどうだったろう、と頭の中で置き換えながら見ていたのですが・・・・。
そうすると、不思議と違和感がないのです。
しゃべり方、表情、仕草に、驚くほど志村けんを感じました。
自分の中の志村けんを、心に描きながら、本当に彼になりきって演じていたのではないでしょうか?
それは、成功していたと思います。
後半は、沢田研二演じるゴウちゃんを見て、何も考えずに普通に笑うことができていました。
もう普通に面白かった。
そしてそれ故に、強い思いを感じました。
亡くなってしまった志村けんの代わりを務めるという状況もひっくるめて、この沢田研二の演じたゴウちゃんは、志村けんが演じたらこうなっていただろう、というのとはまた別の、特別な魅力があったと自分は思います。
新型コロナの状況をあえて挿し込んだのも・・・・、確かに、あのラストシーンで、空席に貼った×印が邪魔に思えないではなかった。
ただこれは、どこまでも現実から逃げてるわけではないってことでしょう。
夢のような、言ってみれば絵空事ばかり描いてる映画の世界であっても、いつもそこに映し出そうとしているのはどこまでも、我々が笑い、泣き、悩みながら生きている現実の世界で・・・・、だから山田洋次監督の映画は、演出とかテイストとか全然好みじゃなくっても、いつも何か「こちら側」に立ってくれているような気がする。
だから新型コロナも、なくても全然成立したとは思うけど、あったらあったで、作品に確かに意味を与えていたと思う。余分な要素と思えるようなものですらも、逆にそれがなかったら違う作品になってしまうと思えるような、すべての要素がつながって、その裏側にある思いを訴えかけてくるような映画でした。
気がついたらそれに飲み込まれて、至福の時を味わっていました。
エンドロールの最後の「志村けんさん、さようなら」という文字が、「ちゃんと作り上げましたよ、この作品」と、どこか誇らしく報告しているようにも見えました。
who am iさん、コメントありがとうございます。
ほんと、山田洋次は庶民派の監督さんですよね~
細かな昭和の描写はたまりませんでした。
金の腕時計は渡した直後からチェックしましたけど、
その数十秒後の現代のパートで映されてましたから見つけるのはたやすかったです。